rrbのブログ - 2017/09のエントリ
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天を仰いで思うこと 日本酒 2017/09/29 12:00 am
お酒とお料理は文句はないけれど、今回の話の内容がちょっとしんどかった。このメンバーの話の内容が「しんどい」と感じることが多くなった。少し距離をおいたほうがいいのかなぁ…と、天を仰いで思うこと。


《4月に飲んだ日本酒 Part2》



《4月に飲んだ日本酒 Part2》

んっ? どんな話の内容なん?
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今京都 続・銭湯 2017/09/28 12:00 am
京都の銭湯は石川県出身者が多いというお話。1991(平成3)年という古いデータで申し訳ないが、京都府下の銭湯は約70%が石川県人で占められている。そして京都ばかりか、大阪府下では約50%、兵庫県下でも奈良県下でも占める割合は多い。関東でも石川県人は頑張っているという。もっとも東京では新潟、富山県人のほうが多く、石川県人はそれに次ぐ第3位で約25%。神奈川県では約50%となっているらしい。千葉県でも約35%というから、日本の大都市の銭湯はあきらかに石川県人を筆頭に北陸人が支えているといえる。中でも京都は70%とその割合はダントツである。
なぜ、石川県人が多いかという理由はいくつかあるようだが、雪の多い北陸には出稼ぎの習慣があり、酒造りの杜氏らが出稼ぎ先の京都にとどまって開業したのがはじまりといわれている。おまけに重労働の銭湯の仕事に、郷里の地縁・血縁者を呼び寄せ、彼らが所帯をもち、経験を積んで独立開業する。さらに同郷の若者を呼び寄せるという循環が定着して安心して働きに出られる就職ルートが確立したのではないというのが一番強い説。
銭湯の組合や業界団体でも石川県出身者の連帯感は強く、石川県内でもその出身地域別にきめ細やかな同郷団体が結成されているという。それが心の支えとなり、また経営上の情報交流になり、地縁血縁ネットワークはさらに張り巡らされていく。
2002(平成14)年11月時点の京都府下の銭湯経営者273人のうち「○出さん」という姓の方は約10人。「中出さん」の三人がもっとも多く、「東出」「西出」「北出」「上出」「山出」となっている。各都市に出てきたら「○出さん」なのだろうかとも気になるが…ともかく「○出さん」という姓が多いようだ。
銭湯の始まりは、平安時代末の京。鎌倉時代になると僧侶達が身を清める為に、寺社に設置されていた「浴堂」を一般にも無料で開放する寺社が現れて、やがて荘園制度が崩壊すると入浴料をとるようになり、これが本格的な銭湯の始まりと言われている。つまり、「京都は銭湯の発祥の地」…という今京都。



《京都・あちこち》
なぜ、石川県人が多いかという理由はいくつかあるようだが、雪の多い北陸には出稼ぎの習慣があり、酒造りの杜氏らが出稼ぎ先の京都にとどまって開業したのがはじまりといわれている。おまけに重労働の銭湯の仕事に、郷里の地縁・血縁者を呼び寄せ、彼らが所帯をもち、経験を積んで独立開業する。さらに同郷の若者を呼び寄せるという循環が定着して安心して働きに出られる就職ルートが確立したのではないというのが一番強い説。
銭湯の組合や業界団体でも石川県出身者の連帯感は強く、石川県内でもその出身地域別にきめ細やかな同郷団体が結成されているという。それが心の支えとなり、また経営上の情報交流になり、地縁血縁ネットワークはさらに張り巡らされていく。
2002(平成14)年11月時点の京都府下の銭湯経営者273人のうち「○出さん」という姓の方は約10人。「中出さん」の三人がもっとも多く、「東出」「西出」「北出」「上出」「山出」となっている。各都市に出てきたら「○出さん」なのだろうかとも気になるが…ともかく「○出さん」という姓が多いようだ。
銭湯の始まりは、平安時代末の京。鎌倉時代になると僧侶達が身を清める為に、寺社に設置されていた「浴堂」を一般にも無料で開放する寺社が現れて、やがて荘園制度が崩壊すると入浴料をとるようになり、これが本格的な銭湯の始まりと言われている。つまり、「京都は銭湯の発祥の地」…という今京都。



