rrbのブログ - 天を仰いで思うことのエントリ
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天を仰いで思うこと なおす 2009/06/15 12:00 am
なおす
「この本をもとのとこへナオシといて」 正常の位置に戻す、直すの意味から。もとの場所にしまう時に使う。東京のシマッテオケを京都ではナオシトキ。訂正するの意味でも使用。「この文字をナオシといてんか」「たんすにナオス」は「保管する」の意。御所ことばでは、「おまん(饅頭)を三つにナオス」と「切る」の意味で用いる。食物を細かく切るのを御所ではハヤスと言った。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
四方山話(56) ちょっと気になる「ことば」の話
こちら〜になります

ファミリーレストランなどで「こちら和風セットになります」といった言い方が聞かれる。この表現は文法的には正しいが、話し手の伝えたいことと聞き手の期待することが食い違ってしまうため、不自然に感じられる。「なる」という動詞は『国語辞典』では「人為的ではなく、自然のなりゆきで推移変化して別の状態が現れる意」と説明している。「こちら和風セットになります」がお客の側からして不自然に感じられるのは、この非人為的と新たな状況の出現のふたつが場面にそぐわないからだろう。
「なる」の表わす新しい状況の出現には、実はふたつの場合がある。ひとつは、もの自体が変化することを表わす「なる」。子どもの歳を聞かれて「この子は来月で三歳になります」とか「先月で三歳になりました」とか応えるのがこの用法で三歳への変化を表わす。
一方、相手の予想から外れるかもしれないが、手順に添って詰めていくとこうならざるをえないという内容を伝える場合にも「なる」が使われる。既に三歳になった子どもについて、「この子は(もう)三歳になります」と答えることもできるが、これは子どもが三歳に変化するのではなく、もっと小さいだろうと考えているであろう相手に、ちゃんと教えると「三歳」という内容が導き出されることを伝えている。

「こちら和風セットになります」という言い方も「こちらが和風セットに変化する」ことを表わすのではなく、「お客の予想から外れるかも知れないが」という断りを添えて、「こちらがその和風セットである」ことを表わしたものである。自信満々に提供するのではなく、「これで、はたしてお客様のご期待に添えるかどうかわかりませんが」という謙虚な姿勢を示すこともできるし、仮に、客の予想から外れたとしても、その客だけ特別扱いしているのではなく、それが既定の「和風セット」であることも示される。店側としては、客に気配りをして、「こちら和風セットです」よりも畏まった表現として「こちらが和風セットになります」を用いている。
しかし、客の側は、自分が注文したメニュー通りのものが提供されることを期待している。そのような場面で、わざわざ「なる」が用いられると、何か、新しい状況が生じるのかと考え、提供された品が「和風セット」に変化するのか、それとも、自分の予想から大きく外れたものが出されるのかなどと考えをめぐらす。それなのに自分が注文した「和風セット」がそのまま出てくるので不自然な感じがする。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
また「なる」は「する」との対立の中で、非人為的な推移を表わす。教員が勝手に「休講にした」らに、「休講になった」というと不誠実に感じられる。前の「もう三歳になります」という表現の場合には、「子どもが三歳である」ことは非人為的な現象によってもたらされたものだが、「和風セット」の内容は、店側が人為的にそのように「した」結果である。客の立場からすれば、客の予想よりも劣るものを提供することになるかもしれないと、店側が感じているのなら、そうならないように対処すればよいのに、そうなってしまうのだといった態度で済ませようとするのは、ちょっと無責任な感じを受けるかもしれない。「〜になります」は「ございます」が用いられなくなったことを受けて、「〜です」よりも丁寧な言い方をしようとして、「〜でございます」の代わりに用いられる傾向もある。頭から「〜になります」は右のような表現であると思って使う前に、まずは「〜になります」は右のような表現であることを考えて、場面にあった使い方をすることが必要なのではないだろうか…と、天を仰いで思うこと。
★前回のちょっと気になる「ことば」の話はここ(←クリック)

「この本をもとのとこへナオシといて」 正常の位置に戻す、直すの意味から。もとの場所にしまう時に使う。東京のシマッテオケを京都ではナオシトキ。訂正するの意味でも使用。「この文字をナオシといてんか」「たんすにナオス」は「保管する」の意。御所ことばでは、「おまん(饅頭)を三つにナオス」と「切る」の意味で用いる。食物を細かく切るのを御所ではハヤスと言った。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(56) ちょっと気になる「ことば」の話
こちら〜になります

