rrbのブログ - 2016/01のエントリ
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天を仰いで思うこと 事実と意見 2016/01/29 12:00 am
他人が言ったことなどで、事実と意見を分けてとらえることが大切である。次の言葉で、事実と意見を分けてみよう。
「あなたは最低な人だ。私はずっとまっていたのに飲み会に参加するなんて。どうせ私より仕事のほうが大切なんだろう。みそこなった。」
さて、この中で客観的事実は、「私は待っていた」「相手は飲み会に参加した」の2つ。「仕事のほうが大切」「最低」「がっかりした」は主観的意見である。人間関係がおかしくなるひとつの理由に、他者の思い込みの意見に気をとられ、重大事として悩み翻弄されてしまうことがある。意見は意見として冷静に聞き、事実だけに目を向けて対処することが大切だ。
事実と意見を自分の中で明確にし、事実にだけ反応するようにしたい。しかし、何を基準に事実とするかが問題だ。たとえば相手が言い訳をしたとする。「言い訳をした」というのは事実であり、言い訳の内容は主観的意見なのである。言い訳の内容を事実とするにはそれなりの証拠が必要となるのである。ややこしいね…と、天を仰いで思うこと。
「あなたは最低な人だ。私はずっとまっていたのに飲み会に参加するなんて。どうせ私より仕事のほうが大切なんだろう。みそこなった。」
さて、この中で客観的事実は、「私は待っていた」「相手は飲み会に参加した」の2つ。「仕事のほうが大切」「最低」「がっかりした」は主観的意見である。人間関係がおかしくなるひとつの理由に、他者の思い込みの意見に気をとられ、重大事として悩み翻弄されてしまうことがある。意見は意見として冷静に聞き、事実だけに目を向けて対処することが大切だ。
事実と意見を自分の中で明確にし、事実にだけ反応するようにしたい。しかし、何を基準に事実とするかが問題だ。たとえば相手が言い訳をしたとする。「言い訳をした」というのは事実であり、言い訳の内容は主観的意見なのである。言い訳の内容を事実とするにはそれなりの証拠が必要となるのである。ややこしいね…と、天を仰いで思うこと。
意見を事実にするには、物的証拠が必要なんだなぁ〜
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おやかまっさん エッセンシャルかトリビアルか 2016/01/28 12:00 am
エッセンシャル(本質的)な問題か、トリビアル(瑣末・さまつ)な問題かに分けてとらえる。エッセンシャルな問題とは、生きていくうえで本質的・不可欠な問題であり、生命・財産・身体に実害をおよぼす要因かどうかということである。命に関わる自己や、生命保険やローン、大病をわずらうことなどが当てはまる。
トリビアルな問題とは、人生にとってどうでもよいこと、とるに足らない問題のことである。生命・財産・身体に影響がなく、放置しておいても何も問題がないもののこと。他者からの批判や自分のメンツが傷つけられたことなどがこれに当てはまる。
人から非難されたりすると、過剰反応して仕返しをしようとする人がいる。そうしているうちに、ますますエスカレートして、収拾がつかなくなることもある。些細なトリビアルな問題は、重大事として扱う必要はなく、トリビアルに扱えばよい。実害を及ぼすエッセンシャルな問題だけに注力するように…ということだ。
わかっちゃいるけど、理不尽な批判には反応してしまうのよね。それが人間ってもんだ…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・堀川》
トリビアルな問題とは、人生にとってどうでもよいこと、とるに足らない問題のことである。生命・財産・身体に影響がなく、放置しておいても何も問題がないもののこと。他者からの批判や自分のメンツが傷つけられたことなどがこれに当てはまる。
人から非難されたりすると、過剰反応して仕返しをしようとする人がいる。そうしているうちに、ますますエスカレートして、収拾がつかなくなることもある。些細なトリビアルな問題は、重大事として扱う必要はなく、トリビアルに扱えばよい。実害を及ぼすエッセンシャルな問題だけに注力するように…ということだ。
わかっちゃいるけど、理不尽な批判には反応してしまうのよね。それが人間ってもんだ…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・堀川》
人には感情があり、その感情が正しい判断の邪魔をすることがある
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おやかまっさん 人間関係、4つの対処法 2016/01/27 12:00 am
心理学の世界からの話をひとつ。人は、生きていく中で、必ず人間関係の問題に悩む。どんな人でも、2:6:2 または、2:7:1 といった分布で、好きな人・普通の人・嫌いな人が存在するといわれている。すべての人に好かれている人もいなければ、すべての人を好いている人もいない。嫌いな人や苦手な人が10〜20%ほど存在しているということだ。
人間関係で苦しいと思ったときの対処法は4つあるとされている。
(1)エッセンシャルな問題かトリビアルな問題かに分けてとらえる。
(2)事実と意見を分けてとらえる。
(3)最悪の事態はまずない」と開き直る。
(4)怒りの感情をコントロールする。
続きは次回にする…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・大映通り商店街》
人間関係で苦しいと思ったときの対処法は4つあるとされている。
(1)エッセンシャルな問題かトリビアルな問題かに分けてとらえる。
(2)事実と意見を分けてとらえる。
(3)最悪の事態はまずない」と開き直る。
(4)怒りの感情をコントロールする。
続きは次回にする…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