《京都・あちこち》
銭湯物語の最新バージョンを調べてよ。廃業とかで様子が変わってるかも…だよ
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今京都 銭湯 2017/09/27 12:00 am
京都の町撮りをしていて気づくことがある。意外と銭湯が多いということだ。お地蔵さんほどではないが、京都には銭湯と散髪屋が多い。
時代は戦乱の世にさかのぼる。東西両陣に分かれて10年もの戦いが続き、京の都をいちめんの焼け野原にしてしまった応仁の乱(1467〜1477)。その死闘の最中、日暮れて戦を中断すれば兵士たちは、町風呂・町湯に出かけ、ひと汗流していたという。「合戦の休業日」には皆こぞって銭湯へ行き、敵味方がお風呂で出くわすこともしばしば。敵も味方も一緒になって談笑したという逸話もある。
京に町風呂・町湯が目立って増えたのは、南北朝の戦いから応仁の乱前後のことらしい。銭湯の営業開始を告げる「ほら貝」や「角笛」で町のあちこちで鳴り響いていた。当時の銭湯はいわば流行りで、庶民だけでなく、公家たちも通った。
京の町風呂・町湯といわれるように、昔は「風呂」と「湯」が異なるものであった。「風呂」とは蒸し風呂で、今でいうサウナ。熱風で身体を蒸し、発汗させたのち、室外に備えた湯で身体を洗う。壬申の乱以来の歴史をもつ「八瀬のかま風呂」で知られるように歴史は古い。
もう一方の「湯」が、湯ぶねをもつ現在に近いかたちで、釜で沸かした湯を湯ぶねに引いたり、汲み入れたりした。しかし、大きな湯ぶねになみなみと湯を張るなどとは、昔は容易にできることはなかったと想像する。
ひとくちに風呂といっても、このように二種類が混在していた。そういえば、現在でも京の銭湯は「湯」という看板はあげているが、「風呂」とはどこにも書かれていない。しっかりと呼称の伝統を受け継いでいるということか。ちなみに江戸時代の秀でたタウンガイド「京羽二重」より「風呂屋」情報を調べてみると、掲載は洛中18軒。うち「丁字(ちょうじ)風呂」2軒、「釜風呂」4軒、「塩風呂」3軒などとなっている。どうも塩風呂が気になるね…という今京都。



《京都・あちこち》
時代は戦乱の世にさかのぼる。東西両陣に分かれて10年もの戦いが続き、京の都をいちめんの焼け野原にしてしまった応仁の乱(1467〜1477)。その死闘の最中、日暮れて戦を中断すれば兵士たちは、町風呂・町湯に出かけ、ひと汗流していたという。「合戦の休業日」には皆こぞって銭湯へ行き、敵味方がお風呂で出くわすこともしばしば。敵も味方も一緒になって談笑したという逸話もある。
京に町風呂・町湯が目立って増えたのは、南北朝の戦いから応仁の乱前後のことらしい。銭湯の営業開始を告げる「ほら貝」や「角笛」で町のあちこちで鳴り響いていた。当時の銭湯はいわば流行りで、庶民だけでなく、公家たちも通った。
京の町風呂・町湯といわれるように、昔は「風呂」と「湯」が異なるものであった。「風呂」とは蒸し風呂で、今でいうサウナ。熱風で身体を蒸し、発汗させたのち、室外に備えた湯で身体を洗う。壬申の乱以来の歴史をもつ「八瀬のかま風呂」で知られるように歴史は古い。
もう一方の「湯」が、湯ぶねをもつ現在に近いかたちで、釜で沸かした湯を湯ぶねに引いたり、汲み入れたりした。しかし、大きな湯ぶねになみなみと湯を張るなどとは、昔は容易にできることはなかったと想像する。
ひとくちに風呂といっても、このように二種類が混在していた。そういえば、現在でも京の銭湯は「湯」という看板はあげているが、「風呂」とはどこにも書かれていない。しっかりと呼称の伝統を受け継いでいるということか。ちなみに江戸時代の秀でたタウンガイド「京羽二重」より「風呂屋」情報を調べてみると、掲載は洛中18軒。うち「丁字(ちょうじ)風呂」2軒、「釜風呂」4軒、「塩風呂」3軒などとなっている。どうも塩風呂が気になるね…という今京都。



《京都・あちこち》
以前に「銭湯物語」として掲載したね
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今京都 古本 2017/09/26 12:00 am
何気に訪れてしまうのが古本屋さん。「めあて」があるわけではないが、ついつい覗いてしまう。そして京都の歴史や文化に関する本は手に取ってしまう。それらで仕入れたネタが「今京都」の題材に。古本は予想外に値が高いので、いつも買えずにいる…という今京都。

《京都・中京区》

《京都・中京区》
確かに古本屋さんがあれば覗いてるよね
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今京都 珈琲 2017/09/25 12:00 am
珈琲を飲みに行きたいと思うお店が3店舗。「自家焙煎 王田珈琲専門店」はその一つ。ここの店主は超こだわり派。湯温もこだわり、豆にもこだわる。淹れている姿は「話しかけるな」オーラがスゴイし、愛想は決してよい方ではない。けれど、珈琲はバツグンに美味しい。超お気に入りだ。行く方向にもよるが、町撮りの〆に訪れる…という今京都。

《京都・中京区》

《京都・中京区》
後の2店舗も紹介してや〜