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今京都 はすかい 2009/11/26 12:00 am
はすかい
斜め。「この折紙、次にハスカイに折るのや」 もとは柱と柱の間に入れた細い板。ハスは端隅の略。ハスとスジカイの複合による。筋交は斜めに交わったさま。対角線のこともいう。本を読むのにハスカイに目をやって速読する人がいる。大阪ではハスともいうが、京都ではハスカイを用い、「ハスカイに切る」という。「ご機嫌ななめ」というが、「ご機嫌ハスカイ」とは言わない。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
花山稲荷神社/忠臣蔵 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月15日掲載)
♪ 勅使下向の春弥生
いかに果たさん 勤めなん
身は饗応(きょうおう)の 大役ぞ
頼むは吉良と 思えども
彼(か)の振舞の 心なき ♪

「刃傷松の廊下」 作詞は藤間哲郎、作曲は桜田誠一、唄は真山一郎…小さい頃、酔った祖父たちが口にしていたのをかすかに覚えている。「刃傷松の廊下」 といえば忠臣蔵。江戸時代中期、主君のあだ討ちで知られる元禄赤穂事件。京都市山科区にある西野山一帯には義挙を主導した大石内蔵助良雄にまつわる伝承が多く残る。その中でも花山稲荷神社(かざんいなりじんじゃ)にある「内蔵助の断食石」は、内蔵助が腰を掛け寝食を忘れるほどに討ち入りの秘策を練ったといわれる。

拝殿の前にあり、畳一畳分ほどの大きさで高さが約50cm。傍らには「大石良雄公遺跡」と刻まれた石碑が建ち、忠臣蔵のファンや観光客が訪れ見入るという。播州赤穂藩主だった浅野内匠頭長矩が江戸城松の廊下で刃傷に及び切腹したのは1701(元禄14)年3月14日。花山稲荷神社から南に約1km、内蔵助とゆかりの深い大石神社の神社由緒書によると、赤穂藩が改易(領地没収)となり、城代家老の内蔵助が城を明け渡した後の同年6月28日、親類の進藤源四郎を頼り、現在は同神社があるこの地に移ったという。人里から離れていたが、東海道や京都に近く交通の便がよかったことから、ここで頻繁に同志と会合を開いたとされる。山科に隠れ住んでいたころの内蔵助は、しばしば花山稲荷神社を参拝していたという。

♪ 花の命を さながらに
赤穂三代 五十年
浅野の家も これまでか
君君たらずとも 臣は臣
許せよ吾を この無念 ♪

同神社によると、1699(元禄12)年に源四郎が社殿を寄進した記録が残る。親類と縁の深い神社なのだから、内蔵助が足を運んだのは確かだとの推測もある。神社へ足しげく詣でた内蔵助。「内蔵助の断食石」を前にすると、岩に座して主君の敵をいかに討つかを考え抜いた姿が目に浮かぶ。この「内蔵助の断食石」の出自には、明治になってこの辺りを開拓したとき、大きな岩を爆破し、当時の宮司がその中で一番大きな破片を境内に置いたのが「内蔵助の断食石」という異説もある。その他に花山稲荷神社には、内蔵助が血判状を書くときの台にしたという「血判石」や、内蔵助が奉納したとされる鳥居もあるという。


血判石は、本殿を囲む塀の中にひっそりとたたずみ、鳥居は本殿の裏に保管されている。残念ながらこの日は対面することができなかった。いずれも本当に内蔵助とゆかりがあるのかどうかは分かっていないということだが…。それでも、内蔵助を慕う参拝客が伝承の品を眺め、山科に隠せいしていたころの内蔵助をしのんでいるには違いない。近くには大石神社や岩屋寺、山科神社など内蔵助とゆかりの深いスポットが多い。この石の上で寝食を忘れ秘策を練っていたという姿を想像し、気持ちは大石神社に向いている自分がいた…今京都。

斜め。「この折紙、次にハスカイに折るのや」 もとは柱と柱の間に入れた細い板。ハスは端隅の略。ハスとスジカイの複合による。筋交は斜めに交わったさま。対角線のこともいう。本を読むのにハスカイに目をやって速読する人がいる。大阪ではハスともいうが、京都ではハスカイを用い、「ハスカイに切る」という。「ご機嫌ななめ」というが、「ご機嫌ハスカイ」とは言わない。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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花山稲荷神社/忠臣蔵 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月15日掲載)
♪ 勅使下向の春弥生
いかに果たさん 勤めなん
身は饗応(きょうおう)の 大役ぞ
頼むは吉良と 思えども
彼(か)の振舞の 心なき ♪

