rrbのブログ - 天を仰いで思うことのエントリ
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天を仰いで思うこと たんと 2009/08/05 12:00 am
たんと
たくさん。「祇園祭で四条通はタントの人や」「タントたべとくれやす」 江戸時代のことばを集めた『俚言集覧(りげんしゅうらん)』によると、タントは「多きを云ふ。谷となるべし。沢山と云ふが如しと云へり。又、足りぬといふことなりと云ふ説あり」とある。ポルトガル語tanto(多く)からとの説も。ギョウサンは数多くの意で、江戸時代末期から用い、明治時代から「ギョウサン品物がおすな」のように副詞的にも使った。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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天を仰いで思うこと

「秋まで生き残されている蚊を哀蚊(あわれが)と言うのじゃ−」とは、太宰治の同名の短編小説の中で老女が語るセリフ。「蚊燻(いぶ)しは焚かぬもの。不憫の故にな」と続く。命のいとおしさ、哀れを感じさせ心に残る。同じように季節を越えて生きながらえても、新型インフルエンザとなると話は別。高温多湿に弱く、6月以降は冬を迎える南半球での感染拡大が心配、というのが専門家の見方だった。

ところが国内の感染者数は、6月末に1000人を突破すると、以後も増え続け、7月半ばには3000人を超えた。京都、滋賀をはじめ全都道府県に広がり、衰えるどころか、増加のペースが上がっている。抵抗力をつけたのか、もともと高温多湿に強かったのか。60歳より上の高齢者の一部は免疫を持っているとの報告も、調査の結果、抗体を持っていた人の多くは90歳以上とのこと。不明な点が多く、今後、毒性の強いウイルスに変異しないとも限らない。油断大敵だ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
京都で7月にあった祇園祭も、もとはといえば平安時代に大流行した疫病(感染症)の退散祈願が始まり。夏を越す新型インフルには無論、蚊燻しは効かない。都人の思いのこもる祇園囃子に乗せ退散を願うばかりだが、そうはうまくいかないのが世の常。8月になったが、新たに感染の記事が今日のように新聞に掲載されている。いったいどうなってしまうのだろう…と、天を仰いで思うこと。

たくさん。「祇園祭で四条通はタントの人や」「タントたべとくれやす」 江戸時代のことばを集めた『俚言集覧(りげんしゅうらん)』によると、タントは「多きを云ふ。谷となるべし。沢山と云ふが如しと云へり。又、足りぬといふことなりと云ふ説あり」とある。ポルトガル語tanto(多く)からとの説も。ギョウサンは数多くの意で、江戸時代末期から用い、明治時代から「ギョウサン品物がおすな」のように副詞的にも使った。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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天を仰いで思うこと

「秋まで生き残されている蚊を哀蚊(あわれが)と言うのじゃ−」とは、太宰治の同名の短編小説の中で老女が語るセリフ。「蚊燻(いぶ)しは焚かぬもの。不憫の故にな」と続く。命のいとおしさ、哀れを感じさせ心に残る。同じように季節を越えて生きながらえても、新型インフルエンザとなると話は別。高温多湿に弱く、6月以降は冬を迎える南半球での感染拡大が心配、というのが専門家の見方だった。

ところが国内の感染者数は、6月末に1000人を突破すると、以後も増え続け、7月半ばには3000人を超えた。京都、滋賀をはじめ全都道府県に広がり、衰えるどころか、増加のペースが上がっている。抵抗力をつけたのか、もともと高温多湿に強かったのか。60歳より上の高齢者の一部は免疫を持っているとの報告も、調査の結果、抗体を持っていた人の多くは90歳以上とのこと。不明な点が多く、今後、毒性の強いウイルスに変異しないとも限らない。油断大敵だ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
京都で7月にあった祇園祭も、もとはといえば平安時代に大流行した疫病(感染症)の退散祈願が始まり。夏を越す新型インフルには無論、蚊燻しは効かない。都人の思いのこもる祇園囃子に乗せ退散を願うばかりだが、そうはうまくいかないのが世の常。8月になったが、新たに感染の記事が今日のように新聞に掲載されている。いったいどうなってしまうのだろう…と、天を仰いで思うこと。


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天を仰いで思うこと あかん 2009/08/03 12:00 am
あかん
だめだ。効果がない。役に立たない。いけない。「そんなとこで遊んだらアカンがな」 江戸時代から使い始めた。「埒(らち)あかぬ」を略してアカンと言った。「アクかアカンかやって見んとわからへん」のように肯定のアクと、否定のアカンを併用したり、「アクもんか」と反語形式で用いたりする。アカヘンともいう。丁寧に「アキマヘン」「アカシマヘン」とも。「アカンタレ」は弱虫、だめなやつ。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(71) ちょっと気になる「ことば」の話
わたし的にはOKです

