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今京都 「通り・筋」と「路地」と「図子・辻子」(2/2) 2017/11/02 12:00 am
『京都大事典』に掲載されている「辻子(ずし)」を以下に紹介しておく。
都市再開発のため、平安京の条坊とは別に新設された小径。図子とも書く。史料上の初見は1180(治承4)年。平安京の変容にともない、都市空間の有効な利用をはかるために設けられたものだが、初見記事からまもなく奈良においても辻子の語をみるから、平安京特有のものではない。
辻子は時代が進展するとともに、その数を増やし、特に市街地としてあらたに一条以北に多く分布する。応仁の乱以後、辻子を基盤とする町(辻子町)が成立し、1572(元亀3)年の「上下京御膳方御月賄米寄帳」では12の辻子町を数える。江戸期に入ると辻子の数はさらに増え、1685(貞享2)年の「京羽二重」で47、1863(文久3)年の「京羽津根」では91となる。
資料として上京区(31)、東山区(27)、中京区(7)、下京区(5)、左京区(1)の主要辻子を掲載している。それらを含め、今後、「今京都」の「通り・筋、図子・辻子」で取り上げていく予定…という今京都。



《京都・路地》
都市再開発のため、平安京の条坊とは別に新設された小径。図子とも書く。史料上の初見は1180(治承4)年。平安京の変容にともない、都市空間の有効な利用をはかるために設けられたものだが、初見記事からまもなく奈良においても辻子の語をみるから、平安京特有のものではない。
辻子は時代が進展するとともに、その数を増やし、特に市街地としてあらたに一条以北に多く分布する。応仁の乱以後、辻子を基盤とする町(辻子町)が成立し、1572(元亀3)年の「上下京御膳方御月賄米寄帳」では12の辻子町を数える。江戸期に入ると辻子の数はさらに増え、1685(貞享2)年の「京羽二重」で47、1863(文久3)年の「京羽津根」では91となる。
資料として上京区(31)、東山区(27)、中京区(7)、下京区(5)、左京区(1)の主要辻子を掲載している。それらを含め、今後、「今京都」の「通り・筋、図子・辻子」で取り上げていく予定…という今京都。



《京都・路地》
路地は用がない限り、入りたくても入れない空気をつくる
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今京都 「通り・筋」と「路地」と「図子・辻子」(1/2) 2017/11/01 12:00 am
京都では「通り名」がついていない道は全て「路地」になる。車が通れるくらい広くたって「通り名」がついていない道は「路地」。このことは以前に掲載したが、新たに取り上げる。
では「通り名」がつく条件は何か。それは「抜けている」こと。旧市街の四方の外周道路間を抜けていることである。ひとつの例でいうと、西の外周道路から東の外周道路まで抜けている道が「通り」となる。北と南とでも条件は同じ。それが基本となり、途中で切れている道は「路地」になる。
時代が流れ区画整理などで道が途中で寸断されているものや、曲げられて違う「通り」に接続されているものもあるが、原則は平安京の町並みでつくられたままだ。
路地のことを京都では「ろうじ」と呼ぶ。「ろうじ」以外にも「ろじ」という呼び方も使う。使い分けは、縦横の「通り」に囲まれた洛中の四角いマス目を、次の通りまで真っ直ぐに抜けている場合は「ろじ」、奥で行き止まりになるような場合は「ろうじ」である。
さらに呼び方で存在しているのが「筋(すじ)」。こちらは「ろじ」がさらに次の四角いマス目まで続いてのびている場合で、「通り」に近いものだ。
さて、「通り」「筋」「路地」以外に存在する呼び名がある。「図子(ずし)」である。図子は、町のマス目のなかで、ひとマスの中だけに自然発生的にできた通路のことをいう。折れ曲がっていたり、袋小路になっていたり、斜めになっていたりする。「図子」は「辻子(ずし)」とも表記される。意味からすれば「辻子」のほうがわかりやすい。辻のようで辻までいかない「辻の子ども」ということで「辻子」。「ろじ」や「ろうじ」には呼び名はないが、図子・辻子には、その土地に密着したユニークな名前がついている。現地に行っても標識はなく、地元の人だけが口伝で呼んでいる。字も図子を使ったり、辻子を使ったり色々である。
愛用の『京都大事典』では「辻子」の字が見出しであり、「図子とも書く」と記載されている。そんな図子・辻子を調べてみた。インターネットで検索して、丁寧に地図まででてくるのは上京区だけである。それらを頼りに、今後、取り上げていく予定…という今京都。



