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天を仰いで思うこと かんにんえ 2009/06/29 12:00 am

んにんえ
ごめんね。許してください。「カンニンエ、こんなことさせといて」「ちょっと前を通らしてとくりゃす、カンニンどっせ」 カンニンを繰り返して「えらい遅うなってしもて、カンニン、カンニン」「堪忍」は耐え忍ぶこと。カンニンシテ・カニシテヤともいい、祇園ではカンニンドッセを多用する。丁寧にはカンニンシトクリャス。「もう二度としません、カンニンシトクリャス」 京都府北部ではコラエテ。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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方山話(59)
蛍について思うこと(2)



先日のの続き。
蛍の成虫の体長は数mm〜30mmほどで、甲虫としては小型〜中型となる。体型は前後に細長く、腹背に平たい。特に前胸は平らで、頭部を被うことが多い。


カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

よくある色合いは全体に黒っぽく、前胸だけが赤いというものである。その体は甲虫としては柔らかく、オスとメスを比べるとメスのほうが大きい。メスは翅が退化して飛べない種類があり、さらには幼虫のままのような外見をした種類もいるということだ。成虫期間は約1〜2週間。幼虫はやや扁平で細長い。頭部は胸部に引っ込めることができる。胸部に短い三対の歩脚があり、腹部の後端に吸盤があって、シャクトリムシのように移動する。


カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

もっともな特徴は成虫になるタイミングを自分で決めるということだ。つまり「今年は成虫になるのや〜めた」とできるところにある。この話が本当ならば、ステキなことだ。蛍でさえ(という表現は蛍に失礼だが)自分の意思で物事を決める。知的生命体の人間はどうだろうか? 蛍の爪の垢を煎じて飲まなければならないのではないかという人が増えているのは否定できない。あっ、蛍だけに「爪の垢」ではなく「蛍が好む水」といったほうがいいのかも…と、天を仰いで思うこと。


 

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今京都 おくどさん 2009/06/28 12:00 am

くどさん
塗りかまどの敬称。かまどの神である三宝荒神を祭る。「くど」にオとサンをつけて最高敬語とする。「くど」は火処(ほど)からで、曲突と書く。「オクドサンでご飯炊いてたのに、今は電気釜の時代や」 三つかまど、五つかまど、七つかまどのものがあったが、電化時代になって使われなくなった。大阪ではヘッツイ。「へ」は食物を入れる器。ツは「の」の意。「竈(へ)つ霊(ひ)」からいわれ始めたとも考えられる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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蔵物語(266)




 

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今京都 いきる 2009/06/27 12:00 am

きる
「えらいイキッテルな、なんぞええことあったんか」「あんまりイキルと体こわすで」「そんなにイキルと後が続かへんえ」 調子に乗る、気張る、息づかいを荒くしてたてつく、怒るのような意味がある。息(「いき」)を活用させたものか。キバルは、力む、努力する。「あんまりキバルと体にこたえる」 奮発するの意味もある。「もうちょっとキバッテんか」は値段を安くすること。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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山禅院(せきざんぜんいん)/五十払い (旧フォトヴィレッジ 2007年8月5日掲載)
関西には「五十払い」という面白い風習がある。これは「ごとばらい」と読む。「五十払い」は「五十日」(ごとび)ともいい、その意味は、毎月5と10のつく支払い日のこと。毎月の5、10、15、20、25、30を集金日とする関西の商い習慣から「ゴトバライ」とか「ゴトビ」と呼ばれている。現実には「えらい渋滞してる思うたら、今日はゴトビやん」とか、交通渋滞の理由に使われることが多い。



関西のテレビやラジオでは、実際に交通情報で「今日はゴトバライですから、渋滞が予想されます」などと、この言葉が堂々と電波に乗っている。このゴトバライのルーツが、京都洛北の赤山禅院(せきざんぜんいん)にあるという。赤山禅院は比叡山登山口に近い、修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)の北にあり、比叡山ただひとつの山外塔頭(さんがいたっちゅう)である。



この赤山禅院からゴトバライの風習が始まったとはいったいどういうことだろう。赤山禅院といえば「へちま加持(かじ)」によるぜんそく封じや無病息災で知られる寺。しかし、また「懸寄(かけよ)せの神」でもあるという。寺が神というのは奇妙だが、ここには実際に1枚めに掲載したように鳥居があり、ご神体を祀っていて、禅院にして神社の造りなのである。



懸寄せとは、すなわち「集金にご利益がある」ということ。毎月5日が1年のうちでめったに訪れない申(さる)の日に重なったとき、赤山禅院にお詣りをすると吉運に恵まれるという言い伝えがある。そのことから江戸時代には毎月5日を集金日とする習慣が生まれ、商人たちはこの寺に5日講詣りをしてから集金に出かけるようになった。ここから「五十払い」の風習が始まったという。