この言い方は行き過ぎだと感じる人が多いというが、近頃では随分頻繁に耳にするようになった。「わたし的」を言い換えれば「私としては」となるが、この表現は「他の人はともかく、自分はこう考える」という気持ちを表す。他の人の別の意見があることを認めた上で自分の意見を述べるという述べ方であるから、一見思慮深い述べ方のように思われるが、その陰にはストレートに自分の意見を言おうとしない「逃げ」の姿勢が感じられるという。
「わたし的」に類する表現としては「気持ち的には若いつもり」「暮らし的には変わりない」「仕事的には楽しい」などがある。「気持ちの上では」「暮らしについては」「仕事に関しては」のように、以下に述べることがらの範囲を限定するという意味を表わすものだから、まだ十分に自然なものとしては受け入れられていない表現である。以上は「〜に関する」「〜についての」のような意味を表わす「的」の用法から拡張して用いられているが、「的」にはもうひとつ「そのものズバリではないが、それに似ている」「そのような性質を帯びている」という意味がある。

「動物的な感性」「女性的なしぐさ」などの言い方がそうである。最近ではそのような使い方の中にも多少不自然に感じられる言い方が増えてきているという。「普通の暮らし的な生活をしてみたい」「うわさ的な話を聞いた」「こども的な男は嫌い」などだ。その他に「今までのは全部うそ的なことを言われ」や「『嫌ならやめろ』的な考え」などのように、少々長い句に「的」がつく言い方もある。長い句につく言い方は明治時代にもあったそうだ。そのものズバリと言えばいいところをあいまいにしたり、人の言葉を借りて表現したりしているという感じはぬぐえない。「的」というのは元来は名刺について形容動詞を作る接尾語。多くは漢語につくが「メルヘン的」「マニュアル的」のように外来語の名詞を形容動詞に変える働きもする。しかし和語につくことはほとんどなく、逆引き辞典で調べても「ぬえ的」ぐらいしかない。「お金的には不自由しない」は許容できないが「金銭的には不自由しない」なら許容できると感じる人が多いだろう。この違いは和語か漢語かの違いによるものである。さらに本来は名詞につく語なのに、最近では「マニアック的」「乙女チック的」など形容動詞につく例も見られる。

(神戸 湊川神社) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
新型インフルエンザで中止になった神戸まつりのバレードが復活
このように「的」が流行る背景には、ものごとをはっきり言わないであいまいにぼかす最近の風潮が影響を及ぼしているものと思われる。それに加え、「的」を使えば厳密な表現を使い分けなくてもよいという便利さもある。「的」を使わないで表現するとなると「私としては」「気持ちの上では」「内容に関しては」「生活の点では」など、様々な表現を言い分けなければならない。しかし「的」を使うことによっていとも簡単にその煩雑さを回避できる。
「的」が持つこのような手軽さは、これからもさらに多くの「的」表現を生む可能性がある。話し手にとっては楽な表現であるが、聞き手には正しく伝わらない表現であることを自覚して、教育やマスコミの現場では安易な「的」表現を使わない・使わせないことをめざしたいものだ…と、天を仰いで思うこと。
★前回のちょっと気になる「ことば」の話はここ(←クリック)

だめだ。効果がない。役に立たない。いけない。「そんなとこで遊んだらアカンがな」 江戸時代から使い始めた。「埒(らち)あかぬ」を略してアカンと言った。「アクかアカンかやって見んとわからへん」のように肯定のアクと、否定のアカンを併用したり、「アクもんか」と反語形式で用いたりする。アカヘンともいう。丁寧に「アキマヘン」「アカシマヘン」とも。「アカンタレ」は弱虫、だめなやつ。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(71) ちょっと気になる「ことば」の話
わたし的にはOKです