「刃傷松の廊下」 作詞は藤間哲郎、作曲は桜田誠一、唄は真山一郎…小さい頃、酔った祖父たちが口にしていたのをかすかに覚えている。「刃傷松の廊下」 といえば忠臣蔵。江戸時代中期、主君のあだ討ちで知られる元禄赤穂事件。京都市山科区にある西野山一帯には義挙を主導した大石内蔵助良雄にまつわる伝承が多く残る。その中でも花山稲荷神社(かざんいなりじんじゃ)にある「内蔵助の断食石」は、内蔵助が腰を掛け寝食を忘れるほどに討ち入りの秘策を練ったといわれる。

拝殿の前にあり、畳一畳分ほどの大きさで高さが約50cm。傍らには「大石良雄公遺跡」と刻まれた石碑が建ち、忠臣蔵のファンや観光客が訪れ見入るという。播州赤穂藩主だった浅野内匠頭長矩が江戸城松の廊下で刃傷に及び切腹したのは1701(元禄14)年3月14日。花山稲荷神社から南に約1km、内蔵助とゆかりの深い大石神社の神社由緒書によると、赤穂藩が改易(領地没収)となり、城代家老の内蔵助が城を明け渡した後の同年6月28日、親類の進藤源四郎を頼り、現在は同神社があるこの地に移ったという。人里から離れていたが、東海道や京都に近く交通の便がよかったことから、ここで頻繁に同志と会合を開いたとされる。山科に隠れ住んでいたころの内蔵助は、しばしば花山稲荷神社を参拝していたという。

♪ 花の命を さながらに
赤穂三代 五十年
浅野の家も これまでか
君君たらずとも 臣は臣
許せよ吾を この無念 ♪

同神社によると、1699(元禄12)年に源四郎が社殿を寄進した記録が残る。親類と縁の深い神社なのだから、内蔵助が足を運んだのは確かだとの推測もある。神社へ足しげく詣でた内蔵助。「内蔵助の断食石」を前にすると、岩に座して主君の敵をいかに討つかを考え抜いた姿が目に浮かぶ。この「内蔵助の断食石」の出自には、明治になってこの辺りを開拓したとき、大きな岩を爆破し、当時の宮司がその中で一番大きな破片を境内に置いたのが「内蔵助の断食石」という異説もある。その他に花山稲荷神社には、内蔵助が血判状を書くときの台にしたという「血判石」や、内蔵助が奉納したとされる鳥居もあるという。


血判石は、本殿を囲む塀の中にひっそりとたたずみ、鳥居は本殿の裏に保管されている。残念ながらこの日は対面することができなかった。いずれも本当に内蔵助とゆかりがあるのかどうかは分かっていないということだが…。それでも、内蔵助を慕う参拝客が伝承の品を眺め、山科に隠せいしていたころの内蔵助をしのんでいるには違いない。近くには大石神社や岩屋寺、山科神社など内蔵助とゆかりの深いスポットが多い。この石の上で寝食を忘れ秘策を練っていたという姿を想像し、気持ちは大石神社に向いている自分がいた…今京都。


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天を仰いで思うこと きょうへいく 2009/11/25 12:00 am
きょうへいく
京都市内の中心部へ行く。昭和4(1926)年以前の京都市は上京区と下京区の二区だけであった。同年に中京区ができ、もと愛宕郡であったところに左京区と東山区が編入された。6年には右京区と伏見区が加わる。そのころ「京へ行く」と言えば、市内の中心部へ行くことであった。京ことばの範囲は旧京都市内で使用されることばであり、「上ル・下ル」「東入ル・西入ル」の表示の地域であった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話92
ちょっとかわいいお話に思うこと

「クリスマスは中止されないと誓うよ」と、子どもに向けたこんな約束を、フィンランドの国営放送がサンタクロースの伝言として放送したという記事を目にした。内容は、サンタが新型インフルエンザにかかるのではないか、と多くの子どもたちが心配しているためで、それに答えることにしたということだ。

同放送は、サンタ本人も助手をつとめる妖精も、妻が注意しているため病気にならない、とした上で、放送で「君たちもインフルエンザには気を付けるんだよ」と話しかけ、もしも新型インフルにかかってしまった場合は親や医師の言うことに従うように呼びかけているという。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
なんでも、フィンランドの伝説では、ラップランド地方のコルバトゥントゥリ山にサンタが住んでいるとされるらしい。サンタクロースのおかげで、子どもたちのウガイや手洗いの励行になれば、なんともかわいいお話だ…と、天を仰いで思うこと。