赤山禅院からはるか西、嵯峨の車折(くるまざき)神社にも、スムーズな集金を祈願する人が多いという。車折神社は清原頼業(きよはらよりなり)を祀る神社で頼業の「より」がお金の寄りをよくし、「なり」で商売が成り立つのだとか。あっけないほど単純明快であるが、本当にご利益があるのかどうか。こちらも江戸時代に始まったというから、江戸時代の商人たちは、よっぽど集金で苦労したのだろうか。



赤山禅院は千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)の行者にはゆかりが深く、京都御所から東北の方角にある鬼門として、赤山の拝殿屋根の赤猿は御所の東北隅に置かれた木彫りの猿(猿ヶ辻の猿)と互いに向き合っていると伝えられている。



本殿に掲げられた「皇城表鬼門(こうじょうおもてきもん)」の文字にはそうした意味がこめられているという。いずれにしても関西で日常的にある「五十払い」のルーツも京都にあったというお話…今京都。


 

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天を仰いで思うこと あんじょう 2009/06/26 12:00 am

んじょう
「アンジョウ教ええてあげて」「この話アンジョウまとまるとええな」と用い、上手に、うまくの意。「アンジョウあいつにだまされてしもた」のようにも用いる。もとは「味良く」からで、味覚表現であった。好都合に、いい具合に、の意味でアンバヨウとも。「仕事がアンバヨウ済んでよろしおしたな」 アンバヨウはアンバイヨクからで、アンバイは健康や天気ついていう。「機械のアンバイ」は機械の調子。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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方山話(58)
蛍について思うこと



蛍が発光する能力を獲得したのは「敵をおどかすため」という説や、「食べるとまずいことを警告する警戒色である」という説がある。事実ホタル科の昆虫は毒をもっており、よく似た姿や配色(ベーツ擬態、ミューラー擬態)をした昆虫も存在する。卵や幼虫の時代にはほとんどの種類が発光するが、成虫が発光する種は夜行性の種が大半を占め、昼行性の種の成虫では強く発光する種も存在するが、多くの種はまず発光しない。


カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

夜行性の種類ではおもに配偶行動の交信に発光を用いており、光を放つリズムやその際の飛び方などに種ごとの特徴がある。このため、「交尾のために発光能力を獲得した」と言う説も有力である。一般的には雄の方が運動性に優れ、飛び回りながら雌を探し、雌はあまり動かない。成虫が発光する場合は蛹も発光するので、このような種は生活史の全段階で発光することになる。


カメラ/EPSON R-D1s  レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4

また、蛍の種類は世界中で約2000種類、日本では約40種類が生息。日本で鑑賞できる代表的なものはゲンジホタル・ヘイケホタル・ヒメホタル。成虫はゲンジホタルの方が少し大きく発光も強めだという。ゲンジボタルの見ごろは5〜7月、ヘイケホタルは6〜8月が一般的。蛍鑑賞ができるのは夜7時〜9時頃で、月明かりがない・雨上がりで湿度が高い・風がないなどの条件が揃うと活発に活動する。
さて、その蛍。思わぬところにたくさんいた。が、写真を撮りに行ったときは前日の大雨で流されていた。それでもこれだけ撮ることができたのは幸いなことである。来年はもっと撮りたい…と、天を仰いで思うこと。


 

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今京都 いけず 2009/06/25 12:00 am

けず
「イケズばっかりしやはる」 意地悪の意味。意地悪する人はイケズシー。江戸時代には「いかず」といい、尋常には行かぬの意。女の子が遊ぶとき、「池の端(はた)のずいき」といってイケズする人を茶化した。ずいきは里芋の茎。池のイケ、ずいきのズと、イケズの三文字が含まれる洒落ことばである。イケズをいったり、イケズなことをするのが、京女の知恵でもあり、イケズの雰囲気は楽しみでもあった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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条通と松原通と五条天神宮と (旧フォトヴィレッジ 2007年8月17日〜20日掲載)



京の五条の橋の上
大の男の弁慶は
長い薙刀(なぎなた)ふりあげて
牛若めがけて切りかかる

これは、作詞作曲不詳/文部省唱歌(1年)の「牛若丸(うしわかまる)」の歌の1番。この歌で歌われているとおり、五条大橋の西詰めには牛若丸と弁慶の愛らしい石像が立っており、牛若丸と弁慶が出会った場所といわれている。しかし、牛若丸と弁慶が対峙した五条の橋は実はここでなかったという説がある。このお話には五条通そのもののお話も欠かせないものがある。かつて平安京に貫かれた一条から九条までの大路。千年以上も経った今も、一条から九条までの通りは健在。ところが五条に限っては、今の五条通とちがって、現在の松原通が旧の五条通にあたるという。