ファミリーレストランなどで「こちら和風セットになります」といった言い方が聞かれる。この表現は文法的には正しいが、話し手の伝えたいことと聞き手の期待することが食い違ってしまうため、不自然に感じられる。「なる」という動詞は『国語辞典』では「人為的ではなく、自然のなりゆきで推移変化して別の状態が現れる意」と説明している。「こちら和風セットになります」がお客の側からして不自然に感じられるのは、この非人為的と新たな状況の出現のふたつが場面にそぐわないからだろう。
「なる」の表わす新しい状況の出現には、実はふたつの場合がある。ひとつは、もの自体が変化することを表わす「なる」。子どもの歳を聞かれて「この子は来月で三歳になります」とか「先月で三歳になりました」とか応えるのがこの用法で三歳への変化を表わす。
一方、相手の予想から外れるかもしれないが、手順に添って詰めていくとこうならざるをえないという内容を伝える場合にも「なる」が使われる。既に三歳になった子どもについて、「この子は(もう)三歳になります」と答えることもできるが、これは子どもが三歳に変化するのではなく、もっと小さいだろうと考えているであろう相手に、ちゃんと教えると「三歳」という内容が導き出されることを伝えている。

「こちら和風セットになります」という言い方も「こちらが和風セットに変化する」ことを表わすのではなく、「お客の予想から外れるかも知れないが」という断りを添えて、「こちらがその和風セットである」ことを表わしたものである。自信満々に提供するのではなく、「これで、はたしてお客様のご期待に添えるかどうかわかりませんが」という謙虚な姿勢を示すこともできるし、仮に、客の予想から外れたとしても、その客だけ特別扱いしているのではなく、それが既定の「和風セット」であることも示される。店側としては、客に気配りをして、「こちら和風セットです」よりも畏まった表現として「こちらが和風セットになります」を用いている。
しかし、客の側は、自分が注文したメニュー通りのものが提供されることを期待している。そのような場面で、わざわざ「なる」が用いられると、何か、新しい状況が生じるのかと考え、提供された品が「和風セット」に変化するのか、それとも、自分の予想から大きく外れたものが出されるのかなどと考えをめぐらす。それなのに自分が注文した「和風セット」がそのまま出てくるので不自然な感じがする。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
また「なる」は「する」との対立の中で、非人為的な推移を表わす。教員が勝手に「休講にした」らに、「休講になった」というと不誠実に感じられる。前の「もう三歳になります」という表現の場合には、「子どもが三歳である」ことは非人為的な現象によってもたらされたものだが、「和風セット」の内容は、店側が人為的にそのように「した」結果である。客の立場からすれば、客の予想よりも劣るものを提供することになるかもしれないと、店側が感じているのなら、そうならないように対処すればよいのに、そうなってしまうのだといった態度で済ませようとするのは、ちょっと無責任な感じを受けるかもしれない。「〜になります」は「ございます」が用いられなくなったことを受けて、「〜です」よりも丁寧な言い方をしようとして、「〜でございます」の代わりに用いられる傾向もある。頭から「〜になります」は右のような表現であると思って使う前に、まずは「〜になります」は右のような表現であることを考えて、場面にあった使い方をすることが必要なのではないだろうか…と、天を仰いで思うこと。
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天を仰いで思うこと だいじない 2009/06/12 12:00 am
だいじない
貴重な、この上なく大切な。「ダイジナイモンお借りして、おおきにありがとうさんでした」 形容動詞ダイジナ(大事な)にイを付けて形容詞化。タイセツナイとも。「タイセツナイお金や、貯金しといて」 ダイジナイは、差し支えない・たいしたことではないの意味にもなる。「かまへんがな、コップが割れたくらいでダイジナイわ」 一般にはダンナイを使い、「こんなにいただいてダンナイのんか」と。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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話のネタ雑学(43)
酢を飲むと体が柔らかくなる?

