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天を仰いで思うこと てれこ 2009/09/07 12:00 am
てれこ
互い違い。あべこべ。逆さま。「その服、前と後ろとテレコと違うか」物事が行き違いになることにもいう。「テレコになってしもて、うまい具合に行きまへんのや」 もとは「手入れこ」から。テイレは手を加えること。コは交互にする物事を示す接尾語。歌舞伎楽屋用語のテイレコに基づく。歌舞伎脚本でふたつの異なる筋をひとつにまとめ、多少の関連を持たせ一幕おきに交互に筋を展開させること。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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天を仰いで思うこと

今年の夏は、お盆をすぎた頃になって近畿では夏らしい日々が続いた。でも、今年の夏は、やはり変。どこかおかしい、と感じる。イヤイヤ、今年の夏も、かも知れない。各地でずれ込んだ梅雨明けも、東北地方だけは気象台も特定できずじまい。農作物への影響も気になるが、天候異変は日本だけに限らない。台風8号が直撃した台湾では、土砂崩れで数百人が生き埋めになったともいわれ救出活動が続いている。豪州東部のブリスベーンでは7月の降水量が平年の5%に達せず、トルコ各地では逆に多雨続き、南米北部では異常高温が続く、など様々。

これらの要因とされるのが、エルニーニョ現象である。何年間かおきに、南米ペルー沖の海面水温が高くなり、太平洋赤道域を中心に、広い範囲で大気や海洋が変動する。気象庁によれば1949年以降、今年を含め14回起きているという。エルニーニョの年は夏場の気温が全国的に低めで、降水量は一部を除き多い。中でも北日本は低温多雨の傾向が見られ、冷害の心配がある。偏西風の蛇行など大気の流れにも異常をもたらし集中豪雨の恐れもあるそうだ。さらに気になるのは近年、局地的な集中豪雨が増えていることだ。エルニーニョと相乗効果を起こす恐れはないだろうか。兵庫県佐用町の惨事は、人ごとではない。防災でも、食の問題でも、視野を広げ、過去の教訓に学んで行動に生かしたい。そう考えれば、ことは天気に限った話ではなさそうだ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
もうひとつ、エルニーニョと関連の深いものがある。それは、楽天の野村監督。1993年にヤクルトで日本一になるなど、エルニーニョ現象が起こった年は強いというものがある。強さは、もちろんゲンだけではないが、今年の楽天を見ていると、野村監督とエルニーニョ現象のジンクスがあるような気がする。クライマックスシリーズに見事進出し、さらに日本シリーズへ…などとなると、「エルニーニョ、エルニーニョ。やっぱり今年は何か起きるぞ」と、笑う野村監督の姿があった場合、これも、ことは天気に限った話ではなさそうだ…と、天を仰いで思うこと。

互い違い。あべこべ。逆さま。「その服、前と後ろとテレコと違うか」物事が行き違いになることにもいう。「テレコになってしもて、うまい具合に行きまへんのや」 もとは「手入れこ」から。テイレは手を加えること。コは交互にする物事を示す接尾語。歌舞伎楽屋用語のテイレコに基づく。歌舞伎脚本でふたつの異なる筋をひとつにまとめ、多少の関連を持たせ一幕おきに交互に筋を展開させること。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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天を仰いで思うこと

今年の夏は、お盆をすぎた頃になって近畿では夏らしい日々が続いた。でも、今年の夏は、やはり変。どこかおかしい、と感じる。イヤイヤ、今年の夏も、かも知れない。各地でずれ込んだ梅雨明けも、東北地方だけは気象台も特定できずじまい。農作物への影響も気になるが、天候異変は日本だけに限らない。台風8号が直撃した台湾では、土砂崩れで数百人が生き埋めになったともいわれ救出活動が続いている。豪州東部のブリスベーンでは7月の降水量が平年の5%に達せず、トルコ各地では逆に多雨続き、南米北部では異常高温が続く、など様々。