《京都・路地》
では「通り名」がつく条件は何か。それは「抜けている」こと。旧市街の四方の外周道路間を抜けていることである。ひとつの例でいうと、西の外周道路から東の外周道路まで抜けている道が「通り」となる。北と南とでも条件は同じ。それが基本となり、途中で切れている道は「路地」になる。
時代が流れ区画整理などで道が途中で寸断されているものや、曲げられて違う「通り」に接続されているものもあるが、原則は平安京の町並みでつくられたままだ。
路地のことを京都では「ろうじ」と呼ぶ。「ろうじ」以外にも「ろじ」という呼び方も使う。使い分けは、縦横の「通り」に囲まれた洛中の四角いマス目を、次の通りまで真っ直ぐに抜けている場合は「ろじ」、奥で行き止まりになるような場合は「ろうじ」である。
さらに呼び方で存在しているのが「筋(すじ)」。こちらは「ろじ」がさらに次の四角いマス目まで続いてのびている場合で、「通り」に近いものだ。
さて、「通り」「筋」「路地」以外に存在する呼び名がある。「図子(ずし)」である。図子は、町のマス目のなかで、ひとマスの中だけに自然発生的にできた通路のことをいう。折れ曲がっていたり、袋小路になっていたり、斜めになっていたりする。「図子」は「辻子(ずし)」とも表記される。意味からすれば「辻子」のほうがわかりやすい。辻のようで辻までいかない「辻の子ども」ということで「辻子」。「ろじ」や「ろうじ」には呼び名はないが、図子・辻子には、その土地に密着したユニークな名前がついている。現地に行っても標識はなく、地元の人だけが口伝で呼んでいる。字も図子を使ったり、辻子を使ったり色々である。
愛用の『京都大事典』では「辻子」の字が見出しであり、「図子とも書く」と記載されている。そんな図子・辻子を調べてみた。インターネットで検索して、丁寧に地図まででてくるのは上京区だけである。それらを頼りに、今後、取り上げていく予定…という今京都。



《京都・路地》
路地が町並みとしてはいい雰囲気をだしているよね
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今京都 きゃらかんさん/青龍寺 2017/10/31 12:00 am
京都市東山区の霊山観音参道に続く道沿いに「きゃらかんさん」の通称名で知られる青龍寺がある。平安建都とともに歩んできたその歴史は、有名寺院の集まる東山地域の中でも最古級で、唐から渡来した霊木のご本尊が逸話を伝える。
青龍寺の本尊は、伽羅観音(きゃらかんのん)菩薩像。788年、唐の徳宗皇帝が観音さまの夢を見た。夢のお告げで、日本の桓武天皇に観音像を贈るようにと聞いた皇帝は、香木の伽羅を日本への使節に託した。受け取った天皇の命で、伝教大師最澄が香木から観音像を彫り上げたという寺伝がある。
観音像は当初、皇室の内仏だったが、民衆にもお参りしてもらおうと、長岡京近郊の小塩山に大宝寺を創建して安置した。寺は平安京への遷都とともに現在地に移り、戦乱の中で名を変えながら天台宗から浄土宗となったが、像はずっと守られてきた。
本堂にある観音菩薩像は、しなやかで優美な姿。傷みが激しく、香木とは言え、実際に芳香が漂うわけではないが、かぐわしい雰囲気ということだ。「『きゃらかんさん』の名がどうしてついたのかは不明。嗅覚に訴えるような本尊に加え、聴覚を呼び覚ます念仏石、空から落下したいん石と伝えられ別名「カンカン石」も有名。
1192年、後白河法皇の菩提を弔うため、法然の弟子見仏が、法然を招いて念仏を上げた。これが、一日に六回、読経する浄土宗の六時礼賛念仏の始まりとされ、石は鐘の代わりに念仏の調子をとるために使われたという。
青龍寺は、洛陽三十三カ所観音巡礼の第9番目の札所…という今京都。