バレエなどを習っていて体が硬いと「酢を飲めば柔らかくなる」といわれ、必死に酢を飲んだという話を聞く。しかし、本当に効果があるのだろうか。

残念ながら、答えはノーである。酢には、腐敗を防ぐこと、人によっては食欲を増進させる効果はありますが、栄養学的にいっても科学的にいっても、体をやわらかくする効果はない。体が柔らかい硬いというのは骨の固さではなく、関節の柔らかさであるから、関節を柔らかくするトレーニングをするほうが効果がある。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
「柔らかくなるんだ」と信じて飲んでいれば、心理的効果は期待できるかもしれないという。信じるものは救われるということか…と、天を仰いで思うこと。
★前回はここ(←クリック)

貴重な、この上なく大切な。「ダイジナイモンお借りして、おおきにありがとうさんでした」 形容動詞ダイジナ(大事な)にイを付けて形容詞化。タイセツナイとも。「タイセツナイお金や、貯金しといて」 ダイジナイは、差し支えない・たいしたことではないの意味にもなる。「かまへんがな、コップが割れたくらいでダイジナイわ」 一般にはダンナイを使い、「こんなにいただいてダンナイのんか」と。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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話のネタ雑学(43)
酢を飲むと体が柔らかくなる?

バレエなどを習っていて体が硬いと「酢を飲めば柔らかくなる」といわれ、必死に酢を飲んだという話を聞く。しかし、本当に効果があるのだろうか。

残念ながら、答えはノーである。酢には、腐敗を防ぐこと、人によっては食欲を増進させる効果はありますが、栄養学的にいっても科学的にいっても、体をやわらかくする効果はない。体が柔らかい硬いというのは骨の固さではなく、関節の柔らかさであるから、関節を柔らかくするトレーニングをするほうが効果がある。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
「柔らかくなるんだ」と信じて飲んでいれば、心理的効果は期待できるかもしれないという。信じるものは救われるということか…と、天を仰いで思うこと。
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天を仰いで思うこと からに 2009/06/10 12:00 am
からに
「なんやかんや言うてカラニ何もしてくれへん」 〜カラニは「〜しているのに」「人に物を借ってカラニ返すこと知らへん」 文末の強意の終助詞としては「何してんのや、大きいなりしてカラニ」「どうしたんや、変な顔してカラニ」のように用いる。原因・理由の意味の名詞「から」に基づく。江戸時代後期から使用。「そして」の意味では「まわしを持ってカラニ大関を寄り倒した」 (『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(55) ちょっと気になる「ことば」の話
〜のほうをお持ちしました

「コーヒーのほうをお持ちしました」と使われる。もともと「〜のほう」には、物事をぼかしていったり遠まわしにしていったりする用法がある。「お勤めは?」と聞かれると、霞ヶ関の国家公務員であることをぼかして「ええ、お役所のほうに勤めています」といってみたり、教師であるという含みをもたせながら学校名をふせて「教育のほうの仕事です」などと答えたりする。また、相手の安否を気遣って、「その後、お仕事(お身体)のほうは順調ですか?」と尋ねたりすることができる。そこには自分の職業のことをあからさまにいったり、相手の仕事や健康状態のことをずけずけと質問したりするのは、やはり遠慮したほうがいいという気持ちの表れが見られる。これらは礼儀としての慎み深さを重んじた、きわめて日本語的な言い方といえる。

「君の会社、給料のほうはいいのか?」なども、ぞんざいな質問には違いないが、「〜のほう」があったほうが、質問者の、より遠まわしな慎み深い気持ちが出る。
一方「〜のほう」には、何らかの対比・比較する対象を念頭において、「ナシよりリンゴのほうが好き」とか「待つ身よりは待たされる身のほうがつらい」という言い方がある。
ファミレスでパスタとコーヒーを注文した場合、ウェイトレスがパスタを念頭において「コーヒーのほうはあとになさいますか」などと聞くことがある。「勉強のほうがすんでから遊びなさい」「僕は構わないが、奥さんのほうはいいのか」はもちろん、酒を念頭においていう「タバコのほうがやめられなくて」もこの例に含まれる。
ところが近年、物事をぼかしたり遠まわしにいったりする必要がない場面や、対比・比較の対象がないような場合に「〜のほう」が多用されている。「お買い上げのほうは都合○○円になります」「おつりのほうは○○円です」「コーヒーだけを注文した客にコーヒーのほうをお持ちしました」などがそれである。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
使うほうは、遠まわしに慎み深くいったつもりであろうが、特に、金銭のやりとりなど、正確さが要求される場面では適切な言い方ではない。必要以上のぼかし表現は、どこかに「逃げ」の姿勢が感じられるとともに、意思の疎通を妨げる要因ともなる。注意が必要。パスタとコーヒーを注文した客に対して「コーヒーのほうはあとになさいますか」と聞くのは適切な表現。コーヒーだけを注文した客に対して「コーヒーのほうをお持ちしました」というのは適切な表現ではないということか…と、天を仰いで思うこと。
★前回のちょっと気になる「ことば」の話はここ(←クリック)