京都市内の中心部へ行く。昭和4(1926)年以前の京都市は上京区と下京区の二区だけであった。同年に中京区ができ、もと愛宕郡であったところに左京区と東山区が編入された。6年には右京区と伏見区が加わる。そのころ「京へ行く」と言えば、市内の中心部へ行くことであった。京ことばの範囲は旧京都市内で使用されることばであり、「上ル・下ル」「東入ル・西入ル」の表示の地域であった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話92
ちょっとかわいいお話に思うこと

「クリスマスは中止されないと誓うよ」と、子どもに向けたこんな約束を、フィンランドの国営放送がサンタクロースの伝言として放送したという記事を目にした。内容は、サンタが新型インフルエンザにかかるのではないか、と多くの子どもたちが心配しているためで、それに答えることにしたということだ。

同放送は、サンタ本人も助手をつとめる妖精も、妻が注意しているため病気にならない、とした上で、放送で「君たちもインフルエンザには気を付けるんだよ」と話しかけ、もしも新型インフルにかかってしまった場合は親や医師の言うことに従うように呼びかけているという。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
なんでも、フィンランドの伝説では、ラップランド地方のコルバトゥントゥリ山にサンタが住んでいるとされるらしい。サンタクロースのおかげで、子どもたちのウガイや手洗いの励行になれば、なんともかわいいお話だ…と、天を仰いで思うこと。


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今京都 べんちゃら 2009/11/24 12:00 am
べんちゃら
お世辞。口先だけでうまく言い、誠実でないこと。「あいつはベンチャラ使うので、信用ならんわ」「オベンチャラ言うてんのか」とオを付けると、相手にいくらか親愛感をもつ。ベンは弁の意味で、弁舌巧みなチャラということ。チャラは擬態語で、デタラメ、冗談の意。うそだったことにするから、帳消しの意味になった。「こんだけ返すさかいチャラにしといてんか」と。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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恋塚/浄禅寺・恋塚寺 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月9日掲載)
浄瑠璃「鳥羽恋塚物語」(近松門左衛門)、小説「袈裟と盛遠」(芥川龍之介)、映画「地獄門」(黒澤明)などでも取り上げられたことがある袈裟御前(けさごぜん)の物語。袈裟の骨を納めた「恋塚」が、京都市南部の鴨川をはさむ上鳥羽と下鳥羽にある二つのお寺に伝えられている。


お寺は、それぞれ国道1号の西の旧道に面している。歴史愛好家や物語を演じる役者、小説などで袈裟御前を知った観光客たちが訪れ「恋塚」の前で静かに手をあわせるという。

上鳥羽の恋塚は「六地蔵めぐり」の鳥羽地蔵で知られる浄禅寺にある。通りに面して、袈裟にちなむ「激揚貞風」の大きな石碑が立つ。その奥で、五輪塔と風雨をさけるためにガラスケースに入れられた石碑が木々に囲まれている。浄禅寺は寺伝より1182(寿永元)年に文覚が開いたとされる。冥土から帰った小野篁が刻んだという6体の地蔵の1体が地蔵堂に納められている。

下鳥羽の「恋塚」は恋塚寺にある。このお寺は「1144(天養元)年に文覚が開いた」と縁起石碑に記されている。かやぶきの山門を入ると正面に本堂があり、そこには文覚、袈裟、渡の木像が置かれていると聞く。境内には「恋塚」や石碑があり、今でも「袈裟御前の心」を伝えている。平安時代末期、母への「孝」と夫への「義」、それぞれを貫くため己の命を犠牲にした女性、袈裟御前(けさごぜん)の物語は、「源平盛衰記」(鎌倉時代)など、時を超えて人々の心を引きつけてきた。鳥羽の若い武士・遠藤盛遠は、渡辺渡の妻袈裟に横恋慕し、袈裟の母衣川に袈裟との密会を求める。袈裟は母も夫も裏切ることはできず、「濡れた髪を探って殺したまえ」と盛遠を騙して夜討ちに招き入れ、自らが濡れた髪で首をはねられる。盛遠は自らの罪業を悔い、出家して文覚となって全国を回る。神護寺の再興に奔走し、伊豆で出会った頼朝に挙兵をうながす。

袈裟御前の物語は古くから庶民に親しまれていて、江戸時代から寺を訪れる人も多く、絵地図にも記されている。明治の文人たちは袈裟を『貞女の鑑(かがみ)』として寺で句会や歌会もしたという。下鳥羽の恋塚寺の「恋塚」の塔は、文覚が眠る高雄を向いているという。鳥羽伏見の戦(1868年)で焼失した寺を再建する際、地域の人々が北西に向けたということだ。

