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天を仰いで思うこと 読書が楽しい理由 2016/04/29 12:00 am

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」 誰もが知っている川端康成の『雪国』の冒頭である。『雪国』は、雪の白さに代表される純粋さからイメージされるとおり、美しい雪国の景色を背景に、男女の純粋な恋愛を描く物語とされている。

しかし…だ。物語のはじめに次のような部分がある。

「もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。」

中学生の頃に読んだときには、この部分の存在はまったく意識になかった…というより意味がわからなかったから覚えていないのかもしれない。大人になって、読み返し、この部分が何を意味しているのかがわかる。この部分に気づいたとき、思わず赤面し、同時に、自分の中から「男女の純粋な恋愛を描く物語」というイメージはなくなった。

考えてみれば、読者は、与えられたものすべてを均等に読んでいるわけではないのかもしれない。自分が読みたいものだけを、都合よく選択し、自分が読みたい物語を、自分で作っているかもしれない。このことは、同じ本を読んでも、人によってその印象や感想が違うことからもうかがえる。人にはそれぞれに、しっかり読まなければならないと思いながら読む箇所と、読み飛ばす箇所があるのだろう。これは、読者におけるストーリー重視の傾向が関わっているのかもしれない。

そんな難しい論を展開するつもりはない。要は、読書における読者心理は、読者が10人いれば10通り、100人いれば100通りあるということだ。さらに、何度も読み返すことによって、その時々に感想も異なる。だから読書は楽しいのかも…と、天を仰いで思うこと。

生々しい表現だけど、男って女の感触をそのように思い返すものなのか…と気になるね

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おやかまっさん 行動パターン 2016/04/28 12:00 am

「おいしいコーヒーが飲みたい」
「おいしい紅茶が飲みたい」
「おいしい中国茶が飲みたい」
「おいしい日本茶が飲みたい」
これらは職場で人の顔を見ながら時々発せられる言葉である。「おいしい」というのは「高級な」ということではない。「あんたのこだわりのいれかたの…」という意味だ。平たく言えば、「あんたがいれたお茶を飲みたい」なのである。職場の名誉のために説明しておくが、ハラスメント意識は一応強い。女性陣に対して「お茶〜!」というようなことは決してない。当たり前だが、誰であれすべてセルフとなっている。

それでも大きな仕事が一段落ついたときとか、誰かの誕生日とか、気が向いたときとか、マチマチだが振る舞うことがある。お茶であれ、コーヒーであれ、いれているときが頭の中が整理できる時間となっている。職場で朝に茶葉から紅茶をいれるのも、湯を沸かしている時間、茶器を温めている時間、抽出している時間の合計約15分間にその日の仕事の段取りを頭の中でするためである。この段取りをしくじるとその日はボロボロになる。

話がそれたが、先日、久々に中国茶をいれた。誰かが土産にもらってきたという品物だ。急須で抽出して飲んでいるのを横目で見ていたが、我慢できなくなり中国茶の茶器を使い丁寧にいれてあげた。「同じお茶やのに味が違う!」と言われたが、「当たり前やん。誰がいれたと思てんねん」と心の中でつぶやいておいた。こういうとき、自分は味見程度しかしない。あるとき「何で飲まへんの?」と聞かれたことがある。その時は答えられなかったけど、よくよく考えたら「いれてあげよ」っと思ったからであって、自分が飲みたいわけでもないからだ。それでも楽しいのは、献身的な性格…というわけではない。中国茶用の茶器にさわったからだ。

日本茶、紅茶、中国茶、コーヒー…当然、飲むけれど、一番は茶器が好きで、それでいれるのが好きなのである。それに、いれている時間が程よく考えを整理できるものとなっているからだ。自分にとって、「お茶、いれてあげよか。何がいい?」は、頭の中がくちゃくちゃでちょっと整理したいねん合図のようだ。これが自分の行動パターンのひとつである…ということで、どうも、おやかまっさんどした。


《京都・嵯峨野・愛宕念仏寺》

確かに行き詰ったりしてるときほどお茶とかをいれてるよね

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おやかまっさん 不謹慎狩り 2016/04/27 12:00 am

「不謹慎狩り」という新しい言葉が誕生した。芸能人の熊本地震に向けたSNSの内容をバッシングするものだ。

芸能人の多くは文筆家ではない。確かに誤解を招く箇所もあるが、字面をストレートに受け取る必要もない。重要なのは、そこに存在している「心」を理解することであろう。彼・彼女たちの真意は不明だが、「心配している」「なんとか支援をしたい」「力になりたい」「励ましたい」という表明は事実である。それで十分だろう。

インターネット上にどんな文章であったとしても、自らの意思と手で「掲載する」ということはそれなりの覚悟が必要だ。バッシングされたからとコメントなりを削除する行為は正しいだろうかと疑問をもつ。掲載した内容が特定の人物を示しており、その人物から削除要求があるのであれば削除も理解できる。しかし、バッシング者はその特定の人物ではない。ひとつの意見として、これまた文筆家ではない文で投稿しているだけである。