「なんやかんや言うてカラニ何もしてくれへん」 〜カラニは「〜しているのに」「人に物を借ってカラニ返すこと知らへん」 文末の強意の終助詞としては「何してんのや、大きいなりしてカラニ」「どうしたんや、変な顔してカラニ」のように用いる。原因・理由の意味の名詞「から」に基づく。江戸時代後期から使用。「そして」の意味では「まわしを持ってカラニ大関を寄り倒した」 (『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(55) ちょっと気になる「ことば」の話
〜のほうをお持ちしました

「コーヒーのほうをお持ちしました」と使われる。もともと「〜のほう」には、物事をぼかしていったり遠まわしにしていったりする用法がある。「お勤めは?」と聞かれると、霞ヶ関の国家公務員であることをぼかして「ええ、お役所のほうに勤めています」といってみたり、教師であるという含みをもたせながら学校名をふせて「教育のほうの仕事です」などと答えたりする。また、相手の安否を気遣って、「その後、お仕事(お身体)のほうは順調ですか?」と尋ねたりすることができる。そこには自分の職業のことをあからさまにいったり、相手の仕事や健康状態のことをずけずけと質問したりするのは、やはり遠慮したほうがいいという気持ちの表れが見られる。これらは礼儀としての慎み深さを重んじた、きわめて日本語的な言い方といえる。

「君の会社、給料のほうはいいのか?」なども、ぞんざいな質問には違いないが、「〜のほう」があったほうが、質問者の、より遠まわしな慎み深い気持ちが出る。
一方「〜のほう」には、何らかの対比・比較する対象を念頭において、「ナシよりリンゴのほうが好き」とか「待つ身よりは待たされる身のほうがつらい」という言い方がある。
ファミレスでパスタとコーヒーを注文した場合、ウェイトレスがパスタを念頭において「コーヒーのほうはあとになさいますか」などと聞くことがある。「勉強のほうがすんでから遊びなさい」「僕は構わないが、奥さんのほうはいいのか」はもちろん、酒を念頭においていう「タバコのほうがやめられなくて」もこの例に含まれる。
ところが近年、物事をぼかしたり遠まわしにいったりする必要がない場面や、対比・比較の対象がないような場合に「〜のほう」が多用されている。「お買い上げのほうは都合○○円になります」「おつりのほうは○○円です」「コーヒーだけを注文した客にコーヒーのほうをお持ちしました」などがそれである。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
使うほうは、遠まわしに慎み深くいったつもりであろうが、特に、金銭のやりとりなど、正確さが要求される場面では適切な言い方ではない。必要以上のぼかし表現は、どこかに「逃げ」の姿勢が感じられるとともに、意思の疎通を妨げる要因ともなる。注意が必要。パスタとコーヒーを注文した客に対して「コーヒーのほうはあとになさいますか」と聞くのは適切な表現。コーヒーだけを注文した客に対して「コーヒーのほうをお持ちしました」というのは適切な表現ではないということか…と、天を仰いで思うこと。
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天を仰いで思うこと うち 2009/06/08 12:00 am
うち
女性が使う一人称代名詞。「ウチかてこの仕事できるわ」 家の「内」の意味からで、室町時代から使用。「ウチラ今日はゆっくりできるな」のようにウチラは単数でも複数でも用いる。「自分の子」の意味で「ウチの子ども」というが、これは男女とも使用。洛北・八瀬などでは目上や同輩に「コチのいうことよう聞いてんか」と一人称代名詞にコチを使う女性も。南山城でも「コチも歳とって物忘れする」と。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
四方山話(54) ちょっと気になる「ことば」の話
・・・じゃないですか