「こいづかさん」と呼ばれるほど、地域の人たちから塚は大切にされている。袈裟が身をもって示した決して変えてはいけない心。文覚の生涯からわかる「やり直す」ことの大切さ。それぞれの生き方に時代を超えて訴えるものがあるように感じた…今京都。

お世辞。口先だけでうまく言い、誠実でないこと。「あいつはベンチャラ使うので、信用ならんわ」「オベンチャラ言うてんのか」とオを付けると、相手にいくらか親愛感をもつ。ベンは弁の意味で、弁舌巧みなチャラということ。チャラは擬態語で、デタラメ、冗談の意。うそだったことにするから、帳消しの意味になった。「こんだけ返すさかいチャラにしといてんか」と。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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恋塚/浄禅寺・恋塚寺 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月9日掲載)
浄瑠璃「鳥羽恋塚物語」(近松門左衛門)、小説「袈裟と盛遠」(芥川龍之介)、映画「地獄門」(黒澤明)などでも取り上げられたことがある袈裟御前(けさごぜん)の物語。袈裟の骨を納めた「恋塚」が、京都市南部の鴨川をはさむ上鳥羽と下鳥羽にある二つのお寺に伝えられている。


お寺は、それぞれ国道1号の西の旧道に面している。歴史愛好家や物語を演じる役者、小説などで袈裟御前を知った観光客たちが訪れ「恋塚」の前で静かに手をあわせるという。

上鳥羽の恋塚は「六地蔵めぐり」の鳥羽地蔵で知られる浄禅寺にある。通りに面して、袈裟にちなむ「激揚貞風」の大きな石碑が立つ。その奥で、五輪塔と風雨をさけるためにガラスケースに入れられた石碑が木々に囲まれている。浄禅寺は寺伝より1182(寿永元)年に文覚が開いたとされる。冥土から帰った小野篁が刻んだという6体の地蔵の1体が地蔵堂に納められている。

下鳥羽の「恋塚」は恋塚寺にある。このお寺は「1144(天養元)年に文覚が開いた」と縁起石碑に記されている。かやぶきの山門を入ると正面に本堂があり、そこには文覚、袈裟、渡の木像が置かれていると聞く。境内には「恋塚」や石碑があり、今でも「袈裟御前の心」を伝えている。平安時代末期、母への「孝」と夫への「義」、それぞれを貫くため己の命を犠牲にした女性、袈裟御前(けさごぜん)の物語は、「源平盛衰記」(鎌倉時代)など、時を超えて人々の心を引きつけてきた。鳥羽の若い武士・遠藤盛遠は、渡辺渡の妻袈裟に横恋慕し、袈裟の母衣川に袈裟との密会を求める。袈裟は母も夫も裏切ることはできず、「濡れた髪を探って殺したまえ」と盛遠を騙して夜討ちに招き入れ、自らが濡れた髪で首をはねられる。盛遠は自らの罪業を悔い、出家して文覚となって全国を回る。神護寺の再興に奔走し、伊豆で出会った頼朝に挙兵をうながす。

袈裟御前の物語は古くから庶民に親しまれていて、江戸時代から寺を訪れる人も多く、絵地図にも記されている。明治の文人たちは袈裟を『貞女の鑑(かがみ)』として寺で句会や歌会もしたという。下鳥羽の恋塚寺の「恋塚」の塔は、文覚が眠る高雄を向いているという。鳥羽伏見の戦(1868年)で焼失した寺を再建する際、地域の人々が北西に向けたということだ。

「こいづかさん」と呼ばれるほど、地域の人たちから塚は大切にされている。袈裟が身をもって示した決して変えてはいけない心。文覚の生涯からわかる「やり直す」ことの大切さ。それぞれの生き方に時代を超えて訴えるものがあるように感じた…今京都。


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天を仰いで思うこと みずや 2009/11/23 12:00 am
みずや
水屋。一般家庭では食器などを収納するタンス風の家具。京の町家には台所に設置した。「洗うたお茶わんはミズヤの決まったとこにしまうのやで」 水屋のある家は少なくなった。もとは、社寺に鉢を据え、水をたたえ屋根を設けて参詣人が手や顔を洗った場所。茶室の隣に設けて茶の湯を用意する所もミズヤ(水谷とも書く)であった。茶箪笥は幕末から戸棚式になった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(91)
新型インフルエンザに思うこと