《京都・大映通り商店街》
rrbは心理学も勉強していたよね
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おやかまっさん チョー(超)の大和言葉 2016/01/26 12:00 am
「町で□□さんを見かけたけど、チョーいけてた」「このお菓子、チョーおいしい」 老若男女を問わず口にする「チョー(超)」。人や作品などを評価する言葉に、ごく短い接頭語「チョー」をつけるだけで、その言葉の意味する程度を「超える」ことを表現できるのだから、とても便利な言い方である。しかし、あまりに頻繁に使われているため、本当に「超えているのか」がマヒし、聞く人の心に響いている印象がない。この「チョー」は大和言葉ではどうなるか、というのがきょうの掲載。
一番のおすすめは「このうえなく」である。人や作品などを評価する際に、「このうえなく素敵だった」「このうえなくおいしい」という使い方である。漢語では「最高に」「最上に」となるが、響きとしては「このうえなく」に勝るものはない。しかし、大和言葉の使い方にも注意が必要だ。それは、「使いすぎないこと」だ。使えばきれいで独特の印象を与える効果がある大和言葉だが、続けて使ってしまうと、むしろ鼻につく。続けて使ってしまいそうなときは、一度だけにして、その後は、「とても」とか「非常に」といった当たり前の言葉で我慢することも大切なことだ。
さて、高い評価に関する「チョー」は、ほぼ100%「このうえなく」に言い換えることができる。しかし、「心を打たれた」「感激した」と言いたいときは、「このうえなく」よりも優雅で適した言い方がある。それは「いたく」である。「いたく」は漢字で表すと「痛く」である。つまり、痛みを感じるほど強く心を打たれた、ということである。「いたく」は、ちょっと古めかしい言葉であるが、その分、効果も大きい。
もう一つ、「チョー」に代わる言葉がある。「懐かしむ」「愛する」という語の前に、その度合いを強調する言葉をつけたいときは、「このうえなく」よりも「こよなく」が似合う。「ふるさとをこよなく懐かしむ」「家族をこよなく愛している」といった使い方だ。
現代の言葉づかいで多用されている「チョー」は、「このうえなく」「いたく」「こよなく」という大和言葉で表現できる…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
一番のおすすめは「このうえなく」である。人や作品などを評価する際に、「このうえなく素敵だった」「このうえなくおいしい」という使い方である。漢語では「最高に」「最上に」となるが、響きとしては「このうえなく」に勝るものはない。しかし、大和言葉の使い方にも注意が必要だ。それは、「使いすぎないこと」だ。使えばきれいで独特の印象を与える効果がある大和言葉だが、続けて使ってしまうと、むしろ鼻につく。続けて使ってしまいそうなときは、一度だけにして、その後は、「とても」とか「非常に」といった当たり前の言葉で我慢することも大切なことだ。
さて、高い評価に関する「チョー」は、ほぼ100%「このうえなく」に言い換えることができる。しかし、「心を打たれた」「感激した」と言いたいときは、「このうえなく」よりも優雅で適した言い方がある。それは「いたく」である。「いたく」は漢字で表すと「痛く」である。つまり、痛みを感じるほど強く心を打たれた、ということである。「いたく」は、ちょっと古めかしい言葉であるが、その分、効果も大きい。
もう一つ、「チョー」に代わる言葉がある。「懐かしむ」「愛する」という語の前に、その度合いを強調する言葉をつけたいときは、「このうえなく」よりも「こよなく」が似合う。「ふるさとをこよなく懐かしむ」「家族をこよなく愛している」といった使い方だ。
現代の言葉づかいで多用されている「チョー」は、「このうえなく」「いたく」「こよなく」という大和言葉で表現できる…ということで、どうも、おやかまっさんどした。
超と蝶をかけたの? それにしても大和言葉、シリーズ化しそうな空気があるねぇ〜
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◆◆なう 大和言葉(やまとことば) 2016/01/25 12:00 am
夢はいまもめぐりて 忘れがたきふるさと ♪
唱歌「ふるさと」は、日本人の心に染みる。その理由のひとつとして、歌詞のすべてが大和言葉であることが指摘されている。大和言葉とは、太古の昔に創り出された日本固有の言葉であり、あるいは、その伝統の上に生まれた言葉である。「山」「川」「夢」「ふるさと」、すべて大和言葉である。
日本語の単語は、漢語と外来語と大和言葉の3種類がある。漢語は中国から取り入れられた言葉で「山地」「河川」などである。漢字の読みで言えば、音読みで発音されるのが漢語となり、訓読みとなるのが大和言葉である。外来語は中国以外から来た言葉で、多くはカタカナ表記となっている。
本とか論文などの冒頭に使われている「はじめに」。「はじめに」は大和言葉であり、同じ意味の漢語は「開始」、同じく外来語は「スタート」となる。
大和言葉が日本人の心に染みるのは、日本の風土の中で生まれた言葉だからだ。
たとえば、「地面が盛り上がったところ」は、先祖たちにとって「や」「ま」という2つの音で表すのが一番しっくりきたのだろう。だから「やま」になった。つまり、大和言葉の一音一音が先祖たちの感性の投影である。もうひとつたとえば、「ふるさと」は、同じ意味の漢語は「故郷(こきょう)」である。漢語の「故郷」はその単語をひとつのユニットとして認知し、意味を理解するが、大和言葉の「ふるさと」は、「ふ」「る」「さ」「と」の一音一音が心に響くのである。冒頭の「ふるさと」の歌詞の最後の部分を「故郷(こきょう)」にしてみると、響きの違いがよくわかる。
このように大和言葉には、「心に染みる」特性があるといえる…という神戸なう。
《神戸》
言葉の乱れは生活の乱れ。優雅な言葉づかいができると素敵だね