これらの要因とされるのが、エルニーニョ現象である。何年間かおきに、南米ペルー沖の海面水温が高くなり、太平洋赤道域を中心に、広い範囲で大気や海洋が変動する。気象庁によれば1949年以降、今年を含め14回起きているという。エルニーニョの年は夏場の気温が全国的に低めで、降水量は一部を除き多い。中でも北日本は低温多雨の傾向が見られ、冷害の心配がある。偏西風の蛇行など大気の流れにも異常をもたらし集中豪雨の恐れもあるそうだ。さらに気になるのは近年、局地的な集中豪雨が増えていることだ。エルニーニョと相乗効果を起こす恐れはないだろうか。兵庫県佐用町の惨事は、人ごとではない。防災でも、食の問題でも、視野を広げ、過去の教訓に学んで行動に生かしたい。そう考えれば、ことは天気に限った話ではなさそうだ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
もうひとつ、エルニーニョと関連の深いものがある。それは、楽天の野村監督。1993年にヤクルトで日本一になるなど、エルニーニョ現象が起こった年は強いというものがある。強さは、もちろんゲンだけではないが、今年の楽天を見ていると、野村監督とエルニーニョ現象のジンクスがあるような気がする。クライマックスシリーズに見事進出し、さらに日本シリーズへ…などとなると、「エルニーニョ、エルニーニョ。やっぱり今年は何か起きるぞ」と、笑う野村監督の姿があった場合、これも、ことは天気に限った話ではなさそうだ…と、天を仰いで思うこと。


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今京都 やくたい 2009/09/06 12:00 am
やくたい
迷惑。無謀。「こないしてもらいまして、ヤクタイどすがな」 ヤクタイは「益体」の意。もと益体は、きちんと整い、役に立つことをいった。それが「そないにあわてて、ヤクタイモナイことや」のように「益体無し、無益な」の意味で用いた。形容動詞はヤクタイナ。一説に「薬袋(やくたい)も無し」からだという。医者は薬袋が無いと治療ができない。それで無茶・無謀の意味になったと。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



地蔵物語(276)


迷惑。無謀。「こないしてもらいまして、ヤクタイどすがな」 ヤクタイは「益体」の意。もと益体は、きちんと整い、役に立つことをいった。それが「そないにあわてて、ヤクタイモナイことや」のように「益体無し、無益な」の意味で用いた。形容動詞はヤクタイナ。一説に「薬袋(やくたい)も無し」からだという。医者は薬袋が無いと治療ができない。それで無茶・無謀の意味になったと。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



地蔵物語(276)



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今京都 ごりがん 2009/09/05 12:00 am
ごりがん
ゴリガンは無理やりに自分の主張を押し通そうとすること、強引に無理を押し通してごてる人、ごり押しの頑固者のこと。ゴリガンのゴリは、ごり押しの略で、ガンは頑固者の「頑」。淡水魚のゴリ(ハゼ科)は京の名産。ゴリを捕らえるのに、ムシロを鴨川の浅瀬に伏せ、ムシロの上に多くの小石と土を敷き、ひとりが川下からゴリを追い、小石に隠れたゴリをふたりでムシロを持ち上げて取った。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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子安観世音 (旧フォトヴィレッジ 2007年3月18日掲載)
地蔵物語のビッグ版ともいえるかも知れないけれど、今出川通を斜めに横切る志賀越道の入り口に立つ高さ約2mの巨大な石仏。北白川の顔として地元住民だけでなく、広く市民に親しまれている。この石仏は、鎌倉時代中期ごろの作とされ、いくつかのエピソードの中でも、豊臣秀吉を負かしたことで有名。

そのエピソードとは、ある日、秀吉に気に入られ聚楽第(じゅらくだい)に連れ去られた。しかし「白川に戻せ〜」と毎夜うなり声を上げ、元の地に戻された。というもの。文政13(1830)年の白川村の大火では、両手と首がちぎれ「首切れ地蔵」と呼ばれた。その後、村の入口に当たる現在地に移され、子授けや安全の願いをかなえ、子どもの成長を守る観音として信仰を集めた。

かたわらにある看板には、「みちばたの 川にはさまれ 東むき あさひをうける 子安観音」という御詠歌が記されている。かつて志賀越道の脇には幅1.5mほどの川が流れ、挟まれて立っていた。東を向き、朝日を受ける姿を詠んでいるという。