この言葉はイントネーションの上げ下げで意味が変わる。文末を上がり調子に発すると「先輩、これって違法じゃないですか?」「それって、ちょっとまずいんじゃないですか?」のように相手にその内容を確認する用法になる。確認とはいっても「違法ですよ」「まずいですよ」というのにかなり近く、断定に近いニュアンスが伴う。相手をたしなめるときなど、「違法だ」「まずい」と直接いうのがはばかられるという気持ちが、確認を偽装して断定を和らげさせるのだろう。
一方、文末を下がり調子に発すると、「あれは山田さんじないですか」「ほら、あそこに信号があるじゃないですか」などに見られるように、控えめな断定の意味になり、相手に確認するというニュアンスは一層弱まる。

このように「じゃないですか」は、はっきりと言い切らないまでも断定に使い核心の度合いで相手に主張したり確認を求めたりする用法である。
「ご飯を食べると眠くなってくるじゃないですか。だから食べるの控えてるんです」
「これって、最近流行ってるじゃないですか。でもなんか好きになれないんですよね」
これらの「じゃないですか」は、嫌だと感じる人もそうでない人もいる。嫌だという人は「ご飯を食べると眠くなることくらいいわれなくてもわかっている」「これが最近流行っていることぐらい私だって知っている」と感じたのではないだろうか。これらの例は控えめな表現を用いていることに問題がある。自明なことを「ご存知ないかもしれませんが」といった控えめな調子で教えられれば誰だって癇に障る。特に気にならなかった人は、自明なこととは捉えずに単なる情報確認だと感じたのだろう。いずれにしても人を不快にさせる危険性をはらんだ表現である。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
「私って最近引っ越してきたばかりじゃないですか」
「私ってすごく忘れっぽい人じゃないですか」
この例のほうがイヤだと感じる人は多いと思う。「あなたのことなんて知るわけがない」「そんなこと誰が知るか」と腹立たしい気持ちを抱く人は少なくないはず。他人の知らないプライベートなことを「知っていて当然」という感じで共感や同意を求めているわけだから、押し付けがましくて嫌らしいと受け止められかねない。話し手だけが知っていて自分が知るはずのないことに共感を求められるのだから、不快に思うのは当然。この言い方は社会人になっても改めない人が少なくない。わかりきっていること、またその反対の知るはずのないことについて「・・・じゃないですか」という表現を使うと聞き手を不快にする…と、天を仰いで思うこと。
★前回のちょっと気になる「ことば」の話はここ(←クリック)

女性が使う一人称代名詞。「ウチかてこの仕事できるわ」 家の「内」の意味からで、室町時代から使用。「ウチラ今日はゆっくりできるな」のようにウチラは単数でも複数でも用いる。「自分の子」の意味で「ウチの子ども」というが、これは男女とも使用。洛北・八瀬などでは目上や同輩に「コチのいうことよう聞いてんか」と一人称代名詞にコチを使う女性も。南山城でも「コチも歳とって物忘れする」と。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(54) ちょっと気になる「ことば」の話
・・・じゃないですか

この言葉はイントネーションの上げ下げで意味が変わる。文末を上がり調子に発すると「先輩、これって違法じゃないですか?」「それって、ちょっとまずいんじゃないですか?」のように相手にその内容を確認する用法になる。確認とはいっても「違法ですよ」「まずいですよ」というのにかなり近く、断定に近いニュアンスが伴う。相手をたしなめるときなど、「違法だ」「まずい」と直接いうのがはばかられるという気持ちが、確認を偽装して断定を和らげさせるのだろう。
一方、文末を下がり調子に発すると、「あれは山田さんじないですか」「ほら、あそこに信号があるじゃないですか」などに見られるように、控えめな断定の意味になり、相手に確認するというニュアンスは一層弱まる。

このように「じゃないですか」は、はっきりと言い切らないまでも断定に使い核心の度合いで相手に主張したり確認を求めたりする用法である。
「ご飯を食べると眠くなってくるじゃないですか。だから食べるの控えてるんです」
「これって、最近流行ってるじゃないですか。でもなんか好きになれないんですよね」
これらの「じゃないですか」は、嫌だと感じる人もそうでない人もいる。嫌だという人は「ご飯を食べると眠くなることくらいいわれなくてもわかっている」「これが最近流行っていることぐらい私だって知っている」と感じたのではないだろうか。これらの例は控えめな表現を用いていることに問題がある。自明なことを「ご存知ないかもしれませんが」といった控えめな調子で教えられれば誰だって癇に障る。特に気にならなかった人は、自明なこととは捉えずに単なる情報確認だと感じたのだろう。いずれにしても人を不快にさせる危険性をはらんだ表現である。

