rrbのブログ - 2015/12のエントリ
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今京都 大晦日 2015/12/31 12:00 am
『徒然草』第220段に「鐘の音は黄鐘調(おうじきちょう)なるべし、これ、無常の調子」と出てくる鐘が右京区花園の妙心寺にある。698年の作で、銘ある梵鐘の中では最古だという。その響き(調子)は兼好法師も書いている通り「黄鐘調の鐘」と呼ばれて、余韻が長く心に響く無常の調べとして古来より名高い。世にいう「天下の三鐘」とは、調べのよい妙心寺の鐘、装飾模様の美しい平等院の鐘、そして銘で知られる神護寺の「三絶(さんぜつ)の鐘」のこと。
神護寺のその銘は、学者・橘広相(たちばなのひろみ)が序を考え、菅原道真の父・是善(これよし)が銘を選び、歌人であり書家と知られる藤原敏行(ふじわらのとしゆき)が序と銘を書いた。3人の優れた技芸が揃ったとして「三絶の鐘」と讃えられるのだそうである。
お寺ではこれらの鐘を、昔は1日に6回、晨朝(じんちょう・午前6時頃)、日中、日没、初夜、中夜、後夜に撞いて、都の人々に時を告げていた。京都はお寺の分、梵鐘(釣鐘)も多い。それらがいっせいに鳴ったらどうなるのだろう。「音の洪水となるのか…」と思いきや、その音は御所を中心に京の都全体で音の設計がなされているという。つまり、サウンドスケープという発想だ。「平安の昔から、そんな壮大な音楽宇宙を都に演出した人がいるのだろうか」、また、「どういうことなんだ…」と気になる。
京都市内に伝わる古い鐘の音の振動数を測定した結果というものがある。その結果によると、鐘の多くは唐古律(とうこりつ)という中国唐代の音の調べに合わせて調律されているという。そして、それらは御所を中心にして、寺院のある方角と鐘の調べに関連性があった。鐘の調べは北の大徳寺は「盤渉調(ばんしきちょう)」、東山の高台寺・清水寺は「上無調(かみむちょう)」、知恩院は「下無調(したむちょう)」、南の西本願寺は「壱越調甲(いちこつちょうこう)、そして西の神護寺の「三絶の鐘」は「平調(ひょうじょう)」という結果が得られた。
さらに、これらの音は平安時代後期の音楽理論のもとで陰陽五行説と結びついている。すなわち、北に玄武(げんぶ)、東に青龍(せいりゅう)、南に朱雀(すざく)、西に白虎(びゃっこ)、という獣神を想定し、それによって平安の都は守護されている。と同時に、東西南北にはそれぞれの調べがあって、これらの寺院の鐘があてはまるとのことである。調査した鐘は京都市内の15点で、あてはまらないものもあるということだが、半分の7点は関連性をもつという。陰陽五行説に基づいて、御所を中心に方位に見合った鐘の調べが都大路に鳴り渡っているということになる。
平安京の造営では方位が重んじられたことがわかっているが、そこには方位に見合った音という発想まで含まれていた。そして、その調べに合わせて設計された京のお寺の鐘がいっせいに鳴り響けば、京の都全体が音舞台に変身する。静寂に包まれた平安の都の諸行無常のコンサートといえる。それはまさに、お寺の鐘が美しい雅楽を奏でる平安の都はサウンド設計された音舞台ということだ。
今日は大晦日。いっせいに鳴り響く各寺院の梵鐘に耳を傾けてみよう。この記事は再掲であるが、大晦日の定番としたい。今年1年大変お世話になりました。来年もよろしくお願いします…という今京都。
神護寺のその銘は、学者・橘広相(たちばなのひろみ)が序を考え、菅原道真の父・是善(これよし)が銘を選び、歌人であり書家と知られる藤原敏行(ふじわらのとしゆき)が序と銘を書いた。3人の優れた技芸が揃ったとして「三絶の鐘」と讃えられるのだそうである。
お寺ではこれらの鐘を、昔は1日に6回、晨朝(じんちょう・午前6時頃)、日中、日没、初夜、中夜、後夜に撞いて、都の人々に時を告げていた。京都はお寺の分、梵鐘(釣鐘)も多い。それらがいっせいに鳴ったらどうなるのだろう。「音の洪水となるのか…」と思いきや、その音は御所を中心に京の都全体で音の設計がなされているという。つまり、サウンドスケープという発想だ。「平安の昔から、そんな壮大な音楽宇宙を都に演出した人がいるのだろうか」、また、「どういうことなんだ…」と気になる。