京の町で四季の花を売り歩く「白川女」が早朝村を出ていく際には必ず花を供え、商売繁盛と一日の無事を祈たっり、出産間近でも行商に出る女性が多く途中で陣痛に襲われないように願ったという。時代とともに白川女は減り、今では10人ほどしかいないらしい。衣装を着て頭上に花を載せ、大八車を引く古来のスタイルはほとんど見られず、花を供えることも減ったという。実は、この日、「白川女」と出会えるかと期待したけれど、やはり無理だった。

さらに、この石仏は、数年前に走行中のトラックにぶつけられる事故に遭っている。胴体と頭部は丸太を使って別々の石で組み合わせた弱い構造だったため頭が転げ落ちた。その際、額を中心に表面が損傷し今もその部分だけは白くなっており、接着してセメントで塗り固めた痕跡が今でもはっきりと分かるのが痛々しい。しかし、「この石仏の周りでこれまで子どもが巻き込まれた交通事故は一度もない」という。

近くの久保田町西部・西町東部・西町西部の3町が輪番で世話をしている。毎月1日と15日は花を取り替え、絶やすことはない。ほこらは1953年に地元住民が浄財を出し合い、作った。「拾遺都名所図会」にも描かれているという…今京都。

ゴリガンは無理やりに自分の主張を押し通そうとすること、強引に無理を押し通してごてる人、ごり押しの頑固者のこと。ゴリガンのゴリは、ごり押しの略で、ガンは頑固者の「頑」。淡水魚のゴリ(ハゼ科)は京の名産。ゴリを捕らえるのに、ムシロを鴨川の浅瀬に伏せ、ムシロの上に多くの小石と土を敷き、ひとりが川下からゴリを追い、小石に隠れたゴリをふたりでムシロを持ち上げて取った。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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子安観世音 (旧フォトヴィレッジ 2007年3月18日掲載)
地蔵物語のビッグ版ともいえるかも知れないけれど、今出川通を斜めに横切る志賀越道の入り口に立つ高さ約2mの巨大な石仏。北白川の顔として地元住民だけでなく、広く市民に親しまれている。この石仏は、鎌倉時代中期ごろの作とされ、いくつかのエピソードの中でも、豊臣秀吉を負かしたことで有名。

そのエピソードとは、ある日、秀吉に気に入られ聚楽第(じゅらくだい)に連れ去られた。しかし「白川に戻せ〜」と毎夜うなり声を上げ、元の地に戻された。というもの。文政13(1830)年の白川村の大火では、両手と首がちぎれ「首切れ地蔵」と呼ばれた。その後、村の入口に当たる現在地に移され、子授けや安全の願いをかなえ、子どもの成長を守る観音として信仰を集めた。

かたわらにある看板には、「みちばたの 川にはさまれ 東むき あさひをうける 子安観音」という御詠歌が記されている。かつて志賀越道の脇には幅1.5mほどの川が流れ、挟まれて立っていた。東を向き、朝日を受ける姿を詠んでいるという。

京の町で四季の花を売り歩く「白川女」が早朝村を出ていく際には必ず花を供え、商売繁盛と一日の無事を祈たっり、出産間近でも行商に出る女性が多く途中で陣痛に襲われないように願ったという。時代とともに白川女は減り、今では10人ほどしかいないらしい。衣装を着て頭上に花を載せ、大八車を引く古来のスタイルはほとんど見られず、花を供えることも減ったという。実は、この日、「白川女」と出会えるかと期待したけれど、やはり無理だった。

さらに、この石仏は、数年前に走行中のトラックにぶつけられる事故に遭っている。胴体と頭部は丸太を使って別々の石で組み合わせた弱い構造だったため頭が転げ落ちた。その際、額を中心に表面が損傷し今もその部分だけは白くなっており、接着してセメントで塗り固めた痕跡が今でもはっきりと分かるのが痛々しい。しかし、「この石仏の周りでこれまで子どもが巻き込まれた交通事故は一度もない」という。

近くの久保田町西部・西町東部・西町西部の3町が輪番で世話をしている。毎月1日と15日は花を取り替え、絶やすことはない。ほこらは1953年に地元住民が浄財を出し合い、作った。「拾遺都名所図会」にも描かれているという…今京都。