この松原通は「松原京極」という商店街をも築いている。そして「義経・弁慶ゆかりの街」というシールが通りの安全を確保する街路灯の支柱にペタペタと貼られている。実はこの通りこそ、牛若丸と弁慶の出会いの場だといわれている。この松原通りは、安土桃山時代から江戸初期の頃、松並木が続く道だったことから「五条松原通」と呼ばれていた。しかし、いつしか「五条」を略して「松原通」の呼び名になってしまった。そこで消えた「五条通」の名を復活させようと、六条坊門小路を五条通と改めたという。
手元に京都の市街地図があればもっとわかりやすい。今の四条〜五条の間が、他の通りと比べると随分間隔が広い。二条〜三条間は、押小路、御池、姉小路の三筋。三条〜四条間は、六角、蛸薬師、錦小路の三筋。ところが、四条〜五条間は綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿寺と五筋もある。地図上で見ても、整然と並んだ洛中碁盤の目の中で四条〜五条間だけが何故か離れている。しかし、松原通が本来の五条通だったとすると、その間に三筋はさんで、ぴったりと合うことになる。



というわけで、今の松原通にかかる「松原橋」が「旧五条橋」ではないかとの想像が駆け巡る。この橋は清水寺の参道にあたるため古くからかけられており、清水さんへお詣りにいくための「清水橋」とも、また清水寺の僧の勧進によってかけられたので「勧進橋」とも呼ばれていた。牛若丸と弁慶の出会いも、この松原橋といわれている。松原橋を渡ってみると、東山三十六峰が美しい稜線を描く、なんとも絵になる眺めである。
いっぽう現在の五条通にはじめて橋がかけられたのは天正年間(1573〜91)。豊臣秀吉が方広寺大仏殿を造営するにあたって、鴨川に橋をかけよと命じたらしい。牛若丸と弁慶が出会ったとされる1176年には、今の五条大橋は存在しなかったことになる。となると、やはり今の五条通ではなく、この松原通が牛若丸と弁慶の出会いの場となり、橋も松原橋ということになるのか…。お話はすんなりと終わらしてくれない。牛若丸と弁慶の出会いは、実は松原橋(旧五条橋)でもなく、五条天神社の境内が舞台だという説もある。そもそも牛若丸と弁慶の物語は室町時代の「義経記(ぎけいき)」などによって伝えられたもの。真偽のほどは不明であるが、五条天神社がなんらかの鍵を握っていそうだ。



五条天神社は794年、桓武天皇の平安遷都にあたり、大和の国から天神を勧請したという歴史をもつ古社。かつては代々天皇が参詣し、伝教大師や弘法大師も、ここに安全を祈願して唐に渡ったという社記が残っていたとのこと。中世には境内の広さが東西四町、南北五町におよび、周囲はうっそうたる森におおわれていた。その境内にはかつて西洞院(にしのとういん)川が流れ、橋はそこにかかっていたというのである。



五条天神社を訪ねてみると、庶民的な雰囲気のある松原商店街の一角にあたり、橋も川も森も、当然のことながら姿をとどめない。おまけに境内に高層マンションが建てられ、その下にかろうじてお社が残っている状態。街の片隅にあり見過ごしてしまいそうな神社だが、よく見ると確かに、ただならぬ荘厳さを漂わせている。「義経記」によると弁慶が999振りの太刀を奪い、あと一振りを祈願して五条天神社に詣り、そこで待ち伏せしているときに牛若丸と出会う。そこで勝負に挑むのだが、牛若丸はゆらりゆらりと飛び渡り、弁慶はその天狗のハヤワザに到底かなわない。翌日、弁慶は清水寺に参詣し、そこで牛若丸を再び待ち伏せて、再び討ちあいとなる。ところは清水の舞台。しかし、弁慶はまたしても負け、牛若丸に主従の誓いをするというもの。この話がもとになって、五条天神社と清水の舞台という二箇所の設定がいつしか清水へ向う道と五条の橋ということで、松原橋(旧五条橋)にむすびついたというのである。



五条天神社は祭神に大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなびこなのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る。これは鞍馬寺の鎮守社である由岐(ゆき)神社と共通する祭神で、鞍馬と五条天神社は牛若伝説でつながっているのかも知れない。五条天神社はまた、古来から「天使社(てんししゃ)」という名前をもち、医道、まじないの神としてあがめられてきた。9月1日と節分にはおけらと小餅、宝船などを宮中へ献じたそうで、この宝船図は日本最古の宝船として珍重されている。江戸時代には、参詣者で大いに賑わったという。神社は応仁の乱など度重なる兵火に巻き込まれ、由緒書は残らない。頼るのは義経記などの書物の記述のみだという。1961(昭和36)年には鴨川の五条大橋西詰めに義経と弁慶の石像が完成した。義経と弁慶の物語は鎮守の森から橋の上へと対決の場を移す。


(五条橋)


(松原橋)

物語の場となる松原橋も五条橋も今は車が絶え間なく行きかって騒々しいが、義経と弁慶の物語は世紀を超えて私たちを楽しませ続けていることには変わりない。付近には今も「天使突抜(てんしつきぬけ)」という地名が並ぶ。キリシタンとのゆかりを考える向きもあるというが、もしそうだとすると、「天使社」と名づけられた古代に一体何があったのだろう。異界伝説を想像してみたくなる「まじないの神様」である。また、好奇心が鎌首を持ち上げてきそうな…今京都。


 

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