京都市内に伝わる古い鐘の音の振動数を測定した結果というものがある。その結果によると、鐘の多くは唐古律(とうこりつ)という中国唐代の音の調べに合わせて調律されているという。そして、それらは御所を中心にして、寺院のある方角と鐘の調べに関連性があった。鐘の調べは北の大徳寺は「盤渉調(ばんしきちょう)」、東山の高台寺・清水寺は「上無調(かみむちょう)」、知恩院は「下無調(したむちょう)」、南の西本願寺は「壱越調甲(いちこつちょうこう)、そして西の神護寺の「三絶の鐘」は「平調(ひょうじょう)」という結果が得られた。
さらに、これらの音は平安時代後期の音楽理論のもとで陰陽五行説と結びついている。すなわち、北に玄武(げんぶ)、東に青龍(せいりゅう)、南に朱雀(すざく)、西に白虎(びゃっこ)、という獣神を想定し、それによって平安の都は守護されている。と同時に、東西南北にはそれぞれの調べがあって、これらの寺院の鐘があてはまるとのことである。調査した鐘は京都市内の15点で、あてはまらないものもあるということだが、半分の7点は関連性をもつという。陰陽五行説に基づいて、御所を中心に方位に見合った鐘の調べが都大路に鳴り渡っているということになる。
平安京の造営では方位が重んじられたことがわかっているが、そこには方位に見合った音という発想まで含まれていた。そして、その調べに合わせて設計された京のお寺の鐘がいっせいに鳴り響けば、京の都全体が音舞台に変身する。静寂に包まれた平安の都の諸行無常のコンサートといえる。それはまさに、お寺の鐘が美しい雅楽を奏でる平安の都はサウンド設計された音舞台ということだ。
今日は大晦日。いっせいに鳴り響く各寺院の梵鐘に耳を傾けてみよう。この記事は再掲であるが、大晦日の定番としたい。今年1年大変お世話になりました。来年もよろしくお願いします…という今京都。
京都の鐘にはそんな秘密があったのね〜。あっ、来年もよろしくね。
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今京都 会話 2015/12/10 12:00 am
こらっ、スズメくん! 出てこい!
んっ!? な〜に?
「な〜に?」ではない。昨日の〆のコメントはどういうつもり?
えっ、何か言ったっけ?
とぼけんじゃな〜い、ご利益にかかわらずやったほうがよい、だって〜
おまけに、隠れコメントで「恋ぐらいしろ」だって〜
イヤ…あの…その…そろそろ色っぽい話があってもよい頃かと…
うっせぇ〜、ほっとけ〜〜〜
た、たしかに…、でも、合コンとかは?
なに〜!? 合コンだぁ!? てめぇ〜喧嘩売ってんのかぁ
イヤ、喧嘩は売ってないよ。気に障ったなら、謝るよ〜、すみません!
「いいよぉ〜」って、吉本新喜劇のノリはせんよ!
今度、吉本新喜劇をおごるから…ね
ホンマ? じゃ、許してあげる。やっと目が覚めてきた。スズメさん、ありがとう
な、なに? 眠気覚ましに僕をいたぶった?
そう、眠気覚ましにはスズメさんをいたぶるのが一番や〜
あちゃ〜、日ごろは想定外に優しいのに…おかしいと思った…
こうして職場の人や僕は、何かにつけていたぶられるのであった…
rrbは本当は優しいんだよ、僕は知っている
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今京都 首振地蔵−借金苦の幇間供養− 2015/12/09 12:00 am
記念写真を撮る観光客が後を絶たない清水寺正面の仁王門前。楽しそうにポーズをとる光景を、一体のお地蔵さんが、ほほ笑ましい表情で眺めている。
仁王門下の石段の北側にある同寺「善光寺堂」の敷地内に、「首振(くびふり)地蔵」と呼ばれる地蔵が立つ。御影石でできており、高さは50cm。普通の地蔵なら動かないはずの首が左右に360度回る。駒札には「願い事のある方向に首をまわして拝めば願いがかなえられるといわれ、江戸時代以来、衆庶の深甚な信仰を伝統している」とある。
