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今京都 六臂地蔵像(ろっぴじぞうぞう)/六道救う力が宿る 2016/03/15 12:00 am
京都・西陣の智恵光院境内に小さなお堂がたたずむ。格子状の木製扉の奥、薄暗い堂内に異形の地蔵尊像が静かに安置されている。穏やかなまなざしやふっくらとした顔立ちなどは、よく見かけるお地蔵さまと変わりない。しかし手が、如意輪観音や愛染明王のように六本ある。「日本でただ一体」という六臂(ろっぴ)地蔵像だ。
寺伝によれば作者は平安時代の小野篁。昼は朝廷に仕え、夜は閻魔(えんま)大王の役人として冥界(めいかい)で罪人を救った伝説で名高い。852年、篁は病にかかって死に、冥土へ旅立つ。そこで地蔵尊に巡り会う。地蔵尊は「苦しみを恐れる人に、わたしとの縁を結ばせよ。その人々はことごとくわたしが救おう。おまえは再び人間の世界に戻り、このことを伝えよ」と話しかける。篁は生き返り、庶民が地蔵尊をお参りできるように「地獄道」「餓鬼道」「畜生道」「修羅道」「人道」「天道」の六道それぞれを救う六体の地蔵を一本の桜の大木から彫り出し、木幡の里にまつった。
しかし篁は思う。「六道すべてを救う力を一体の像に込めることができれば、より功徳の大きな地蔵尊となるのでは」と。そこで七日間、精進潔斎し、密室にこもり像の制作に取りかかる。ひと彫りごとに三回礼拝して真心を込め、六道を表す六つの手をつけた六臂地蔵像を作り上げた。
時は移り1157年。平清盛の発願で、篁が作った六体の地蔵は桂や太秦など京都の六つの街道沿いに分けて安置される。一方の六臂地蔵像は御所近くの知恩寺にまつり、はやり病を鎮めて「厄よけ地蔵」と庶民から親しまれるようになった。その後、知恩寺第六世の如一国師が智恵光院を建立した縁で、南北朝時代に同院に移された、という。
近代には8月の地蔵盆の際、はぎれや残糸で糸人形を作る同院近くの西陣・笹屋町一帯の風習とともに法要を行い、多くの信仰を集めた、とされる。その法要は約50年ほど前に途絶えたが、現住職が10年ほど前に再興したらしい。
智恵光院は通り名「智恵光院通」の由来となった寺で、1294年、如一国師を開基に鷹司家始祖の藤原兼平が自らの菩提寺として創建した。本尊の阿弥陀如来像は快慶作とされる。智恵光院中立売のバス停から徒歩約3分。拝観無料だが、毎年8月23日の法要の日以外は六臂地蔵像が安置された地蔵堂の中には入れない…という今京都。

《京都・西陣界隈》
寺伝によれば作者は平安時代の小野篁。昼は朝廷に仕え、夜は閻魔(えんま)大王の役人として冥界(めいかい)で罪人を救った伝説で名高い。852年、篁は病にかかって死に、冥土へ旅立つ。そこで地蔵尊に巡り会う。地蔵尊は「苦しみを恐れる人に、わたしとの縁を結ばせよ。その人々はことごとくわたしが救おう。おまえは再び人間の世界に戻り、このことを伝えよ」と話しかける。篁は生き返り、庶民が地蔵尊をお参りできるように「地獄道」「餓鬼道」「畜生道」「修羅道」「人道」「天道」の六道それぞれを救う六体の地蔵を一本の桜の大木から彫り出し、木幡の里にまつった。
しかし篁は思う。「六道すべてを救う力を一体の像に込めることができれば、より功徳の大きな地蔵尊となるのでは」と。そこで七日間、精進潔斎し、密室にこもり像の制作に取りかかる。ひと彫りごとに三回礼拝して真心を込め、六道を表す六つの手をつけた六臂地蔵像を作り上げた。
時は移り1157年。平清盛の発願で、篁が作った六体の地蔵は桂や太秦など京都の六つの街道沿いに分けて安置される。一方の六臂地蔵像は御所近くの知恩寺にまつり、はやり病を鎮めて「厄よけ地蔵」と庶民から親しまれるようになった。その後、知恩寺第六世の如一国師が智恵光院を建立した縁で、南北朝時代に同院に移された、という。
近代には8月の地蔵盆の際、はぎれや残糸で糸人形を作る同院近くの西陣・笹屋町一帯の風習とともに法要を行い、多くの信仰を集めた、とされる。その法要は約50年ほど前に途絶えたが、現住職が10年ほど前に再興したらしい。
智恵光院は通り名「智恵光院通」の由来となった寺で、1294年、如一国師を開基に鷹司家始祖の藤原兼平が自らの菩提寺として創建した。本尊の阿弥陀如来像は快慶作とされる。智恵光院中立売のバス停から徒歩約3分。拝観無料だが、毎年8月23日の法要の日以外は六臂地蔵像が安置された地蔵堂の中には入れない…という今京都。

