rrbのブログ - 2016/02のエントリ
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今京都 先斗町 2016/02/25 12:00 am
♪ 富士の高嶺に 降る雪も 京都先斗町に 降る雪も 雪に変りは ないじゃなし ♪ と《お座敷小唄》にもある先斗町を久々に歩いた。先斗町は、もともとは鴨川の州で、江戸時代初期の1670(寛文10)年に護岸工事で埋立てられ、新河原町通と呼ばれていた。 繁華街としては茶屋、旅籠などが置かれたのが始まりである。芸妓、娼妓が居住するようになり、何度も取り締りを受けたが、川端二条にあった『二条新地』(にじょうしんち)の出稼ぎ地として認められ、明治初期に独立。1872(明治5)年に鴨川をどりが初演され、先斗町は花街としての花を開かせる。
一説によれば、先斗という地名の語源はポルトガル語のponto(「先」の意)にあるとされる。しかし、正しいポルトガル語は"PONTA"なのに「ポント」と読まれることや、なぜ「先斗」の字があてられたのかなどが謎とされる。また、鴨川と高瀬川の2本の川に挟まれていることを、2枚の皮に挟まれている鼓にたとえ、鼓の「ポン」と鳴る音に掛けて、「ぽんと」となったという説もある…という今京都。

《京都・先斗町》
一説によれば、先斗という地名の語源はポルトガル語のponto(「先」の意)にあるとされる。しかし、正しいポルトガル語は"PONTA"なのに「ポント」と読まれることや、なぜ「先斗」の字があてられたのかなどが謎とされる。また、鴨川と高瀬川の2本の川に挟まれていることを、2枚の皮に挟まれている鼓にたとえ、鼓の「ポン」と鳴る音に掛けて、「ぽんと」となったという説もある…という今京都。

《京都・先斗町》
先斗町は番号がついている路地がたくさんあるよね
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今京都 伏見稲荷神社 2016/02/18 12:00 am
久々にプラ〜っと伏見稲荷神社に行ってきた。「あれっ、こんなんだったっけ?」と感じたけれど、友達は「こんなんやで、変わってない」と言っていた。相変わらずスズメの丸焼きも売っていた。「買ったげよか」と言われたが、食べられるワケがない。ホンマ、優しい友達やわ…という今京都。

《京都・伏見稲荷大社》

《京都・伏見稲荷大社》
スズメの丸焼きは食べなくてもよい! 僕、焼かれたくない!
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今京都 血洗池(ちあらいいけ) 2016/02/10 12:00 am
住宅が立て込む京都市山科区御陵地区。京都薬科大グラウンド南端の、ブロック塀ごしに下方をのぞき込むと、家の敷地に囲まれた3m四方のくぼみに清澄な水が見え、鯉や金魚が遊ぶ。これが「血洗池」と地元で呼ばれている池のなごりらしい。
ブロック塀の前方には、地面から30cmほど突き出た四角い石に、「義経の腰掛石」と看板書きがある。牛若丸(源義経の幼名)が京都から奥州に向かう途中、この付近で盗賊に襲われ、盗賊を切り倒した。その刀を洗ったのが隣の血洗池で、牛若丸はこの石に腰掛けてしばし休息した、とのことだ。
住宅地の片隅に、「血洗」の伝承。ちょっとギャップがありすぎて、にわかに信じがたい。しかし、依然のこの辺は、田んぼが多くカエルの鳴き声がうるさい所であり、また、竹やぶがうっそうとしており、子どもでも遊ぶのが怖かったようなところだという。血洗池も、宅地化する前はもっと広かったといい、湧水はあちらこちらにあったとのことだ。
血洗池には別の伝承もある。牛若丸は盗賊に襲われたのではなく、蹴上ですれちがった平家の侍関原与一に水を蹴(け)り上げられたことに怒り、一党を切り捨て、その刀を洗ったのだという説。これは江戸時代の「擁州府志」にも記述がみられ、「蹴上」の地名の由来にもなった逸話だ。
聞いた話としては、木曽義仲が義経に敗れ大津へ落ちゆく途中で、巴(ともえ)御前とともに血で塗れた刀を洗ったという説などいくつかの説があるという。
まぁ、はっきりしたことはわからないから伝承なんだろう。ともかく血洗池がそこにあることは事実であり、わずかに残された池は、現在に残る「血洗町」の町名の由来を語っている。中世では、東海道は江戸時代よりも南寄りで、腰掛石付近を通っていたという説もある。一帯は京焼の清水六兵衞にちなむ「六兵ヱ池」など、わき水が多いが、池のほとんどは埋め立てられ公園や住宅地となっている…という今京都。

《京都・西陣界隈》
ブロック塀の前方には、地面から30cmほど突き出た四角い石に、「義経の腰掛石」と看板書きがある。牛若丸(源義経の幼名)が京都から奥州に向かう途中、この付近で盗賊に襲われ、盗賊を切り倒した。その刀を洗ったのが隣の血洗池で、牛若丸はこの石に腰掛けてしばし休息した、とのことだ。
住宅地の片隅に、「血洗」の伝承。ちょっとギャップがありすぎて、にわかに信じがたい。しかし、依然のこの辺は、田んぼが多くカエルの鳴き声がうるさい所であり、また、竹やぶがうっそうとしており、子どもでも遊ぶのが怖かったようなところだという。血洗池も、宅地化する前はもっと広かったといい、湧水はあちらこちらにあったとのことだ。
血洗池には別の伝承もある。牛若丸は盗賊に襲われたのではなく、蹴上ですれちがった平家の侍関原与一に水を蹴(け)り上げられたことに怒り、一党を切り捨て、その刀を洗ったのだという説。これは江戸時代の「擁州府志」にも記述がみられ、「蹴上」の地名の由来にもなった逸話だ。
聞いた話としては、木曽義仲が義経に敗れ大津へ落ちゆく途中で、巴(ともえ)御前とともに血で塗れた刀を洗ったという説などいくつかの説があるという。
まぁ、はっきりしたことはわからないから伝承なんだろう。ともかく血洗池がそこにあることは事実であり、わずかに残された池は、現在に残る「血洗町」の町名の由来を語っている。中世では、東海道は江戸時代よりも南寄りで、腰掛石付近を通っていたという説もある。一帯は京焼の清水六兵衞にちなむ「六兵ヱ池」など、わき水が多いが、池のほとんどは埋め立てられ公園や住宅地となっている…という今京都。

《京都・西陣界隈》
掘り起こせばどの町にも「昔語り」があるということだろう