弱いとされた高温多湿の夏もなんなく乗り越えた。留学や観光での来日なら大歓迎で、応援したくなるが、新型インフルエンザとなると話は別。流行の勢いは一向に衰えず京都府と京都市は、警報を発令している。全国の累計患者数は約430万人にのぼるが、ここへきて目立つのは、急性脳症など子どもが重症化するケースで14歳以下が入院患者の8割強を占めるという。

とはいえ子どものワクチン接種は来月以降の見通しとあって府内の病院は、より効果的な治療のためベッドの空き状態や重症度に応じた治療ができるか情報交換を始めた。容体が急変する場合もあり、油断は禁物だという。当初いわれたのとは反対に、季節性インフルエンザ並みの「弱毒性」という印象が定着し、何となく気が緩んだのは確かだし、そこに「大きな落とし穴」があったのだろう。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
ウイルスが活動しにくい時季なのに患者は増え、死亡者も40人を超えた。やはり異常事態ということだろう。そのうえ「アジアかぜ」や「香港かぜ」と似た経過をたどっているというのは、冬場の爆発的な大流行が待ち受けていることにほかならないのではないかという意見もある。さらに怖いのは従来の季節性インフルエンザを駆逐し、新型だけが流行する恐れもあることだという。医療態勢の強化はいうまでもなく必要だ。何よりも、「罹患しない」といわれる年代拡大のために、、うがいや手洗いなど日常の予防励行が肝心だ…と、天を仰いで思うこと。

水屋。一般家庭では食器などを収納するタンス風の家具。京の町家には台所に設置した。「洗うたお茶わんはミズヤの決まったとこにしまうのやで」 水屋のある家は少なくなった。もとは、社寺に鉢を据え、水をたたえ屋根を設けて参詣人が手や顔を洗った場所。茶室の隣に設けて茶の湯を用意する所もミズヤ(水谷とも書く)であった。茶箪笥は幕末から戸棚式になった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(91)
新型インフルエンザに思うこと

弱いとされた高温多湿の夏もなんなく乗り越えた。留学や観光での来日なら大歓迎で、応援したくなるが、新型インフルエンザとなると話は別。流行の勢いは一向に衰えず京都府と京都市は、警報を発令している。全国の累計患者数は約430万人にのぼるが、ここへきて目立つのは、急性脳症など子どもが重症化するケースで14歳以下が入院患者の8割強を占めるという。

とはいえ子どものワクチン接種は来月以降の見通しとあって府内の病院は、より効果的な治療のためベッドの空き状態や重症度に応じた治療ができるか情報交換を始めた。容体が急変する場合もあり、油断は禁物だという。当初いわれたのとは反対に、季節性インフルエンザ並みの「弱毒性」という印象が定着し、何となく気が緩んだのは確かだし、そこに「大きな落とし穴」があったのだろう。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
ウイルスが活動しにくい時季なのに患者は増え、死亡者も40人を超えた。やはり異常事態ということだろう。そのうえ「アジアかぜ」や「香港かぜ」と似た経過をたどっているというのは、冬場の爆発的な大流行が待ち受けていることにほかならないのではないかという意見もある。さらに怖いのは従来の季節性インフルエンザを駆逐し、新型だけが流行する恐れもあることだという。医療態勢の強化はいうまでもなく必要だ。何よりも、「罹患しない」といわれる年代拡大のために、、うがいや手洗いなど日常の予防励行が肝心だ…と、天を仰いで思うこと。


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今京都 わりかし 2009/11/22 12:00 am
わりかし
わりに。わりあいに。「ワリカシましな品物どすな」 カシは「さぞかし」のカシのように念を押すときの助詞。平安時代には「笑はれ給ひけむかし」のように用いた。カシは、詠嘆の助詞カと強調の助詞シとの複合形。比較的、思いのほかの意味で用い、「昨日よりもワリカシぬくおす(暖かいです)な」と言う。ワリニのくだけた言い方で、ワリトとも。「ワリトよう勉強できるのや」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



地蔵物語(284)


わりに。わりあいに。「ワリカシましな品物どすな」 カシは「さぞかし」のカシのように念を押すときの助詞。平安時代には「笑はれ給ひけむかし」のように用いた。カシは、詠嘆の助詞カと強調の助詞シとの複合形。比較的、思いのほかの意味で用い、「昨日よりもワリカシぬくおす(暖かいです)な」と言う。ワリニのくだけた言い方で、ワリトとも。「ワリトよう勉強できるのや」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



地蔵物語(284)