同寺に伝わる話では、江戸中期、祇園の芸妓たちが、親身になって客のだんな方を世話してくれた鳥羽八という名前の幇(ほう)間(たいこ持ち)をしのんで奉納したとされる。首が回るのは、散財し過ぎて借金で首が回らなくなって亡くなったのを気の毒に思い、供養の思いを込めたとも言われる。
今の首振地蔵は「二代目」。江戸中期につくられたとされる「初代」は、二代目の背後の格子戸の中にある。20年ほど前、初代は観光ガイドやタクシー運転手の間で隠れた名所として存在が広まった。連日多くの観光客が首を回したため、首を支えている軸の部分がすり減り、頭が落ちることもあった。厨子(ずし)の内部に納めても扉を開けて回す人が後を絶たず、扉を閉ざして回すのを禁止した。ところが不評を買ったため、同寺は地蔵を新調することにした。
ただ、新調は思うように進まなかった。石屋さんが『首の切れた地蔵さんなど作れない』と作るのを嫌がったのである。説得に一年以上かかり、ようやく納得して作ってくれたとのことだ。なんでも渋る職人さんに「これは地蔵さんではないから」と説得したそうだ。
太鼓持ちの姿を模しているため、ずきんを取ると頭にちょんまげがあり、よだれかけに隠れた手には扇子を持っている。羽織のような着物も着ている。今も多くの観光客が首を回し、手を合わせる。同寺が各地で開催する「出張開帳」でも、本尊に並ぶ人気を集める。ただ拝むだけでなく、触れることで一体感を持てるからかもしれない。
善光寺堂は、鎌倉時代末期に作られた如意輪観音像などが安置されている。善光寺堂の前にある小さな厨子に、首振地蔵は置かれている。厨子は1990年に全京都建築高等職業訓練校の生徒らが建てた。恋を成就させようと、思いを寄せる人の住む方角へ地蔵の頭を向ける人が多いというが、さてご利益のほどはどうなんだろうね、羅漢さん…という今京都。
仁王門下の石段の北側にある同寺「善光寺堂」の敷地内に、「首振(くびふり)地蔵」と呼ばれる地蔵が立つ。御影石でできており、高さは50cm。普通の地蔵なら動かないはずの首が左右に360度回る。駒札には「願い事のある方向に首をまわして拝めば願いがかなえられるといわれ、江戸時代以来、衆庶の深甚な信仰を伝統している」とある。
同寺に伝わる話では、江戸中期、祇園の芸妓たちが、親身になって客のだんな方を世話してくれた鳥羽八という名前の幇(ほう)間(たいこ持ち)をしのんで奉納したとされる。首が回るのは、散財し過ぎて借金で首が回らなくなって亡くなったのを気の毒に思い、供養の思いを込めたとも言われる。
今の首振地蔵は「二代目」。江戸中期につくられたとされる「初代」は、二代目の背後の格子戸の中にある。20年ほど前、初代は観光ガイドやタクシー運転手の間で隠れた名所として存在が広まった。連日多くの観光客が首を回したため、首を支えている軸の部分がすり減り、頭が落ちることもあった。厨子(ずし)の内部に納めても扉を開けて回す人が後を絶たず、扉を閉ざして回すのを禁止した。ところが不評を買ったため、同寺は地蔵を新調することにした。
ただ、新調は思うように進まなかった。石屋さんが『首の切れた地蔵さんなど作れない』と作るのを嫌がったのである。説得に一年以上かかり、ようやく納得して作ってくれたとのことだ。なんでも渋る職人さんに「これは地蔵さんではないから」と説得したそうだ。
太鼓持ちの姿を模しているため、ずきんを取ると頭にちょんまげがあり、よだれかけに隠れた手には扇子を持っている。羽織のような着物も着ている。今も多くの観光客が首を回し、手を合わせる。同寺が各地で開催する「出張開帳」でも、本尊に並ぶ人気を集める。ただ拝むだけでなく、触れることで一体感を持てるからかもしれない。
善光寺堂は、鎌倉時代末期に作られた如意輪観音像などが安置されている。善光寺堂の前にある小さな厨子に、首振地蔵は置かれている。厨子は1990年に全京都建築高等職業訓練校の生徒らが建てた。恋を成就させようと、思いを寄せる人の住む方角へ地蔵の頭を向ける人が多いというが、さてご利益のほどはどうなんだろうね、羅漢さん…という今京都。
ご利益があるならやってみる? イヤ、ご利益がなくてもやったほうがいいのでは?
