rrbのブログ - 2016/11/10のエントリ
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今京都 続・西本願寺と東本願寺 2016/11/10 12:00 am
京都の地に落ち着いた本願寺であるが、11世・顕如の死後、後継の門主を巡る御家騒動が勃発。顕如亡きあと、その跡を継いだのは長男教如であったが、秀吉との確執から強制的に隠退させられ、代わりに三男の准如が西本願寺12世宗主となる。この後継者争いに目をつけたのが徳川家康であった。
関ヶ原の戦い後、天下の覇権を一手に収めた家康は本願寺の御家騒動に介入。1602(慶長7)年、隠棲生活を営んでいた教如に烏丸七条の地を与え、本願寺を建立させた。これが現在の東本願寺である。こうして時の権力者の手により、本願寺は東西に分裂してしまった。
これらの背景には、家康のある思惑が潜む。家康がまだ三河を治めていた頃、一向宗の抵抗に苦い思いをさせられていた。そこで一向宗勢力が増長しないよう本願寺の内紛を利用して勢力を二分したのである。
西本願寺は1591(天正19)年に、東本願寺は1602(慶長7)年に。それが現在の西本願寺と東本願寺である…という今京都。

《京都・西本願寺》

《京都・東本願寺》
関ヶ原の戦い後、天下の覇権を一手に収めた家康は本願寺の御家騒動に介入。1602(慶長7)年、隠棲生活を営んでいた教如に烏丸七条の地を与え、本願寺を建立させた。これが現在の東本願寺である。こうして時の権力者の手により、本願寺は東西に分裂してしまった。
これらの背景には、家康のある思惑が潜む。家康がまだ三河を治めていた頃、一向宗の抵抗に苦い思いをさせられていた。そこで一向宗勢力が増長しないよう本願寺の内紛を利用して勢力を二分したのである。
西本願寺は1591(天正19)年に、東本願寺は1602(慶長7)年に。それが現在の西本願寺と東本願寺である…という今京都。

《京都・西本願寺》

《京都・東本願寺》
他宗派との争いから御家騒動まで。おまけに時の権力者の思惑まで影響していたんやね