《京都・西陣界隈》
1年に1回しかないチャンスなのね
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◆◆なう スピーチの仕方 2016/03/14 12:00 am
先日、テレビで「相手の心に響くスピーチをしたい時は…」という内容のものが放送されていた。簡単に言えば、「スピーチ上達の5大心理テクニック」ということだ。
(1)一文35文字以内
(2)記憶に残る三の法則
(3)反復記憶法
(4)バートンの法則
(5)チアリーダー法
(1)一文35文字以内とは、私たちの脳の最初からの繋がりを覚えていられる限界は、大体35文字以内なので、相手の心に響くスピーチをしたい時は、一文35文字以内におさめれば大丈夫というもの。
(2)記憶に残る三の法則とは、例や言葉を3つ並べ記憶に残りやすくする方法のことである。たとえば、「○○の理由には三つあります(ここで実際に指を三本たてるようなゼスチャーも取り入れるとさらに効果的)。」というようなもの。
(3)反復記憶法とは、要点となるような言葉は、繰り返して言おうというもの。
(4)バートンの法則とは、人間は同じリズムには飽きてしまう。たとえば、声の強弱を入れたり、沈黙の時間を入れたりと、抑揚をつけると、注意が引きつけられるというもの。
(5)チアリーダー法とは、自分にとって好意を持ってくれている人(しきりにうなづいてくれる人とか)に向かって話すと緊張がほぐれるというもの。
考えてみれば、プレゼンでよく使っている手法である。自分にとって、プレゼンの手本は、スティーブ・ジョブズだ…という神戸なう。

《神戸》
(1)一文35文字以内
(2)記憶に残る三の法則
(3)反復記憶法
(4)バートンの法則
(5)チアリーダー法
(1)一文35文字以内とは、私たちの脳の最初からの繋がりを覚えていられる限界は、大体35文字以内なので、相手の心に響くスピーチをしたい時は、一文35文字以内におさめれば大丈夫というもの。
(2)記憶に残る三の法則とは、例や言葉を3つ並べ記憶に残りやすくする方法のことである。たとえば、「○○の理由には三つあります(ここで実際に指を三本たてるようなゼスチャーも取り入れるとさらに効果的)。」というようなもの。
(3)反復記憶法とは、要点となるような言葉は、繰り返して言おうというもの。
(4)バートンの法則とは、人間は同じリズムには飽きてしまう。たとえば、声の強弱を入れたり、沈黙の時間を入れたりと、抑揚をつけると、注意が引きつけられるというもの。
(5)チアリーダー法とは、自分にとって好意を持ってくれている人(しきりにうなづいてくれる人とか)に向かって話すと緊張がほぐれるというもの。
考えてみれば、プレゼンでよく使っている手法である。自分にとって、プレゼンの手本は、スティーブ・ジョブズだ…という神戸なう。

