rrbのブログ - 2008/08/21のエントリ
ヘッダーナビゲーション
現在のカテゴリー位置
サイト全体のカテゴリーナビゲーション
今京都 旭日昇天 2008/08/21 12:00 am
きょくじつしょうてん…朝日が空に昇るように、勢いが非常に盛んであること。日の出の勢い。飛ぶ鳥を落とす勢い。
◇ちょっと予備知識 → 「旭日」は朝の太陽のこと。「旭日昇天の勢い」などと使う。
類義語に旭日東天(きょくじつとうてん)・騎虎之勢(きこのいきおい)・
破竹之勢(はちくのいきおい)がある。
無駄
少し前に掲載した祇園祭・その後で少し触れた「無駄」ということについて、少し考えてみたい。

この言葉を一番象徴しているのは京都では祇園祭のようにいわれるのも事実である。祇園祭を無駄と表現するのは適切な言葉ではないが、祇園祭ほど長い時間と手間隙をかけて行われるものは他にはないし、とらえ方によっては最大の無駄ともいえる。そして一ヶ月にわたって行われるこの祇園祭を十分に理解しようと思うならば、宵山や巡行を見ただけではその本当の良さを知ることはできない。見る側にも無駄とも思えるほどの大変な時間が必要となる。

この一見「無駄」とも見えるものに大切な時間を費やし、惜しげもなくお金を使うことが、京都人の発想の根源にあるように思う。
たとえば、床の間にかけられる掛け軸。これも生活するうえで別段なくてもいいものである。しかし、京都人はこの掛け軸にこだわり、部屋に合わせ、季節に合わせ、儀式に合わせ、またお客様に合わせて選び、しつらえる。

器もまったく同じことがいえる。ただ、物が中に入ればよいなどと決して考えていない。無駄なものを無駄にしないのが人々の叡智であり、京都人は、古来より次々と無駄をつくることで京都をつくってきたのではないだろうか。
ところが現代社会の発想では、とにかく無駄なものは出来得る限りはぶいていこうとする風潮がある。無駄を排除することがよき合理主義ともてはやされ、それが現代的だとか近代的なものの考え方だともいわれている。

この考え方からいえば、京都の人が大切な家の道具とする広蓋も袱紗も風呂敷も、ひいては京都のしきたりやお作法そのものまでが、無駄で不要のものということになってしまう。
しかし、全てを「無駄」という言葉で片付けてしまうと、それこそ無味乾燥な世の中になってしまうことも事実だし、大げさにいえば、「そこに京都は存在し得なくなってしまう」ことになる。無駄から得られる人間のゆとりとか充足感といったものを京都の人は大切にしてきた。それが例え形に表れなくても、人々の心を和ませ豊かにするものであると考えてきた。京都らしい音を響かせる鹿(しし)おどしもまた、無駄といえば無駄なもの。しかし、その無駄が生み出す音に心の安らぎを感じるのは京都人だけではないのは事実。

一見、合理的に思えないものにこそ、本当の合理主義があることを京都人は知っている。だからこそ京都の暮らしの中に多く「無駄」がしっかりと息づいているのではないだろうか。これから先も本当の京都を後世に残して伝えていくには、京都の新しい「無駄」をまた生み出す必要があるのではないかという京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。


◇ちょっと予備知識 → 「旭日」は朝の太陽のこと。「旭日昇天の勢い」などと使う。
類義語に旭日東天(きょくじつとうてん)・騎虎之勢(きこのいきおい)・
破竹之勢(はちくのいきおい)がある。
無駄
少し前に掲載した祇園祭・その後で少し触れた「無駄」ということについて、少し考えてみたい。

この言葉を一番象徴しているのは京都では祇園祭のようにいわれるのも事実である。祇園祭を無駄と表現するのは適切な言葉ではないが、祇園祭ほど長い時間と手間隙をかけて行われるものは他にはないし、とらえ方によっては最大の無駄ともいえる。そして一ヶ月にわたって行われるこの祇園祭を十分に理解しようと思うならば、宵山や巡行を見ただけではその本当の良さを知ることはできない。見る側にも無駄とも思えるほどの大変な時間が必要となる。

この一見「無駄」とも見えるものに大切な時間を費やし、惜しげもなくお金を使うことが、京都人の発想の根源にあるように思う。
たとえば、床の間にかけられる掛け軸。これも生活するうえで別段なくてもいいものである。しかし、京都人はこの掛け軸にこだわり、部屋に合わせ、季節に合わせ、儀式に合わせ、またお客様に合わせて選び、しつらえる。

器もまったく同じことがいえる。ただ、物が中に入ればよいなどと決して考えていない。無駄なものを無駄にしないのが人々の叡智であり、京都人は、古来より次々と無駄をつくることで京都をつくってきたのではないだろうか。
ところが現代社会の発想では、とにかく無駄なものは出来得る限りはぶいていこうとする風潮がある。無駄を排除することがよき合理主義ともてはやされ、それが現代的だとか近代的なものの考え方だともいわれている。

この考え方からいえば、京都の人が大切な家の道具とする広蓋も袱紗も風呂敷も、ひいては京都のしきたりやお作法そのものまでが、無駄で不要のものということになってしまう。
しかし、全てを「無駄」という言葉で片付けてしまうと、それこそ無味乾燥な世の中になってしまうことも事実だし、大げさにいえば、「そこに京都は存在し得なくなってしまう」ことになる。無駄から得られる人間のゆとりとか充足感といったものを京都の人は大切にしてきた。それが例え形に表れなくても、人々の心を和ませ豊かにするものであると考えてきた。京都らしい音を響かせる鹿(しし)おどしもまた、無駄といえば無駄なもの。しかし、その無駄が生み出す音に心の安らぎを感じるのは京都人だけではないのは事実。

一見、合理的に思えないものにこそ、本当の合理主義があることを京都人は知っている。だからこそ京都の暮らしの中に多く「無駄」がしっかりと息づいているのではないだろうか。これから先も本当の京都を後世に残して伝えていくには、京都の新しい「無駄」をまた生み出す必要があるのではないかという京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。