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天を仰いで思うこと せんぐり 2009/09/04 12:00 am
せんぐり
「セングリ車が通って危ない」「セングリ考えたけど、うまいこといきまへんな」 次から次へと、順々にの意味。先から先へと繰る「先繰り」から。もとはセングリニと言った。江戸時代後期ごろから、「ニ」を省いた。セングリセングリと、重ねていうこともある。「セングリセングリ用事が出来ましてな」「繰る」にはもと、引き寄せるの意味があり、順々に送り動かすことでもあった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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天を仰いで思うこと

パンパンと神社でかしわ手を打ったり、鈴をじゃらじゃら鳴らしたりするのは、「どうか私の願いに耳を傾けてください。では申し上げますからね」というシグナル。さまざまな相談事や願い事を持ち込まれ、多忙を極める神仏。その注意をひき、自分の居場所を知らせるには大きな音が一番ということなのだろう。
今、「静かすぎて困る。もう少し音を出して存在をアピールして」と、注文されているものがある。それは、ハイブリッド車。エンジンとモーターを組み合わせて走るハイブリッド車。特にスタート時や低速時はモーターだけで走れるので、ほとんど音がしない。それが、住宅地の角を曲がったら目の前に車がいた、とか、自転車が、後ろから忍者のように接近してきた車に気づかず接触しそうになった、という事例があって、国土交通省や業界が対策に乗り出すこととなったらしい。

自動車の音問題といえば、騒音がうるさいというのが常識だ。テクノロジーの進展と開発者の努力が新たな音問題を生んだのだから皮肉なものだ。1910年代に「T型フォード」の量産が始まって以来、自動車メーカーはエンジンやタイヤの改良を続け、静かな車作りを目指してきた。最も静かなガソリンエンジン車が製造されたのは1960年ごろのことだったという。
しかし、60年代には、再びもっと大きな音のするのを作り始め、70年代にはデトロイトの製造業者は、自分たちの自動車の騒音増大を宣伝の呼び物にするようになった、というから驚きだ。70年代の雑誌には、高性能の怪獣。アクセルを踏めば、こいつは吠える。大型排気量と高圧縮比の導入で、エンジン騒音、吸入、排気騒音の増大が促進されます、といった広告が堂々と載った、という。
ラジオや音楽が聴きたいからリビングルーム並みの静かさが欲しいという人もいれば、飛ばしている感じがしない、と大きな音を求める若者らもいた。昔も今も、消費者の要望に応えることは容易でない。ハイブリッド車の静音対策は、人工音を出す装置を搭載するといった方向で検討されるようだ。将来、さらに静粛性に優れた電気自動車が普及すると、静音問題は一層「深刻」なものになる心配もある。ここで一定の方向性を示しておくことは重要だが、注目されるのは、どんな人工音が採用されるか、だ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
今、街にはさまざまな電子音にあふれている。歩行者や自転車が「車が来た」とちゃんと判別できるものでないと意味がない。しかし、パンパン、ジャラジャラは採用されないだろう。昔、京都の路面電車には「電車がきまっせ、あぶのおっせ」と、電車の前を走って通行人に危険を知らせる「先走り」という少年(←クリック)がいた。初期の電車は時速約10kmと遅いので、直前を横切る人も多く、かえって危険なために、昼は旗、夜は提灯をもって少年が先を走ったのだとか。なんとものどかな雰囲気で微笑ましい感じがする。このことにヒントを得て、「車がきまっせ、あぶのおっせ」という電子音声はどうだろうか…と、天を仰いで思うこと。

「セングリ車が通って危ない」「セングリ考えたけど、うまいこといきまへんな」 次から次へと、順々にの意味。先から先へと繰る「先繰り」から。もとはセングリニと言った。江戸時代後期ごろから、「ニ」を省いた。セングリセングリと、重ねていうこともある。「セングリセングリ用事が出来ましてな」「繰る」にはもと、引き寄せるの意味があり、順々に送り動かすことでもあった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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天を仰いで思うこと