《神戸》
た、確かに rrb のプレゼンは、パワポもしゃべりもスゴイと、いつも評価が高いよね
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天を仰いで思うこと いま 2016/03/11 12:00 am
太宰治文学というか、文豪の表現にやられている。嵌ってしまっている。「いま、という瞬間は、面白い。いま、いま、いま、と指でおさえているうちにも、いま、は遠くへ飛び去って、あたらしい「いま」が来ている。」 これは『女生徒』に書かれている一文だ。
「いま」といった「いま」は既に過ぎたもの。「いつやるの? 今でしょ!」と言った瞬間の「今」は、既に過去のものである。これは「いま」という時間を点で捉えた場合だ。点で捉えるとこの表現は正しい。ただ、私たちは時間にしても点では捉えず、面あるいは線のように幅をもたして捉えることが多い。それを表現をしてしまっているのである。
「いつやるの? 今でしょ!」は、厳密に表現すると、「いつからやるの? 今からでしょ!」となるのではないだろうか。そんな理屈とも屁理屈ともいえるようなことを考えるようになった。文豪といわれる人の文章に触れるのは、本当におもしろい…と、天を仰いで思うこと。

「いま」といった「いま」は既に過ぎたもの。「いつやるの? 今でしょ!」と言った瞬間の「今」は、既に過去のものである。これは「いま」という時間を点で捉えた場合だ。点で捉えるとこの表現は正しい。ただ、私たちは時間にしても点では捉えず、面あるいは線のように幅をもたして捉えることが多い。それを表現をしてしまっているのである。
「いつやるの? 今でしょ!」は、厳密に表現すると、「いつからやるの? 今からでしょ!」となるのではないだろうか。そんな理屈とも屁理屈ともいえるようなことを考えるようになった。文豪といわれる人の文章に触れるのは、本当におもしろい…と、天を仰いで思うこと。

おぉ、完全に嵌ってるね〜、しばらくは文豪気取りの文章を書くのかな?
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おやかまっさん 眠りに落ちるときの気持ち 2016/03/10 12:00 am
昨日の「眼をさますときの気持ち」の続きである。続きというより、14歳の女生徒が朝起床してから夜就寝するまでの一日を、主人公の独白体で綴っている太宰治の『女生徒』の、終わりの部分だ。この話は、「眼をさますときの気持ち」で始まり、「眠りに落ちるときの気持ち」で終わる。
太宰は次のように書き表している。
眠りに落ちるときの気持ちって、へんなものだ。鮒(ふな)が、うなぎが、ぐいぐい釣り糸をひっぱるように、なんだか重い、鉛みたいな力が、糸でもって私の頭を、ぐっとひいて、私がとろとろ眠りかけると、また、ちょっと糸をゆるめる。すると、私は、はっと気を取り直す。また、ぐっと引く。とろとろ眠る。また、ちょっと糸を放す。そんなことを三度か、四度くりかえして、それから、ぐうっと大きく引いて、こんどは朝まで。
さて、自分はどう表現するであろうか。あるいは、眠りに落ちるときの気持ちって、どんなだろう。太宰のように表現するならば、何を例としてあげるだろうか。考えても思いつかない。時間がかかりそうだ。「眠りに落ちるときの気持ち」探索にも走りそうだ…ということで、どうも、おやかまっさんどした。

《京都・愛宕念仏寺》
太宰は次のように書き表している。
眠りに落ちるときの気持ちって、へんなものだ。鮒(ふな)が、うなぎが、ぐいぐい釣り糸をひっぱるように、なんだか重い、鉛みたいな力が、糸でもって私の頭を、ぐっとひいて、私がとろとろ眠りかけると、また、ちょっと糸をゆるめる。すると、私は、はっと気を取り直す。また、ぐっと引く。とろとろ眠る。また、ちょっと糸を放す。そんなことを三度か、四度くりかえして、それから、ぐうっと大きく引いて、こんどは朝まで。
さて、自分はどう表現するであろうか。あるいは、眠りに落ちるときの気持ちって、どんなだろう。太宰のように表現するならば、何を例としてあげるだろうか。考えても思いつかない。時間がかかりそうだ。「眠りに落ちるときの気持ち」探索にも走りそうだ…ということで、どうも、おやかまっさんどした。