この言い方は行き過ぎだと感じる人が多いというが、近頃では随分頻繁に耳にするようになった。「わたし的」を言い換えれば「私としては」となるが、この表現は「他の人はともかく、自分はこう考える」という気持ちを表す。他の人の別の意見があることを認めた上で自分の意見を述べるという述べ方であるから、一見思慮深い述べ方のように思われるが、その陰にはストレートに自分の意見を言おうとしない「逃げ」の姿勢が感じられるという。
「わたし的」に類する表現としては「気持ち的には若いつもり」「暮らし的には変わりない」「仕事的には楽しい」などがある。「気持ちの上では」「暮らしについては」「仕事に関しては」のように、以下に述べることがらの範囲を限定するという意味を表わすものだから、まだ十分に自然なものとしては受け入れられていない表現である。以上は「〜に関する」「〜についての」のような意味を表わす「的」の用法から拡張して用いられているが、「的」にはもうひとつ「そのものズバリではないが、それに似ている」「そのような性質を帯びている」という意味がある。

「動物的な感性」「女性的なしぐさ」などの言い方がそうである。最近ではそのような使い方の中にも多少不自然に感じられる言い方が増えてきているという。「普通の暮らし的な生活をしてみたい」「うわさ的な話を聞いた」「こども的な男は嫌い」などだ。その他に「今までのは全部うそ的なことを言われ」や「『嫌ならやめろ』的な考え」などのように、少々長い句に「的」がつく言い方もある。長い句につく言い方は明治時代にもあったそうだ。そのものズバリと言えばいいところをあいまいにしたり、人の言葉を借りて表現したりしているという感じはぬぐえない。「的」というのは元来は名刺について形容動詞を作る接尾語。多くは漢語につくが「メルヘン的」「マニュアル的」のように外来語の名詞を形容動詞に変える働きもする。しかし和語につくことはほとんどなく、逆引き辞典で調べても「ぬえ的」ぐらいしかない。「お金的には不自由しない」は許容できないが「金銭的には不自由しない」なら許容できると感じる人が多いだろう。この違いは和語か漢語かの違いによるものである。さらに本来は名詞につく語なのに、最近では「マニアック的」「乙女チック的」など形容動詞につく例も見られる。

(神戸 湊川神社) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
新型インフルエンザで中止になった神戸まつりのバレードが復活
このように「的」が流行る背景には、ものごとをはっきり言わないであいまいにぼかす最近の風潮が影響を及ぼしているものと思われる。それに加え、「的」を使えば厳密な表現を使い分けなくてもよいという便利さもある。「的」を使わないで表現するとなると「私としては」「気持ちの上では」「内容に関しては」「生活の点では」など、様々な表現を言い分けなければならない。しかし「的」を使うことによっていとも簡単にその煩雑さを回避できる。
「的」が持つこのような手軽さは、これからもさらに多くの「的」表現を生む可能性がある。話し手にとっては楽な表現であるが、聞き手には正しく伝わらない表現であることを自覚して、教育やマスコミの現場では安易な「的」表現を使わない・使わせないことをめざしたいものだ…と、天を仰いで思うこと。
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天を仰いで思うこと すってのとこ 2009/07/31 12:00 am
すってのとこ
「スッテノトコで新幹線に乗り遅れるとこやった」 もう少しのところでということ。スッテンデともいう。スッテンは、既にの意味。スデを強めてスッテ・スンデとなり、スッテノコトニ・スッテントとも。「そんなことスッテント忘れてた」「コロット忘れた」のコロットは、コロリトの変化したもの。トントは、すっかりの意で、否定の語を下に伴って、「トント覚えてしまへんわ」と言う。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(70) きょうの京
7月31日は祇園祭 疫神社夏越祭

いよいよ祇園祭の最終行事。八坂神社西楼門を入ってすぐのところに建つ疫神社は、八坂神社摂社で蘇民将来を祭神とする。鳥居に直径2mの茅の輪がすえられ、夏越の祓、茅の輪くぐりをする。多くの神社では6月30日の行事であるが、疫神社では月送りの7月にとりおこなう。「本日をもって祇園祭のすべてを終了とし」という神職の奉告がなされ、関係者や役員の参拝ののち、一般の人も茅の輪をくぐり、「蘇民将来之子孫也」と書かれた護符を受ける。

また、31日は愛宕神社の千日詣でもある。31日の夜から8月1日にかけて「火伏せの神」を祀る愛宕神社に参拝すると、千日分のご利益があるとされ、多くの人が神社をめざす。
しかし「伊勢に七たび、熊野へ三たび、愛宕さんへは月詣り」と謳われるものの、標高924mの愛宕山山頂に建つ愛宕神社への道はふだん運動をしない人にとっては苦行に近いかもしれない。
それでも三歳までの子どもが詣でると一生火難から免れるとされるため、小さい子をつれて灯りに照らされた約5.5kmの登山道をゆく親子連れも目立つ。
午後9時から夕御饌祭(ゆうみけさい)、午前2時から朝御饌祭をいとなむ。夜は風が出て、夏とは思えないほど気温が下がる。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
新型インフルエンザで中止になった神戸まつりのバレードが復活
こうして、京都の7月は過ぎていく。明日からは、地蔵盆がある8月だ。さらに暑い京都の夏がやってくる…と、天を仰いで思うこと。
★前回の「きょうの京」はここ(←クリック)

