rrbのブログ - 2017/12のエントリ
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今京都 膏薬辻子 2017/12/18 12:00 am
膏薬辻子(こうやくのずし)は、京都・下京区四条通新町西入から南に下り綾小路通に抜ける小路。中央で鉤型に屈折しているのが特徴である。名称は、平安期、空也がこの町の西側に道場を開き、後に膏薬道場と呼ばれたことに由来するというが、一説に、膏薬とは「空也供養」が転じたものともある。標識まである辻子(図子)はここだけではないだろうか…という今京都。






《京都・膏薬辻子》






《京都・膏薬辻子》
看板や標識が設置されている辻子(図子)は他に見ないよね
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今京都 御金神社 2017/12/14 12:00 am
日本神話に登場する伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の皇子である金山毘古神(かねやまひこのかみ)がご祭神としてまつられている御金神社(みかねじんじゃ)。もともとは民家の中にひっそりと祀られていたが、1883(明治16)年に社殿が創建され、金神(こんじき)様の愛称で親しまれ地域の人たちに参拝されるようになった。
この神社で一際目立つのは黄金に輝く鳥居。もともと木製の鳥居だったが、台風の影響で壊れ、鉄製の鳥居に。「金」の神様を祀っていることから、鳥居に金箔が施され、2006(平成18)年4月に黄金に輝く鳥居が完成。イチョウの形をした絵馬も特徴的
日本で唯一の強力な金運上昇のパワースポットとして注目され、今は年末ジャンボ宝くじの当選を願っての参拝が絶えないことだろう…という今京都。





《京都・御金神社》
この神社で一際目立つのは黄金に輝く鳥居。もともと木製の鳥居だったが、台風の影響で壊れ、鉄製の鳥居に。「金」の神様を祀っていることから、鳥居に金箔が施され、2006(平成18)年4月に黄金に輝く鳥居が完成。イチョウの形をした絵馬も特徴的
日本で唯一の強力な金運上昇のパワースポットとして注目され、今は年末ジャンボ宝くじの当選を願っての参拝が絶えないことだろう…という今京都。





《京都・御金神社》
年末ジャンボ宝くじ…買わなくては…ね
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今京都 身近なライトアップ 2017/12/13 12:00 am
ご近所のお寺での催し物。偶然、発見した。観光ガイドに載るような有名なものではないけれど、ご近所での催しはお客さんが少ない分、とてもとてもありがたい。こういう催し物、探せばもっともっとあるかも…という今京都。



《京都・本法寺》



《京都・本法寺》
身近なところでの発見って嬉しいよね
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今京都 北山時雨 2017/12/12 12:00 am
『ことばの歳時記』(金田一春彦)によると、「古来の有名な天気に関する語句は、京都を標準として出来ているものが多い」とのことだ。「女心と秋の空」「男心と秋の空」などは、「秋の空は定めがない」というたとえ。秋は好天が続く印象があるが、京都の晩秋の空模様は、晴れているかと思いきや細かい雨が降る。雨だと思いきや晴れ間がでる。このような定めのないのが秋空。特に晩秋はこのような天気を「北山時雨」という。気象学からいえば、時雨は「京都を中心とする近畿地方内陸部の独特な現象」らしい。
かつて京都人は、雲にまで名前をつけていた。西北に出る雲は「丹波太郎」。東南に出る雲は「奈良次郎」。西南に出る雲は「和泉三郎」。東北に出る雲は「近江小太郎」。雲を擬人化し、そのキャラクターに天気を重ね合わせる。嫌われ者は「丹波太郎の雷おこし」。夏に西空、つまり愛宕山の方向に立ち上る雲は雷を伴う。これらは盆地ならではの気象の知恵だ。今ではほとんど聞くことがないが、継承したい京都文化の知恵ではないだろうか。
「北山時雨」よりも「北山しぐれ」の表記のほうが好きだ…という今京都。


《京都・ちょっとした紅葉》
かつて京都人は、雲にまで名前をつけていた。西北に出る雲は「丹波太郎」。東南に出る雲は「奈良次郎」。西南に出る雲は「和泉三郎」。東北に出る雲は「近江小太郎」。雲を擬人化し、そのキャラクターに天気を重ね合わせる。嫌われ者は「丹波太郎の雷おこし」。夏に西空、つまり愛宕山の方向に立ち上る雲は雷を伴う。これらは盆地ならではの気象の知恵だ。今ではほとんど聞くことがないが、継承したい京都文化の知恵ではないだろうか。
「北山時雨」よりも「北山しぐれ」の表記のほうが好きだ…という今京都。


《京都・ちょっとした紅葉》
「春雨じゃ、濡れて行こう」も京都発の気象用語だと以前掲載していたよね
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今京都 地獄辻子 2017/12/11 12:00 am
京都・西陣、千本釈迦堂の門前の五辻通を少し東へ行ったところを今出川通まで南下する小路。このちょっと恐ろしい名前は、おそらく当て字。かつては「地奥辻子」や「釈迦突抜」と呼称されていた。千本釈迦堂の北側には千本閻魔堂があり、「地奥」の語呂と閻魔堂が結びついて変化したのではないかと推測。
「地奥」は、この町が開かれた頃に西洋から奥縞と呼ぶ織物を輸入、一時は流行を極めたのでこの町の織工がこれを模製して販売。それ以来、遠来のものを「唐奥」と云い、京都で製するものを「地奥」と云うようになり、これが町の名になったとの一説も…という今京都。



《京都・地獄辻子》
「地奥」は、この町が開かれた頃に西洋から奥縞と呼ぶ織物を輸入、一時は流行を極めたのでこの町の織工がこれを模製して販売。それ以来、遠来のものを「唐奥」と云い、京都で製するものを「地奥」と云うようになり、これが町の名になったとの一説も…という今京都。



《京都・地獄辻子》
3枚の写真で全景。辻子は本当に楽しいね