《京都・愛宕念仏寺》
走れメロスの始まりと終わり、女生徒の始まりと終わり、粋だねぇ〜
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おやかまっさん 眼をさますときの気持ち 2016/03/09 12:00 am
文豪と言われる方々の作品を読み返しているが、とても考えさせられる。昨日の『走れメロス』もそうだが、『女生徒』もだ。14歳の女生徒が朝起床してから夜就寝するまでの一日を主人公の独白体で綴っているものであるが、冒頭から考えさせられる。
「あさ、眼をさますときの気持は、面白い。」とはじまる。その気持ちの説明に、まず、「かくれんぼ」がでてくる。押入れの中に、じっと隠れていて、見つけられたときの感じを取り上げているが、違うと否定。「なんだか、もっとやりきれない。」として、次に、ロシアのマトリョーシカ人形を想像させる入れ子構造の箱がでてくる。「箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。」というのだ。
自分の目を覚ますときの気持ちを探るが、なんだが違うような気がする。
さらに、「パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。」とし、「朝は健康だなんて、あれは嘘。朝は灰色。いつもいつも同じ。一ばん虚無だ。朝の寝床の中で、私はいつも厭世的だ。いやになる。いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶ええしちゃう。朝は、意地悪。」と続く。
なんとなく共感している自分がいるが、自分の朝の目覚めはどうなのだろうと再び考える。突然、けたたましいアラームの音にたたき起こされる。あるいは、アラームが鳴る前に目覚める。しかし、これは状況であり、目を覚ますときの気持ちではない。目覚める寸前なんて意識していない。「目を覚ますときの気持ち」ってどんなのだろう。「目が覚めたとき」ではなく「目を覚ますとき」である。失った意識が徐々に戻っていく感じなのか、無音から徐々に音量が上っていく感じなのか。それを太宰のように表現するならば、何を例としてあげるだろうか。考えても思いつかない。しばらくは「目をさますときの気持ち」探索に走りそうだ…ということで、どうも、おやかまっさんどした。

《京都・嵐山》
「あさ、眼をさますときの気持は、面白い。」とはじまる。その気持ちの説明に、まず、「かくれんぼ」がでてくる。押入れの中に、じっと隠れていて、見つけられたときの感じを取り上げているが、違うと否定。「なんだか、もっとやりきれない。」として、次に、ロシアのマトリョーシカ人形を想像させる入れ子構造の箱がでてくる。「箱をあけると、その中に、また小さい箱があって、その小さい箱をあけると、またその中に、もっと小さい箱があって、そいつをあけると、また、また、小さい箱があって、その小さい箱をあけると、また箱があって、そうして、七つも、八つも、あけていって、とうとうおしまいに、さいころくらいの小さい箱が出て来て、そいつをそっとあけてみて、何もない、からっぽ、あの感じ、少し近い。」というのだ。
自分の目を覚ますときの気持ちを探るが、なんだが違うような気がする。
さらに、「パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。」とし、「朝は健康だなんて、あれは嘘。朝は灰色。いつもいつも同じ。一ばん虚無だ。朝の寝床の中で、私はいつも厭世的だ。いやになる。いろいろ醜い後悔ばっかり、いちどに、どっとかたまって胸をふさぎ、身悶ええしちゃう。朝は、意地悪。」と続く。
なんとなく共感している自分がいるが、自分の朝の目覚めはどうなのだろうと再び考える。突然、けたたましいアラームの音にたたき起こされる。あるいは、アラームが鳴る前に目覚める。しかし、これは状況であり、目を覚ますときの気持ちではない。目覚める寸前なんて意識していない。「目を覚ますときの気持ち」ってどんなのだろう。「目が覚めたとき」ではなく「目を覚ますとき」である。失った意識が徐々に戻っていく感じなのか、無音から徐々に音量が上っていく感じなのか。それを太宰のように表現するならば、何を例としてあげるだろうか。考えても思いつかない。しばらくは「目をさますときの気持ち」探索に走りそうだ…ということで、どうも、おやかまっさんどした。

《京都・嵐山》
おやおや、またまた変なツボにはいっちゃったよ、大丈夫? 昔からそういうとこあるからなぁ…