rrbのブログ - 2010/08のエントリ
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今京都 市街の推移 2010/08/29 12:00 am
市街の推移
前回の摂政関白から随分とあいてしまったが、続き。
右京はもともと池や沼が点在する低湿地だった。そのため水害や疫病が多発し、100年も経たず住む人(主として貴族)も稀な地へと変貌した。平安中期の学者・慶滋保胤(よししげのやすたね)は『池亭記』のなかで、「人は去ることありても来ることなく、屋は壊るることありても造ることなし」と書いている。水辺の景勝から別荘地としては生き残ったが、日常住居には適さなかった。対して左京は順調に発展を続けた。人家が増えるに伴い、市街は北と東に拡張し、都心部も移動した。もはや羅城門、朱雀大路のラインは都市の中心軸でなくなり、代わって西洞院大路が南北の大通りとして活況を呈するようになった。東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)のさらに東に東朱雀大路、北は一条大路を越えて武者小路、北小路、毘沙門大路が造られた。
長安城と呼ばれた右京市街の衰退とともに、左京を指す洛陽城のみが残り、平安京すなわち「洛陽」「京洛」という表現が一般化していった。
東へ伸張する市街は鴨川を越えてさらに広がった。1077(承暦1)年、白河天皇は岡崎の地に法勝寺を建立した。寺にそびえる八角九重塔は80mを越す高さがあったと伝えられる。
以後、岡崎に天皇や皇族が六寺院を建立し、いずれも勝の字がつくことから六勝寺と総称される。院政時代に隆盛を極めたが、13〜14世紀に全て消滅した。
この地には白河上皇が建てた白河殿(院御所)もあった。南殿は岡崎公園辺り、北殿は熊野神社付近とされる。これより東部開発は一層拍車がかかり、鴨川の東に広大な新地が誕生した。
藤原氏の勢力を排除し、院政を始めた白河上皇のバイタリティーは東部開発にとどまらず南へも向けられた。1087(寛治1)年には羅城門より約3km南(現在の城南宮付近一帯)に「水閣」とうたわれた鳥羽殿を造営。貴族たちも争って近くに別荘を営んだことから「まるで都遷りのようだ」と噂された。
いずれにしても、右京の衰退、左京の繁栄という世移りがそこにはあった…今京都。(『京都のふしぎ発見』より)
★関連記事はここ(←クリック)
※数日間の主張にでます。9月6日の週から再開できる予定です。
前回の摂政関白から随分とあいてしまったが、続き。
右京はもともと池や沼が点在する低湿地だった。そのため水害や疫病が多発し、100年も経たず住む人(主として貴族)も稀な地へと変貌した。平安中期の学者・慶滋保胤(よししげのやすたね)は『池亭記』のなかで、「人は去ることありても来ることなく、屋は壊るることありても造ることなし」と書いている。水辺の景勝から別荘地としては生き残ったが、日常住居には適さなかった。対して左京は順調に発展を続けた。人家が増えるに伴い、市街は北と東に拡張し、都心部も移動した。もはや羅城門、朱雀大路のラインは都市の中心軸でなくなり、代わって西洞院大路が南北の大通りとして活況を呈するようになった。東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)のさらに東に東朱雀大路、北は一条大路を越えて武者小路、北小路、毘沙門大路が造られた。
長安城と呼ばれた右京市街の衰退とともに、左京を指す洛陽城のみが残り、平安京すなわち「洛陽」「京洛」という表現が一般化していった。
東へ伸張する市街は鴨川を越えてさらに広がった。1077(承暦1)年、白河天皇は岡崎の地に法勝寺を建立した。寺にそびえる八角九重塔は80mを越す高さがあったと伝えられる。
以後、岡崎に天皇や皇族が六寺院を建立し、いずれも勝の字がつくことから六勝寺と総称される。院政時代に隆盛を極めたが、13〜14世紀に全て消滅した。
この地には白河上皇が建てた白河殿(院御所)もあった。南殿は岡崎公園辺り、北殿は熊野神社付近とされる。これより東部開発は一層拍車がかかり、鴨川の東に広大な新地が誕生した。
藤原氏の勢力を排除し、院政を始めた白河上皇のバイタリティーは東部開発にとどまらず南へも向けられた。1087(寛治1)年には羅城門より約3km南(現在の城南宮付近一帯)に「水閣」とうたわれた鳥羽殿を造営。貴族たちも争って近くに別荘を営んだことから「まるで都遷りのようだ」と噂された。
いずれにしても、右京の衰退、左京の繁栄という世移りがそこにはあった…今京都。(『京都のふしぎ発見』より)
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※数日間の主張にでます。9月6日の週から再開できる予定です。
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今京都 盆の入り 2010/08/13 12:00 am
盆の入り
盂蘭盆会(お盆)は、釈迦の弟子目蓮が餓鬼道に墜ちた母親を救うために、多くの僧たちに食事を供して供養したという「盂蘭盆経」に書かれた説話に由来し、この日が旧暦7月15日だったことから、15日前後に先祖や故人の霊を供養する日となった。現在では「月遅れの盆」という8月15日を中心にいとまれる地方が多く、京都でも本日(13日)が盆の入りとなる。
豊臣秀次の菩提寺として知られる瑞泉寺では、いまではめずらしい家形の「盆灯籠」という木箱行灯を墓に吊るして先祖を迎える。ビルの谷間の墓地が、行灯のやさしいあかりに照らされる。16日に「盆灯籠」は一般公開されるという。
今年の8月は14日・15日が土・日ということもあり、何の恩恵もないお盆となりそうだ。普通に土日の休みという印象がある…今京都。
※そろそろ復活したいと考えていますが、なかなかパターンが創れません。もう少し時間がかかるかも知れません。
盂蘭盆会(お盆)は、釈迦の弟子目蓮が餓鬼道に墜ちた母親を救うために、多くの僧たちに食事を供して供養したという「盂蘭盆経」に書かれた説話に由来し、この日が旧暦7月15日だったことから、15日前後に先祖や故人の霊を供養する日となった。現在では「月遅れの盆」という8月15日を中心にいとまれる地方が多く、京都でも本日(13日)が盆の入りとなる。
豊臣秀次の菩提寺として知られる瑞泉寺では、いまではめずらしい家形の「盆灯籠」という木箱行灯を墓に吊るして先祖を迎える。ビルの谷間の墓地が、行灯のやさしいあかりに照らされる。16日に「盆灯籠」は一般公開されるという。
今年の8月は14日・15日が土・日ということもあり、何の恩恵もないお盆となりそうだ。普通に土日の休みという印象がある…今京都。
※そろそろ復活したいと考えていますが、なかなかパターンが創れません。もう少し時間がかかるかも知れません。