「スッテノトコで新幹線に乗り遅れるとこやった」 もう少しのところでということ。スッテンデともいう。スッテンは、既にの意味。スデを強めてスッテ・スンデとなり、スッテノコトニ・スッテントとも。「そんなことスッテント忘れてた」「コロット忘れた」のコロットは、コロリトの変化したもの。トントは、すっかりの意で、否定の語を下に伴って、「トント覚えてしまへんわ」と言う。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(70) きょうの京
7月31日は祇園祭 疫神社夏越祭

いよいよ祇園祭の最終行事。八坂神社西楼門を入ってすぐのところに建つ疫神社は、八坂神社摂社で蘇民将来を祭神とする。鳥居に直径2mの茅の輪がすえられ、夏越の祓、茅の輪くぐりをする。多くの神社では6月30日の行事であるが、疫神社では月送りの7月にとりおこなう。「本日をもって祇園祭のすべてを終了とし」という神職の奉告がなされ、関係者や役員の参拝ののち、一般の人も茅の輪をくぐり、「蘇民将来之子孫也」と書かれた護符を受ける。

また、31日は愛宕神社の千日詣でもある。31日の夜から8月1日にかけて「火伏せの神」を祀る愛宕神社に参拝すると、千日分のご利益があるとされ、多くの人が神社をめざす。
しかし「伊勢に七たび、熊野へ三たび、愛宕さんへは月詣り」と謳われるものの、標高924mの愛宕山山頂に建つ愛宕神社への道はふだん運動をしない人にとっては苦行に近いかもしれない。
それでも三歳までの子どもが詣でると一生火難から免れるとされるため、小さい子をつれて灯りに照らされた約5.5kmの登山道をゆく親子連れも目立つ。
午後9時から夕御饌祭(ゆうみけさい)、午前2時から朝御饌祭をいとなむ。夜は風が出て、夏とは思えないほど気温が下がる。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
新型インフルエンザで中止になった神戸まつりのバレードが復活
こうして、京都の7月は過ぎていく。明日からは、地蔵盆がある8月だ。さらに暑い京都の夏がやってくる…と、天を仰いで思うこと。
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天を仰いで思うこと おばんざい 2009/07/29 12:00 am
おばんざい
ありあわせのふだんのお菜。日常食べる副食物。江戸時代から上方ではバンザイ(番菜)、江戸ではソウザイ(惣菜)と言った。番菜の「番」は、番茶・番傘の「番」のように常用または粗末の意味に解された。ザイは菜のこと。サイはソエルの意。晩菜・万菜と書くのは当て字。御所ことばでオバンは目上の人の飯のことで、オバンの菜からとも考えられる。副食物を御所ことばはオマワリという。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(69) ちょっと気になる「ことば」の話
なので

最近、「だから」と同様に、「なので」を文の先頭に付けて前の内容を後につなげる言い方(接続詞の用法)がされる。話し言葉では、徐々に使われてきているが、文章語としては、まだ定着していない。「だから」や「ですから」があるのに、どうして「なので」が新たに使われるようになったのか?

「だから」「ですから」は「から」、「なので」は「ので」を含む語だから、この「ので」と「から」の違いを反映させようとしたのだと推測できる。「ので」と「から」では、「ので」は客観的で「から」は主観的だとか、「ので」の方が巣こと丁寧だとかいわれている。「だから」では、理由をごり押しする感じがするが、「ですから」では、畏まり過ぎるか気取りすぎる、というので、「なので」の出番となったのではないだろうか。
「だから」の「だ」と、「なので」の「な」は、もともと同じ断定の助動詞の異なった形だと考えられる。断定の助動詞に由来する接続詞は、「だから」「だが」「だったら」のような「だ」の形のものは多いが、「な」の形で始まる接続詞は多くない。ところが少し前から、「なのに」を接続詞として使うようになってきた。「なので」は、この「なのに」に引き続いて、接続詞化を進めているといえる。さらに「な、わけないだろ」とか、「な、こと言って」のような「な」の用法も控えている。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
新型インフルエンザで中止になった神戸まつりのバレードが復活
「なので」が接続詞として使われ始めたことにはしかるべき理由が感じられるが、現時点では違和感を感じる人もいる新しい用法であり、使用には注意が必要だという。改まった場では、「ですから」などを使うほうが好ましいということか…と、天を仰いで思うこと。
★前回のちょっと気になる「ことば」の話はここ(←クリック)

