rrbのブログ - 2008/08/15のエントリ
ヘッダーナビゲーション
現在のカテゴリー位置
サイト全体のカテゴリーナビゲーション
今京都 一騎当千 2008/08/15 12:00 am
いっきとうせん…人並み外れたすばらしい能力や経験などをたたえることば。抜群に実力のある優れた人のたとえ。千人力。
◇ちょっと予備知識 → もとは、ひとりの騎兵で千人を敵にできるほど強いという意から。
「一騎当千の兵(つわもの)」などと使う。
類義語に一人当千(いちにんとうせん)がある。
お盆 vol.4 vol.3はここ
以前に地蔵物語でも掲載したが、京都には、地蔵盆という楽しい仏教行事があり、その行事そのものを親しみを込めて「お地蔵さん」という。

昔、大津の三井寺に常照(じょうしょう)というお坊さんがおられ、年若く30歳で亡くなり、お坊さんなのに地獄に堕ちた。苦しんでいるお坊さんの前に、お地蔵様が姿を現し、「常照、おまえは小さい時に私をよく拝んでくれた。極楽にやることはできないが、もう一度人間界に戻してやるので、世のため、人のために役立つ人間になりなさい」といい、そのお坊さんを生き返された。その日が8月24日であり、これが地蔵盆の由縁である。

京都ではこの地蔵尊の縁日にあたる8月24日頃を中心にして、地蔵盆が各町内ごとに行われる。お地蔵様の顔を絵の具できれいにお化粧をし、お供え物を上げ、町内の子どもの名前を書き入れた提灯を吊り下げて、お地蔵様を祀る。

そして、そのお地蔵様の前で大きな子どもも小さな子どもも一緒になって遊んだり、大人にまじって車座になり大きな長い珠数(じゅず)−京都では数珠と書かず珠数と書く−をまわす、「珠数まわし」をしたり、おやつをもらったり、楽しい福引や金魚すくいがあったり、お芝居を演じたり、歌を唄ったり、夜には映画や盆踊りまである町内も。

こうして子どもたちは楽しい二日間を過ごすのだが、この頃から厳しかった京都の夏にもほんの少しずつ涼風がたちはじめ、夏休みが終わる頃とあいまって、子ども心に一種の郷愁といったものを感じる。こんなところから京都人特有の何かが育まれるのかもしれない。
大人たちは子どもたちの喜ぶ顔を頭に描きながら、長い時間をかけて子どもたちを楽しませようと色々趣向を凝らす。そんな大人たちのあたたかい心を子どもなりに感じながら、成長し大人となり、またその子どもたちへと受け継がれていく。

大きい子どもと小さい子どもが一緒に遊ぶという機会が少なくなった現代、子どもたちの縦割りの絆を深める地域のコミュニケーションの場であった行事が衰退していくことが残念である。
京都の子どもたちは、お地蔵様をいつも身近に感じながら、自然に仏様の教えに慣れ親しんできた。ところが、近年、この地蔵盆も随分と様変わりをして、なぜかお地蔵様の存在が希薄になってきているという。
もう一度、地蔵盆が仏教行事であることを確認する必要があり、京都人は、子どもの頃に、この地蔵盆に心をときめかせた経験を誰もがもっているという京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。


◇ちょっと予備知識 → もとは、ひとりの騎兵で千人を敵にできるほど強いという意から。
「一騎当千の兵(つわもの)」などと使う。
類義語に一人当千(いちにんとうせん)がある。
お盆 vol.4 vol.3はここ
以前に地蔵物語でも掲載したが、京都には、地蔵盆という楽しい仏教行事があり、その行事そのものを親しみを込めて「お地蔵さん」という。

昔、大津の三井寺に常照(じょうしょう)というお坊さんがおられ、年若く30歳で亡くなり、お坊さんなのに地獄に堕ちた。苦しんでいるお坊さんの前に、お地蔵様が姿を現し、「常照、おまえは小さい時に私をよく拝んでくれた。極楽にやることはできないが、もう一度人間界に戻してやるので、世のため、人のために役立つ人間になりなさい」といい、そのお坊さんを生き返された。その日が8月24日であり、これが地蔵盆の由縁である。

京都ではこの地蔵尊の縁日にあたる8月24日頃を中心にして、地蔵盆が各町内ごとに行われる。お地蔵様の顔を絵の具できれいにお化粧をし、お供え物を上げ、町内の子どもの名前を書き入れた提灯を吊り下げて、お地蔵様を祀る。

そして、そのお地蔵様の前で大きな子どもも小さな子どもも一緒になって遊んだり、大人にまじって車座になり大きな長い珠数(じゅず)−京都では数珠と書かず珠数と書く−をまわす、「珠数まわし」をしたり、おやつをもらったり、楽しい福引や金魚すくいがあったり、お芝居を演じたり、歌を唄ったり、夜には映画や盆踊りまである町内も。

こうして子どもたちは楽しい二日間を過ごすのだが、この頃から厳しかった京都の夏にもほんの少しずつ涼風がたちはじめ、夏休みが終わる頃とあいまって、子ども心に一種の郷愁といったものを感じる。こんなところから京都人特有の何かが育まれるのかもしれない。
大人たちは子どもたちの喜ぶ顔を頭に描きながら、長い時間をかけて子どもたちを楽しませようと色々趣向を凝らす。そんな大人たちのあたたかい心を子どもなりに感じながら、成長し大人となり、またその子どもたちへと受け継がれていく。

大きい子どもと小さい子どもが一緒に遊ぶという機会が少なくなった現代、子どもたちの縦割りの絆を深める地域のコミュニケーションの場であった行事が衰退していくことが残念である。
京都の子どもたちは、お地蔵様をいつも身近に感じながら、自然に仏様の教えに慣れ親しんできた。ところが、近年、この地蔵盆も随分と様変わりをして、なぜかお地蔵様の存在が希薄になってきているという。
もう一度、地蔵盆が仏教行事であることを確認する必要があり、京都人は、子どもの頃に、この地蔵盆に心をときめかせた経験を誰もがもっているという京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。