《京都・青龍寺》
青龍寺の本尊は、伽羅観音(きゃらかんのん)菩薩像。788年、唐の徳宗皇帝が観音さまの夢を見た。夢のお告げで、日本の桓武天皇に観音像を贈るようにと聞いた皇帝は、香木の伽羅を日本への使節に託した。受け取った天皇の命で、伝教大師最澄が香木から観音像を彫り上げたという寺伝がある。
観音像は当初、皇室の内仏だったが、民衆にもお参りしてもらおうと、長岡京近郊の小塩山に大宝寺を創建して安置した。寺は平安京への遷都とともに現在地に移り、戦乱の中で名を変えながら天台宗から浄土宗となったが、像はずっと守られてきた。
本堂にある観音菩薩像は、しなやかで優美な姿。傷みが激しく、香木とは言え、実際に芳香が漂うわけではないが、かぐわしい雰囲気ということだ。「『きゃらかんさん』の名がどうしてついたのかは不明。嗅覚に訴えるような本尊に加え、聴覚を呼び覚ます念仏石、空から落下したいん石と伝えられ別名「カンカン石」も有名。
1192年、後白河法皇の菩提を弔うため、法然の弟子見仏が、法然を招いて念仏を上げた。これが、一日に六回、読経する浄土宗の六時礼賛念仏の始まりとされ、石は鐘の代わりに念仏の調子をとるために使われたという。
青龍寺は、洛陽三十三カ所観音巡礼の第9番目の札所…という今京都。




《京都・青龍寺》
中に入れなかったのが残念だね
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今京都 濡髪大明神/知恩院 2017/10/30 12:00 am
季節を問わず観光客や参拝の方の姿が絶えない知恩院。その境内の北東の隅、墓地に囲まれた場所にひっそりとたたずむ小さな社がある。社は、知恩院を火災から守る白キツネを祀っている。
江戸初期、知恩院の霊巖(れいがん)上人の枕元に濡れ姿ですすり泣く童子が現れた。童子は、昔から境内に住んでいた白キツネで、御影堂が建設されたために住み家をなくしたという。あわれに思った霊巖上人は、童子のために住み家をつくってやった。後日、再び枕元に現れた童子は、お礼に知恩院を火災から守ることを誓ったという。上人は、その童子を濡髪童子と名づけ、社にまつった…と伝わる。
濡髪大明神は知恩院境内の中で表鬼門の場所にあり、知恩院全体を災厄から守っているのだろうと想像する。防火の神だけでなく、良縁成就の神としても、慕われている…という今京都。




《京都・知恩院》
江戸初期、知恩院の霊巖(れいがん)上人の枕元に濡れ姿ですすり泣く童子が現れた。童子は、昔から境内に住んでいた白キツネで、御影堂が建設されたために住み家をなくしたという。あわれに思った霊巖上人は、童子のために住み家をつくってやった。後日、再び枕元に現れた童子は、お礼に知恩院を火災から守ることを誓ったという。上人は、その童子を濡髪童子と名づけ、社にまつった…と伝わる。
濡髪大明神は知恩院境内の中で表鬼門の場所にあり、知恩院全体を災厄から守っているのだろうと想像する。防火の神だけでなく、良縁成就の神としても、慕われている…という今京都。




《京都・知恩院》
階段を結構昇ったよね
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天を仰いで思うこと 日本酒 2017/10/27 12:00 am
+αさんの存在で、話辛いかも…と心配したけど、大丈夫だった。お酒があるから大丈夫。酔わせてしまえば大丈夫。そんな感じでドンドン頼んだ。ちゃんと帰れるんやろか…と、天を仰いで思うこと。



《8月中旬に飲んだ日本酒 Part2》




《8月中旬に飲んだ日本酒 Part2》

+αさん、結構、貢献したんや