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おやかまっさん イライラ 2011/06/06 7:55 pm
イライラ
ブログが回復したのは嬉しいが、2010年4月に職場環境が変わってから更新もままならぬ状態が続いている。写真も撮りに行けない状態だ。イライラとストレスが溜まる一方だ。

そんな中でも、癒してくれるのが写真の話。職場でも写真を楽しむ人が増えてきた。写真を撮っているという認識も随分してくれている。その人々が「最近、写真を撮ってますか?」と声をかけてくれるのが嬉しい。「撮れてないです。」と返事をすると、「また撮れたら見せてくださいね。」と言ってくれるのがありがたい。

色々な写真を撮りたいと考えているが、撮れないのが辛い。休みの日、カメラを持って出かける体力も気力も残ってない。この生活から速く脱却しなければ…。何となく、愚痴のようになってしまったが、時にはこんな内容もいいだろう…ということで、今回のお話はおしまい。どうも、おやかまっさんどした。

ブログが回復したのは嬉しいが、2010年4月に職場環境が変わってから更新もままならぬ状態が続いている。写真も撮りに行けない状態だ。イライラとストレスが溜まる一方だ。

そんな中でも、癒してくれるのが写真の話。職場でも写真を楽しむ人が増えてきた。写真を撮っているという認識も随分してくれている。その人々が「最近、写真を撮ってますか?」と声をかけてくれるのが嬉しい。「撮れてないです。」と返事をすると、「また撮れたら見せてくださいね。」と言ってくれるのがありがたい。

色々な写真を撮りたいと考えているが、撮れないのが辛い。休みの日、カメラを持って出かける体力も気力も残ってない。この生活から速く脱却しなければ…。何となく、愚痴のようになってしまったが、時にはこんな内容もいいだろう…ということで、今回のお話はおしまい。どうも、おやかまっさんどした。


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天を仰いで思うこと 技術と道徳 2011/06/01 1:00 pm
技術と道徳
光陰矢の如しというが、気がつけばもう6月だ。このブログも回復できてよかった。これからマイペースで更新していきたい。更新できる喜びがジワジワとこみ上げてくる。
さて、最近の技術の進歩とともに道徳のお話。

ふと疑問に思うことがある。道徳が技術に肩代わりされていくことで良いのだろうか、ということである。今、最も話題となっているのは節電であろう。LEDの進歩で省エネが進み使用電力を削減できることはいいことだ。しかし、反面、電気を大量に使用しないからという安心が「消す」という動作を怠惰にすることがある。人の心から「不要な電気は消す」ということを心がけることが消えてしまうのではないかという心配だ。これが、技術が道徳の代行をしてくれる影響ではないかと危惧である。
本来、私たちの良心と行動によって地球環境を守るように求められている。地球に優しいと自ら感じたことを自発的に実行し、生活まで変えていこうとする覚悟が重要なのである。そのような意識は人間が持つべき「道徳」として定着しつつある。道徳と言えば堅苦しいだろうが、人間としての行動の規範のことで、そのような発想を身につけた人間が増えていくことこそが人類の未来への希望とも言えるのではないだろうか。

ところが、そのような個人の道徳心を涵養するのではなく、技術によって問題が発生しないように前もって手を打っていくことが増えている。それによって表面的には道徳が機能しているかのような状態が作り出されてはいないだろうか。
また、技術が発達すれば、その分だけ私たちの能力が失われていく。鉛筆がシャープペンシルに取り替わって子どもたちはナイフを使うことができなくなり、車を使うことが増えて走力が衰え、エアコンがあらゆる場所に普及して体が汗をかかなくなった。パソコンを使うようになって漢字の書き方を忘れることも増えた。技術が手や足や体や頭脳の役割を肩代わりしてくれることによって、知らず知らずのうちに私たちが原初的に持っていた能力を失っているような気がする。
映画館や学校では通信妨害電波を発信して、携帯電話を実質的に使えなくする方法が広がり始めている。これによって映画館や学校の静寂が守られる。あるいは、車の速度制限装置を制限速度以下になるよう設定しておけば、スピード違反をしなくて済む。速度制限装置を取り付けようと考えたのは道徳心からきたものだが、後はそれにお任せしておけばもはや車のスピードのことを考える必要がない。

迂遠なようだが、人々の道徳心を涵養し、どのように判断すべきかを決めていける人間であり続けねば、社会は荒廃してしまうのではないか。道徳を技術で置き換えることの危なさを考えておくべきではないだろうか。このような技術はまだ一部でしか使われていないから考え過ぎと思われそうだが、それが全面的にひろがって当り前になってしまったらどうなるかを想像する必要があるのではないか。ひょっとすると、人々は道徳心を失ったロボット同然の行動しかしなくなるかもしれない…と、天を仰いで思うこと。

光陰矢の如しというが、気がつけばもう6月だ。このブログも回復できてよかった。これからマイペースで更新していきたい。更新できる喜びがジワジワとこみ上げてくる。
さて、最近の技術の進歩とともに道徳のお話。