ありあわせのふだんのお菜。日常食べる副食物。江戸時代から上方ではバンザイ(番菜)、江戸ではソウザイ(惣菜)と言った。番菜の「番」は、番茶・番傘の「番」のように常用または粗末の意味に解された。ザイは菜のこと。サイはソエルの意。晩菜・万菜と書くのは当て字。御所ことばでオバンは目上の人の飯のことで、オバンの菜からとも考えられる。副食物を御所ことばはオマワリという。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(69) ちょっと気になる「ことば」の話
なので

最近、「だから」と同様に、「なので」を文の先頭に付けて前の内容を後につなげる言い方(接続詞の用法)がされる。話し言葉では、徐々に使われてきているが、文章語としては、まだ定着していない。「だから」や「ですから」があるのに、どうして「なので」が新たに使われるようになったのか?

「だから」「ですから」は「から」、「なので」は「ので」を含む語だから、この「ので」と「から」の違いを反映させようとしたのだと推測できる。「ので」と「から」では、「ので」は客観的で「から」は主観的だとか、「ので」の方が巣こと丁寧だとかいわれている。「だから」では、理由をごり押しする感じがするが、「ですから」では、畏まり過ぎるか気取りすぎる、というので、「なので」の出番となったのではないだろうか。
「だから」の「だ」と、「なので」の「な」は、もともと同じ断定の助動詞の異なった形だと考えられる。断定の助動詞に由来する接続詞は、「だから」「だが」「だったら」のような「だ」の形のものは多いが、「な」の形で始まる接続詞は多くない。ところが少し前から、「なのに」を接続詞として使うようになってきた。「なので」は、この「なのに」に引き続いて、接続詞化を進めているといえる。さらに「な、わけないだろ」とか、「な、こと言って」のような「な」の用法も控えている。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
新型インフルエンザで中止になった神戸まつりのバレードが復活
「なので」が接続詞として使われ始めたことにはしかるべき理由が感じられるが、現時点では違和感を感じる人もいる新しい用法であり、使用には注意が必要だという。改まった場では、「ですから」などを使うほうが好ましいということか…と、天を仰いで思うこと。
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天を仰いで思うこと どてまち 2009/07/27 12:00 am
どてまち
もとは川岸の意。「あの先生はドテマチにいやはったんや」 豊臣秀吉が築いた「お土居」の跡に土手町通のような通り名がある。鴨川の西岸、北は上京区の丸太町通駒之町から南は夷川通に至り、中断して下京区の上珠数屋町通大工町から七条通の材木町に至る。ドテは土堤(どてい)から。マチは限られた区画の意味。ドテヤマは低い山で、このドテも同じルーツ。「ドテヤマで、赤土取ってこ」 (『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
天を仰いで思うこと

高いつもりで低いのは教養 低いつもりで高いのが気位
深いつもりで浅いのは知識 浅いつもりで深いのが欲

厚いつもりで薄いのは人情 薄いつもりで厚いのが面の皮
強いつもりで弱いのは根性 弱いつもりで強いのが我

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
多いつもりで少ないのは分別 少ないつもりで多いのが無駄
ん〜、つくづく人間は厄介だ…と、天を仰いで思うこと。

もとは川岸の意。「あの先生はドテマチにいやはったんや」 豊臣秀吉が築いた「お土居」の跡に土手町通のような通り名がある。鴨川の西岸、北は上京区の丸太町通駒之町から南は夷川通に至り、中断して下京区の上珠数屋町通大工町から七条通の材木町に至る。ドテは土堤(どてい)から。マチは限られた区画の意味。ドテヤマは低い山で、このドテも同じルーツ。「ドテヤマで、赤土取ってこ」 (『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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天を仰いで思うこと

高いつもりで低いのは教養 低いつもりで高いのが気位
深いつもりで浅いのは知識 浅いつもりで深いのが欲

厚いつもりで薄いのは人情 薄いつもりで厚いのが面の皮
強いつもりで弱いのは根性 弱いつもりで強いのが我

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
多いつもりで少ないのは分別 少ないつもりで多いのが無駄
ん〜、つくづく人間は厄介だ…と、天を仰いで思うこと。