にもかかわらず、「削除する」ということは、バッシングの内容を「認めた」ということにつながる。たとえば「売名行為」と書かれたならば、それを認めたことになる。そうでないとするならば、意見を交わすべきである。たとえば、「私がどのような行動をとれば売名行為ではないと認識しますか?」と聞くのもひとつの方法だ。日本には、否定も肯定もしないという変なところがある。さらに否定も肯定もしないということは肯定したと判断されてしまうところもある。削除という行為は肯定も否定もしない行為であり、肯定したととられてもしかたがない。否定するならば、きちんと意思表示をすべきである。

震災という特別な場合でなくても、世界には援助を必要としている人々がいる。芸能人などのSNSについては、たとえば、閲覧カウント1ポイントを1円として支援金として寄付する仕組みなどを日常から組み込むのはどうだろうか。バッシング投稿も支援金になるし、賛同投稿も支援金となる。事が発生してからではなく、常日頃から取り組んでおけば、想定もしない炎上が発生する可能性は否定できないが、余計な炎上がなくなるのではないかと推測する。

いずれにしても、自分にできることを自分なりに整理し、信念をもって取り組むことを心がけたい。「不謹慎狩り」という新語の登場に、改めてそう思った…ということで、どうも、おやかまっさんどした。


《京都・嵯峨野・愛宕念仏寺》

バッシング…真意は不明だが…見ていて気持ちのいいものではないよね

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今京都 職業としての舞妓 2016/04/26 12:00 am

現在、京都には祇園甲部、宮川町、先斗町、上七軒、祇園東の5つの花街があり、これを総称して五花街(ごかがい)と呼んでいる。一番古いのは上七軒(かみしちけん)である。この花街に欠くことのできない存在が舞妓さん・芸妓さんである。

舞妓さんと芸妓さん、一番の違いは年齢である。舞妓さんは中学を卒業してすぐから二十歳頃までであるが、最終的には舞妓さんの格好が似合わないようになった頃に、大人として芸妓さんになる。舞妓さんや芸妓さんになるには資格はいらないが年齢が問題だと聞く。お稽古事や覚えなければならない事の関係から中学卒業後が望ましいとのことだ。すぐに舞妓さんになれるわけではなく「仕込みさん」という期間がある。その間にまず舞妓言葉や舞、礼儀作法の基礎を覚えなければならない。仕込さんの次が舞妓さん、舞妓さんの次が芸妓さんとなっていく。

最近増えてきている舞妓衣装体験。見分け方は色々とあるが、本物の舞妓さんは、日中はほとんどがお稽古ごとであり、観光地を歩くことはない。化粧の仕方もかんざしも持ち物も違うのでじっくりとみると見分けられる。

その舞妓さんであるが最近は横浜出身であったり福岡出身であったりと、出身地が京都以外の人が増えている。世襲制が崩れつつ…とまではいかないが、その恐れはあるようだ。
髪は髪結いさんにやってもらうが、だいたい一週間はそのままもたさないとあかんらしい。それに何もない休日は、月に2回ほどだというから激務だ。髪の毛の関係もあり、何もない休日でも髪を下すことができないこともあり、そうなると服装は着物となり出かけられるところは限られてくる。髪が下せる休日は着物以外を着ることができるが、年に数回あるかないとのことだ。
その髪結いさんは祇園町にしかなく、上七軒からわざわざ髪結いのために祇園町まで一週間に一度は出向くことになる。彼女たちにはUSJもTDLも関係のない存在かもしれない。

閉ざされた世界の印象がある花街文化であるが、舞妓さんも一つの職業としての選択と広がっている。中学を卒業してすぐに舞妓修行。頭がさがる…という今京都。


《京都・上七軒》本物の舞妓さん

義務教育が終わってすぐに京都に…親の反対を押し切り…なんだってね

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おやかまっさん スリリングな撮影 2016/04/25 12:00 am

京都の町撮りをしていて気づいたことがある。それは児童公園に子どもが戻ってきていることだ。この日も歓声が聞こえたので声の方に向かっていくと子どもたちが数人ブランコをしていた。

写真を撮るつもりでカメラを構えようとしたが、「待てよ…ヤバイかも…」と思いとどまった。子どもたちを写真に撮っている姿は、一歩間違えば職務質問にあうかも…だ。

しかし撮りたい。

苦肉の策で木を撮っているフリをして子どもたちをいれた。「何を撮っているのか」と聞かれても、「木」と答えられるように木にピントを合わせる。そしてシャッターを切る。

「よ〜し、ここまでは順調だ」と思わずつぶやく。周りを見渡したが、大人らしい人影はない。後は、その場を早々に退散するだけだ。数分後、何事もなく移動している。もう大丈夫だ。

こんなことを考えないと撮れない世の中だ。本当に日本って平和なのだろうか…と思う。以上、ちょっとスリリングな撮影だった…ということで、どうも、おやかまっさんどした。


《京都・西大路御池界隈》

一眼レフで狙うと、撮影者の性別にかかわらず、本当に誤解されそうだね

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