rrbのブログ - 2016/11のエントリ
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今京都 続・伏見 2016/11/30 12:00 am
1877(明治10)年、京都〜大阪間に鉄道が敷かれると、伏見港はその繁栄に陰りをみせる。物流の主軸が陸運へと移り変わるのに伴い、船や問屋などは徐々にその姿を消していく。それでも昭和初期までは舟運による貨物輸送が行われていたが、1963(昭和38)年、伏見港の埋め立てが決定。300年以上に及んだ港の歴史に終止符がうたれた。
その跡地に整備されたのが、現在の伏見港公園である。1967(昭和42)年にテニスコートと子ども用プールが、1982(昭和57)年に総合体育館がつくられた。
港町としての役割を終えた伏見だが、1994(平成6)年伏見港開港400年祭の開催を契機に十石舟と三十石舟が復元され、濠川(宇治川派流)下りを楽しめるようになった。舟に乗りながら、かつての伏見港の栄華に思いを馳せるも一興かと…という今京都。
《京都・伏見》
その跡地に整備されたのが、現在の伏見港公園である。1967(昭和42)年にテニスコートと子ども用プールが、1982(昭和57)年に総合体育館がつくられた。
港町としての役割を終えた伏見だが、1994(平成6)年伏見港開港400年祭の開催を契機に十石舟と三十石舟が復元され、濠川(宇治川派流)下りを楽しめるようになった。舟に乗りながら、かつての伏見港の栄華に思いを馳せるも一興かと…という今京都。
《京都・伏見》
焼き鳥の美味しい店もあったよね
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今京都 伏見 2016/11/29 12:00 am
京阪中書島駅の近くに伏見港公園がある。かつて伏見が港湾都市として栄えた名残である。
古来、景勝地として貴族の別荘が営まれていた伏見の様相が一変したのは、1592(文禄元)年、豊臣秀吉の伏見城築城後のことだった。城の造営に伴い大名屋敷や町屋などが建ち並ぶようになり、大城下町が形成されたのである。
さらに秀吉は、琵琶湖を水源とする宇治川を淀川へ合流させるとともに、伏見城へ宇治川の流れを引き込み、伏見港を整備した。これにより、伏見は水路で大坂と結ばれようになり、物流の拠点として発展した。
江戸時代、高瀬川の開削で京都と大坂が舟運によって結ばれると、伏見は京都の外港としての役割を担うようになり、中継地として隆盛を極める。
特に栄えたのが京橋界隈で、船着場に面して多くの旅籠屋や荷物問屋が建ち並んだ。幕末の志士・坂本龍馬が定宿としていたことで知られる寺田屋も、京橋北詰の東にあった…という今京都。
《京都・伏見》
古来、景勝地として貴族の別荘が営まれていた伏見の様相が一変したのは、1592(文禄元)年、豊臣秀吉の伏見城築城後のことだった。城の造営に伴い大名屋敷や町屋などが建ち並ぶようになり、大城下町が形成されたのである。
さらに秀吉は、琵琶湖を水源とする宇治川を淀川へ合流させるとともに、伏見城へ宇治川の流れを引き込み、伏見港を整備した。これにより、伏見は水路で大坂と結ばれようになり、物流の拠点として発展した。
江戸時代、高瀬川の開削で京都と大坂が舟運によって結ばれると、伏見は京都の外港としての役割を担うようになり、中継地として隆盛を極める。
特に栄えたのが京橋界隈で、船着場に面して多くの旅籠屋や荷物問屋が建ち並んだ。幕末の志士・坂本龍馬が定宿としていたことで知られる寺田屋も、京橋北詰の東にあった…という今京都。
《京都・伏見》
この辺りは酒蔵でも有名だよね
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今京都 続・高瀬川 2016/11/28 12:00 am
当時、京都には港がなかった。そのため、大坂方面から舟で運ばれてくる物資は、一度、淀や伏見、鳥羽といった京都近郊の港で荷揚げされ、そこから陸路で京都市中に運ばざるを得なかった。
了以は、ここに商機を見出す。京都市中まで舟で運ぶことができるようになれば、多くの商人が利用し、舟賃を徴収することによって利益をあげようとしたのである。高瀬川が拓かれると、舟を通じて京都には大量の物資が流れ込み、生活物資の価格が下落。京の人々は大いに喜んだと伝えられる。
その後、1877(明治10)年、七条〜大阪間を鉄道が走るようになり、高瀬川の舟運は徐々に利用されなくなっていき、1920(大正9)年6月、約300年続いた高瀬川の舟運はその歴史に終わりを告げる…という今京都。
《高瀬川》
了以は、ここに商機を見出す。京都市中まで舟で運ぶことができるようになれば、多くの商人が利用し、舟賃を徴収することによって利益をあげようとしたのである。高瀬川が拓かれると、舟を通じて京都には大量の物資が流れ込み、生活物資の価格が下落。京の人々は大いに喜んだと伝えられる。
その後、1877(明治10)年、七条〜大阪間を鉄道が走るようになり、高瀬川の舟運は徐々に利用されなくなっていき、1920(大正9)年6月、約300年続いた高瀬川の舟運はその歴史に終わりを告げる…という今京都。
《高瀬川》
陸運にかわって舟運。その後、再び陸運に…時代の流れを感じるね
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天を仰いで思うこと 冬に向かって 2016/11/25 12:00 am
11月7日に立冬を迎えた。それまで寒かったが、しばらくは暖かかった。そして再び冬の気温に。一日一日冬に向かっていく気配だ…と、天を仰いで思うこと。
来週は12月になるんだね
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今京都 高瀬川 2016/11/24 12:00 am
京都市街地を流れる高瀬川は、1613(慶長18)年に掘削された全長10kmほどの人工の河川。二条大橋付近で鴨川の水を引き入れ、鴨川と並行するように南流し、南区東九条辺りで鴨川と一度合流。その後、鴨川の東岸から東高瀬川と名を変えて分流し、伏見市街地西部を経て宇治川へと流れ込む。
水深は30cmほどで、高瀬舟と呼ばれる底の浅い箱型の舟が川を上り下りしていたことから「高瀬川」と呼ばれるようになった。高瀬川を開削したのは江戸時代の豪商・角倉了以・素庵父子である。
鴨川が流れているにもかかわらず、なぜわざわざ並行して高瀬川が掘削されたのか。その理由は、鴨川の水量が不安定であり、水運として用いることができなかったためだ…という今京都。
《高瀬川と高瀬舟》
水深は30cmほどで、高瀬舟と呼ばれる底の浅い箱型の舟が川を上り下りしていたことから「高瀬川」と呼ばれるようになった。高瀬川を開削したのは江戸時代の豪商・角倉了以・素庵父子である。
鴨川が流れているにもかかわらず、なぜわざわざ並行して高瀬川が掘削されたのか。その理由は、鴨川の水量が不安定であり、水運として用いることができなかったためだ…という今京都。
《高瀬川と高瀬舟》
ふ〜ん、水運ねぇ