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「私って最近引っ越してきたばかりじゃないですか」
「私ってすごく忘れっぽい人じゃないですか」
この例のほうがイヤだと感じる人は多いと思う。「あなたのことなんて知るわけがない」「そんなこと誰が知るか」と腹立たしい気持ちを抱く人は少なくないはず。他人の知らないプライベートなことを「知っていて当然」という感じで共感や同意を求めているわけだから、押し付けがましくて嫌らしいと受け止められかねない。話し手だけが知っていて自分が知るはずのないことに共感を求められるのだから、不快に思うのは当然。この言い方は社会人になっても改めない人が少なくない。わかりきっていること、またその反対の知るはずのないことについて「・・・じゃないですか」という表現を使うと聞き手を不快にする…と、天を仰いで思うこと。
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天を仰いで思うこと うさる 2009/06/05 12:00 am
うさる
ありあまる。流行がすたれるの意。失せてしまうから。「この品物はどこの店にもウサルほどある」「去年はやったのに、もうウサってしもた」のように流行遅れの意味もある。ハヤリウサリは流行し、廃れること。江戸時代の『両京俚言考(りょうきょうりげんこう)』には「うさり、うさる流行物のふ(不)流行に成りたるをいふ。
全盛なりし人気も失せ去りたりといふ。うささりの略語ならむ」とある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(53)
お茶について思うこと

♪夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは茶摘じゃないか♪
のお茶の話。立春から数えて八十八日目にあたる日で、だいたい5月2日頃。お茶は栄西禅師(1141〜1215年)の『喫茶養生記』に「茶は養生の仙薬なり、人の寿命を延ばす妙術なり。」と記されているとおりで日本人の食生活の核となって今日まで私達の心身を養ってきた。今や世界一の長寿を誇る日本。その背景には「日本型食生活」があるといわれている。国際的にも高く評価されている「日本型食生活」に欠かせない飲み物が緑茶。緑茶に含まれるカテキン類はガン予防、コレステロール・血圧の調整、血糖の上昇抑制、血小板の凝集抑制、抗アレルギー・抗酸化・抗菌作用がある。カフェインは中枢神経を興奮、睡眠防止、強心、利尿、抗喘息作用がある。テアニンには精神をリラックスさせる作用、アルツハイマー防止作用がある。ビタミン成分には痩せる効果がある。

また中国では三千年前に著されたといわれる『神農本草経』(最古の医薬書)には「神農は一日に百草を嘗め、七十の毒に当たり、これを茶で消し…」という記載があり、解毒の作用があることが古くからわかっていた。明時代の薬物書『本草綱目』には「茶葉は、頭にできるオデキ、腫れ物を治し、利尿・通便し、痰や熱を除き、乾きを止め、眠気を覚まし…」と記載されている。ただし適度でないと「冷やす作用が強いので、飲み過ぎると脾・胃が冷えて、元気を損じ、腹痛、嘔吐など種々の害をもたらす」という事実もある。お茶をはじめ苦味を持つ食品には「体を冷やして熱を冷まし、血を止め、痛みを鎮め、神経を和らげ、利尿作用によって体内の余分な水分を排泄する、苦汁(ニガリ)が豆腐を固めるように軟らかいものを固める作用がある。苦味の食べ物は大変少なく、毎日欠乏しないように食物で摂取するのは容易ではない。緑茶で補う。昔の人はお茶を飲むときに必ず梅干と黒砂糖をお茶受けにしていた。つまり、五味(甘い、辛い、苦い、酸っぱい、塩辛い)の調和だ。
梅干…塩と赤紫蘇でつけるので、酸っぱい、塩辛い、辛いの三味一体
お茶…苦い
砂糖…甘い
で五味の調和をとっていたということだ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
さて、日本茶に比べて中国茶、つまり烏龍茶との違いを少し。決定的な違いはアミノ酸の量だという。日本茶、特に玉露や煎茶にはアミノ酸が豊富に含まれている。したがって、お茶を飲みすぎると満腹感となる。一方、烏龍茶は玉露や煎茶よりはアミノ酸が少ない。烏龍茶をたくさん飲んでもお腹がタップタップしないのはそういうところにある。さらに、カフェインの量も玉露や煎茶より少ない。簡単に表現すると、玉露や煎茶などはいくら熱いお茶を飲んでも身体を冷やす効果があり、烏龍茶は逆に体内を燃焼させる効果がある、ということだ。ダイエットに烏龍茶がよいといわれている要因もこの燃焼である。これからの季節、冷房などによる身体の冷えには注意したいところだ。烏龍茶で冷え予防、これが一番の効果かもしれない。いずれまた、お茶講釈をしてみたい…と、天を仰いで思うこと。