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今京都 火伏せの大イチョウ、水を噴き類焼防ぐ? 2015/12/08 12:00 am
京都市中京区の本能寺。市民や修学旅行生が行き交う寺町通の繁華街から法華宗大本山本能寺の門をくぐると、目の前に閑静な境内が広がる。さらに進むと本堂の奥、南東角に大きなイチョウがそびえる。2004年に京都市の保存樹に指定された「火伏せの大イチョウ」だ。
名前の由来は1788(天明3)年の旧暦1月に京都を襲った大火災「天明の大火」にさかのぼる。市内中心部全域に火の手が回ったといい、お寺の「法華宗年表」は被害を「禁裏、二条城、公家65、町家18万余、神社220余、寺院928」と記録する。炎は、本能寺にも迫った。本堂などが次々に焼失していくなか、イチョウから水が噴き出して、近くの建物は類焼を免れたという。イチョウの西隣にある塔頭「龍雲院」の門と建物の一部は天明の大火以前のまま残っている。
木が本当に水を噴き出して、迫る炎を食い止めたのだろうか。イチョウの葉は肉厚で含水率が高く、防火林として街路樹に用いられる。実際に水を噴くことは考えにくいが、水分の多い生木が熱せられると、焼き魚を作っている時のように、表面にあぶくが出ることもあるのではないかと想像する。伝承は類焼を食い止めたイチョウの役割を強調して生まれたのだろう。
本能寺の「能」の文字は長く「☆」と併用されてきた。1928(昭和3)年に現在の本堂が建立され、境内の建物が整備されたときから、公式には「☆」だけを使うようになった。旁(つくり)の「去」から「二度と火災に遭うことがないように」という願いが込められた。同時に胴回り3mほどに成長したイチョウにしめ縄が飾り付けられた。火伏せの大イチョウにあやかろうと、本能寺の札を求める人がいるといい、近所では火難よけの神で知られる愛宕神社の札と並べて張っている店もあるという。
なお、本能寺は京都市中京区寺町通御池下ル、京都市営地下鉄東西線の市役所前駅すぐ。1415(応永22)年に日隆聖人が「本応寺」として建立して以降、宗教上の対立に加え、本能寺の変などで焼失と再建を繰り返してきた。移転も重ね、火伏せの大イチョウがある現在の場所で5カ所目となる…という今京都。
【注】☆は「能」の旁を去に変えたもの。たびたび火災に遭うので火=ヒを払うという意。
名前の由来は1788(天明3)年の旧暦1月に京都を襲った大火災「天明の大火」にさかのぼる。市内中心部全域に火の手が回ったといい、お寺の「法華宗年表」は被害を「禁裏、二条城、公家65、町家18万余、神社220余、寺院928」と記録する。炎は、本能寺にも迫った。本堂などが次々に焼失していくなか、イチョウから水が噴き出して、近くの建物は類焼を免れたという。イチョウの西隣にある塔頭「龍雲院」の門と建物の一部は天明の大火以前のまま残っている。
木が本当に水を噴き出して、迫る炎を食い止めたのだろうか。イチョウの葉は肉厚で含水率が高く、防火林として街路樹に用いられる。実際に水を噴くことは考えにくいが、水分の多い生木が熱せられると、焼き魚を作っている時のように、表面にあぶくが出ることもあるのではないかと想像する。伝承は類焼を食い止めたイチョウの役割を強調して生まれたのだろう。
本能寺の「能」の文字は長く「☆」と併用されてきた。1928(昭和3)年に現在の本堂が建立され、境内の建物が整備されたときから、公式には「☆」だけを使うようになった。旁(つくり)の「去」から「二度と火災に遭うことがないように」という願いが込められた。同時に胴回り3mほどに成長したイチョウにしめ縄が飾り付けられた。火伏せの大イチョウにあやかろうと、本能寺の札を求める人がいるといい、近所では火難よけの神で知られる愛宕神社の札と並べて張っている店もあるという。
なお、本能寺は京都市中京区寺町通御池下ル、京都市営地下鉄東西線の市役所前駅すぐ。1415(応永22)年に日隆聖人が「本応寺」として建立して以降、宗教上の対立に加え、本能寺の変などで焼失と再建を繰り返してきた。移転も重ね、火伏せの大イチョウがある現在の場所で5カ所目となる…という今京都。
【注】☆は「能」の旁を去に変えたもの。たびたび火災に遭うので火=ヒを払うという意。
「本能寺の変」といえばエグスプロージョン。彼らはダンサー・振付師であり芸人ではない
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今京都 どこか雰囲気が違う 2015/12/03 12:00 am
京都市内の観光地は大きく東西に分かれる。東は東山、西は嵐山。東山界隈は西陣界隈と町並みが違う。現在も栄えるお茶屋があるといった印象を持っているのは独断と偏見だろうか。東山、のんびりと散策したい区域でもある…という今京都。
芸舞妓の衣装を着た画像をアップしてよ