パンパンと神社でかしわ手を打ったり、鈴をじゃらじゃら鳴らしたりするのは、「どうか私の願いに耳を傾けてください。では申し上げますからね」というシグナル。さまざまな相談事や願い事を持ち込まれ、多忙を極める神仏。その注意をひき、自分の居場所を知らせるには大きな音が一番ということなのだろう。
今、「静かすぎて困る。もう少し音を出して存在をアピールして」と、注文されているものがある。それは、ハイブリッド車。エンジンとモーターを組み合わせて走るハイブリッド車。特にスタート時や低速時はモーターだけで走れるので、ほとんど音がしない。それが、住宅地の角を曲がったら目の前に車がいた、とか、自転車が、後ろから忍者のように接近してきた車に気づかず接触しそうになった、という事例があって、国土交通省や業界が対策に乗り出すこととなったらしい。

自動車の音問題といえば、騒音がうるさいというのが常識だ。テクノロジーの進展と開発者の努力が新たな音問題を生んだのだから皮肉なものだ。1910年代に「T型フォード」の量産が始まって以来、自動車メーカーはエンジンやタイヤの改良を続け、静かな車作りを目指してきた。最も静かなガソリンエンジン車が製造されたのは1960年ごろのことだったという。
しかし、60年代には、再びもっと大きな音のするのを作り始め、70年代にはデトロイトの製造業者は、自分たちの自動車の騒音増大を宣伝の呼び物にするようになった、というから驚きだ。70年代の雑誌には、高性能の怪獣。アクセルを踏めば、こいつは吠える。大型排気量と高圧縮比の導入で、エンジン騒音、吸入、排気騒音の増大が促進されます、といった広告が堂々と載った、という。
ラジオや音楽が聴きたいからリビングルーム並みの静かさが欲しいという人もいれば、飛ばしている感じがしない、と大きな音を求める若者らもいた。昔も今も、消費者の要望に応えることは容易でない。ハイブリッド車の静音対策は、人工音を出す装置を搭載するといった方向で検討されるようだ。将来、さらに静粛性に優れた電気自動車が普及すると、静音問題は一層「深刻」なものになる心配もある。ここで一定の方向性を示しておくことは重要だが、注目されるのは、どんな人工音が採用されるか、だ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
今、街にはさまざまな電子音にあふれている。歩行者や自転車が「車が来た」とちゃんと判別できるものでないと意味がない。しかし、パンパン、ジャラジャラは採用されないだろう。昔、京都の路面電車には「電車がきまっせ、あぶのおっせ」と、電車の前を走って通行人に危険を知らせる「先走り」という少年(←クリック)がいた。初期の電車は時速約10kmと遅いので、直前を横切る人も多く、かえって危険なために、昼は旗、夜は提灯をもって少年が先を走ったのだとか。なんとものどかな雰囲気で微笑ましい感じがする。このことにヒントを得て、「車がきまっせ、あぶのおっせ」という電子音声はどうだろうか…と、天を仰いで思うこと。


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今京都 てったい 2009/09/03 12:00 am
てったい
手伝い。大工や左官の助手。「このごろテッタイやってます」 テッタイサンとも。土木関係の雇い人夫のことも呼ぶ。江戸時代の文政4(1821)年刊『浪花方言』には「手伝。江戸の仕事師のこと、大工の手伝也」とある。手伝うをテッタウということから。テッタイは「手のトビ(提供)」ということで、テトウは助ける、労力を提供して報償を予期すること。「ちょっとテットテンか」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
一条戻橋(いちじょうもどりばし) (旧フォトヴィレッジ 2007年3月2日掲載)
西行き一方通行をひっきりなしに車が通る一条通堀川の戻橋。かつては出征する兵士が無事に帰還できるよう験を担いでここを渡った。婚礼や葬儀の一行は今も避けて通る。伝えられる不思議な話の数は京でも随一。その名は死者がよみがえった伝説に由来する。

平安中期の918年、文章博士の三善清行(みよしきよゆき)の葬列がこの橋にさしかかった時、修験道の修行から帰京した息子の浄蔵(じょうぞう)が父の棺と出会う。変わり果てた姿に浄蔵は「父の魂を戻してほしい」と一心に読経した。すると清行が息を吹き返し、親子は涙を流して喜んだ。以来、死者が戻る橋として現在の名がついた。

橋から約200m北の晴明神社とのかかわりも深い。浄蔵の時代から80年ほど後、陰陽師の安倍晴明は式神を屋敷そばの戻橋の下に潜ませ、予言や占いの際に操ったという。晴明の妻が式神が屋敷内にいるのを嫌がったため、橋の下の石棺に封じたとされる。都の内と外を隔てる地だったから霊的な物語が生まれやすかったのでは…と想像する。