ありあまる。流行がすたれるの意。失せてしまうから。「この品物はどこの店にもウサルほどある」「去年はやったのに、もうウサってしもた」のように流行遅れの意味もある。ハヤリウサリは流行し、廃れること。江戸時代の『両京俚言考(りょうきょうりげんこう)』には「うさり、うさる流行物のふ(不)流行に成りたるをいふ。
全盛なりし人気も失せ去りたりといふ。うささりの略語ならむ」とある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
四方山話(53)
お茶について思うこと

♪夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは茶摘じゃないか♪
のお茶の話。立春から数えて八十八日目にあたる日で、だいたい5月2日頃。お茶は栄西禅師(1141〜1215年)の『喫茶養生記』に「茶は養生の仙薬なり、人の寿命を延ばす妙術なり。」と記されているとおりで日本人の食生活の核となって今日まで私達の心身を養ってきた。今や世界一の長寿を誇る日本。その背景には「日本型食生活」があるといわれている。国際的にも高く評価されている「日本型食生活」に欠かせない飲み物が緑茶。緑茶に含まれるカテキン類はガン予防、コレステロール・血圧の調整、血糖の上昇抑制、血小板の凝集抑制、抗アレルギー・抗酸化・抗菌作用がある。カフェインは中枢神経を興奮、睡眠防止、強心、利尿、抗喘息作用がある。テアニンには精神をリラックスさせる作用、アルツハイマー防止作用がある。ビタミン成分には痩せる効果がある。

また中国では三千年前に著されたといわれる『神農本草経』(最古の医薬書)には「神農は一日に百草を嘗め、七十の毒に当たり、これを茶で消し…」という記載があり、解毒の作用があることが古くからわかっていた。明時代の薬物書『本草綱目』には「茶葉は、頭にできるオデキ、腫れ物を治し、利尿・通便し、痰や熱を除き、乾きを止め、眠気を覚まし…」と記載されている。ただし適度でないと「冷やす作用が強いので、飲み過ぎると脾・胃が冷えて、元気を損じ、腹痛、嘔吐など種々の害をもたらす」という事実もある。お茶をはじめ苦味を持つ食品には「体を冷やして熱を冷まし、血を止め、痛みを鎮め、神経を和らげ、利尿作用によって体内の余分な水分を排泄する、苦汁(ニガリ)が豆腐を固めるように軟らかいものを固める作用がある。苦味の食べ物は大変少なく、毎日欠乏しないように食物で摂取するのは容易ではない。緑茶で補う。昔の人はお茶を飲むときに必ず梅干と黒砂糖をお茶受けにしていた。つまり、五味(甘い、辛い、苦い、酸っぱい、塩辛い)の調和だ。
梅干…塩と赤紫蘇でつけるので、酸っぱい、塩辛い、辛いの三味一体
お茶…苦い
砂糖…甘い
で五味の調和をとっていたということだ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
さて、日本茶に比べて中国茶、つまり烏龍茶との違いを少し。決定的な違いはアミノ酸の量だという。日本茶、特に玉露や煎茶にはアミノ酸が豊富に含まれている。したがって、お茶を飲みすぎると満腹感となる。一方、烏龍茶は玉露や煎茶よりはアミノ酸が少ない。烏龍茶をたくさん飲んでもお腹がタップタップしないのはそういうところにある。さらに、カフェインの量も玉露や煎茶より少ない。簡単に表現すると、玉露や煎茶などはいくら熱いお茶を飲んでも身体を冷やす効果があり、烏龍茶は逆に体内を燃焼させる効果がある、ということだ。ダイエットに烏龍茶がよいといわれている要因もこの燃焼である。これからの季節、冷房などによる身体の冷えには注意したいところだ。烏龍茶で冷え予防、これが一番の効果かもしれない。いずれまた、お茶講釈をしてみたい…と、天を仰いで思うこと。