堀川は、かつての内裏の東側外堀の役割を果たし、一条通は平安京の最も北の通りだった。都の鬼門である北東角に当たり、伝説が数多く生まれたとされる。晴明がここに住んだのも鬼門の守護のためだった。平安中期の伝承では、源頼光の家来、渡辺綱が戻橋で美女に化けた鬼と出会い、正体を見破って鬼の腕を切り落とした。鬼はその後、腕を取り返しに戻ってきたという。おどろおどろしい事件もあった。1591年、千利休がこの地に構えた屋敷で自害すると、その首は戻橋にさらされ、大徳寺にあった利休の木像で、首を踏みつけにしたとされる。

晴明神社境内に再現されているミニチュア版の「旧一條戻橋」
周辺で生まれ育った人々は「不気味な橋だったから子供にとっては面白い探検場所だったが、大人に『橋で遊んだ』と言うとえらい怒られた」と幼いころを語る。現在の橋は1995年に架け替えられた。大正時代から出征者を見送ってきた先代の橋は、親柱や木製欄干などを再利用したミニチュア版の「旧一條戻橋」として晴明神社境内に再現されている…今京都。

手伝い。大工や左官の助手。「このごろテッタイやってます」 テッタイサンとも。土木関係の雇い人夫のことも呼ぶ。江戸時代の文政4(1821)年刊『浪花方言』には「手伝。江戸の仕事師のこと、大工の手伝也」とある。手伝うをテッタウということから。テッタイは「手のトビ(提供)」ということで、テトウは助ける、労力を提供して報償を予期すること。「ちょっとテットテンか」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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一条戻橋(いちじょうもどりばし) (旧フォトヴィレッジ 2007年3月2日掲載)
西行き一方通行をひっきりなしに車が通る一条通堀川の戻橋。かつては出征する兵士が無事に帰還できるよう験を担いでここを渡った。婚礼や葬儀の一行は今も避けて通る。伝えられる不思議な話の数は京でも随一。その名は死者がよみがえった伝説に由来する。

平安中期の918年、文章博士の三善清行(みよしきよゆき)の葬列がこの橋にさしかかった時、修験道の修行から帰京した息子の浄蔵(じょうぞう)が父の棺と出会う。変わり果てた姿に浄蔵は「父の魂を戻してほしい」と一心に読経した。すると清行が息を吹き返し、親子は涙を流して喜んだ。以来、死者が戻る橋として現在の名がついた。

橋から約200m北の晴明神社とのかかわりも深い。浄蔵の時代から80年ほど後、陰陽師の安倍晴明は式神を屋敷そばの戻橋の下に潜ませ、予言や占いの際に操ったという。晴明の妻が式神が屋敷内にいるのを嫌がったため、橋の下の石棺に封じたとされる。都の内と外を隔てる地だったから霊的な物語が生まれやすかったのでは…と想像する。

堀川は、かつての内裏の東側外堀の役割を果たし、一条通は平安京の最も北の通りだった。都の鬼門である北東角に当たり、伝説が数多く生まれたとされる。晴明がここに住んだのも鬼門の守護のためだった。平安中期の伝承では、源頼光の家来、渡辺綱が戻橋で美女に化けた鬼と出会い、正体を見破って鬼の腕を切り落とした。鬼はその後、腕を取り返しに戻ってきたという。おどろおどろしい事件もあった。1591年、千利休がこの地に構えた屋敷で自害すると、その首は戻橋にさらされ、大徳寺にあった利休の木像で、首を踏みつけにしたとされる。

晴明神社境内に再現されているミニチュア版の「旧一條戻橋」
周辺で生まれ育った人々は「不気味な橋だったから子供にとっては面白い探検場所だったが、大人に『橋で遊んだ』と言うとえらい怒られた」と幼いころを語る。現在の橋は1995年に架け替えられた。大正時代から出征者を見送ってきた先代の橋は、親柱や木製欄干などを再利用したミニチュア版の「旧一條戻橋」として晴明神社境内に再現されている…今京都。