ふと疑問に思うことがある。道徳が技術に肩代わりされていくことで良いのだろうか、ということである。今、最も話題となっているのは節電であろう。LEDの進歩で省エネが進み使用電力を削減できることはいいことだ。しかし、反面、電気を大量に使用しないからという安心が「消す」という動作を怠惰にすることがある。人の心から「不要な電気は消す」ということを心がけることが消えてしまうのではないかという心配だ。これが、技術が道徳の代行をしてくれる影響ではないかと危惧である。
本来、私たちの良心と行動によって地球環境を守るように求められている。地球に優しいと自ら感じたことを自発的に実行し、生活まで変えていこうとする覚悟が重要なのである。そのような意識は人間が持つべき「道徳」として定着しつつある。道徳と言えば堅苦しいだろうが、人間としての行動の規範のことで、そのような発想を身につけた人間が増えていくことこそが人類の未来への希望とも言えるのではないだろうか。

ところが、そのような個人の道徳心を涵養するのではなく、技術によって問題が発生しないように前もって手を打っていくことが増えている。それによって表面的には道徳が機能しているかのような状態が作り出されてはいないだろうか。
また、技術が発達すれば、その分だけ私たちの能力が失われていく。鉛筆がシャープペンシルに取り替わって子どもたちはナイフを使うことができなくなり、車を使うことが増えて走力が衰え、エアコンがあらゆる場所に普及して体が汗をかかなくなった。パソコンを使うようになって漢字の書き方を忘れることも増えた。技術が手や足や体や頭脳の役割を肩代わりしてくれることによって、知らず知らずのうちに私たちが原初的に持っていた能力を失っているような気がする。
映画館や学校では通信妨害電波を発信して、携帯電話を実質的に使えなくする方法が広がり始めている。これによって映画館や学校の静寂が守られる。あるいは、車の速度制限装置を制限速度以下になるよう設定しておけば、スピード違反をしなくて済む。速度制限装置を取り付けようと考えたのは道徳心からきたものだが、後はそれにお任せしておけばもはや車のスピードのことを考える必要がない。

迂遠なようだが、人々の道徳心を涵養し、どのように判断すべきかを決めていける人間であり続けねば、社会は荒廃してしまうのではないか。道徳を技術で置き換えることの危なさを考えておくべきではないだろうか。このような技術はまだ一部でしか使われていないから考え過ぎと思われそうだが、それが全面的にひろがって当り前になってしまったらどうなるかを想像する必要があるのではないか。ひょっとすると、人々は道徳心を失ったロボット同然の行動しかしなくなるかもしれない…と、天を仰いで思うこと。


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天を仰いで思うこと 謹賀新年 2011/01/01 12:00 am
謹賀新年
新年あけましておめでとうございます。
拙いブログですが、旧年中はご愛顧いただき厚く御礼申し上げます。
本年もよろしくお願いいたします。
2011年 元旦
* 。 ゜ 。
┏┓┏┓ ┓ ┓
┏┛┃┃ ┃ ┃
┗┛┗┛ ┻ ┻
。■ HAPPY *
(^^) NEW 。
( : ) YEAR☆
さて、年末からの厳しい気候で雪の影響等は大丈夫でしょうか?
また、皆さんにとって2010年はどんな年だったでしょうか?

種々の環境の変化で、プログに没頭する時間がとれなくなったこと。
色々なチャレンジで、自己啓発の時間が多くなったこと。
様々な人間模様で、表面だけで人を信じてはいけないと学んだこと。
など、自分にとっては、ある意味で激動の連続だったように感じる。それらに負けず今年は以前のようにブログを更新していきたい。2月くらいからは可能か…と考えているが、約束はできない状態だ。

ウォルト・ディズニーの言葉に If you can dream it , you can do it. というのがある。それをもじって『夢をもち 夢を語ること そうすれば夢はかなう』というキャッチをモットーとしている。どんな夢をもち、どんな夢を語るかはその時々によって変わるものであるが、常に『夢』は持ちたいものだ。

2011年は更に環境が変わりそうだが、これまで以上に自己啓発・研鑽に努め、『夢』実現に近づきたい…と、天を仰いで思うこと。

新年あけましておめでとうございます。
拙いブログですが、旧年中はご愛顧いただき厚く御礼申し上げます。
本年もよろしくお願いいたします。
2011年 元旦
* 。 ゜ 。
┏┓┏┓ ┓ ┓
┏┛┃┃ ┃ ┃
┗┛┗┛ ┻ ┻
。■ HAPPY *
(^^) NEW 。
( : ) YEAR☆
さて、年末からの厳しい気候で雪の影響等は大丈夫でしょうか?
また、皆さんにとって2010年はどんな年だったでしょうか?

種々の環境の変化で、プログに没頭する時間がとれなくなったこと。
色々なチャレンジで、自己啓発の時間が多くなったこと。
様々な人間模様で、表面だけで人を信じてはいけないと学んだこと。
など、自分にとっては、ある意味で激動の連続だったように感じる。それらに負けず今年は以前のようにブログを更新していきたい。2月くらいからは可能か…と考えているが、約束はできない状態だ。

ウォルト・ディズニーの言葉に If you can dream it , you can do it. というのがある。それをもじって『夢をもち 夢を語ること そうすれば夢はかなう』というキャッチをモットーとしている。どんな夢をもち、どんな夢を語るかはその時々によって変わるものであるが、常に『夢』は持ちたいものだ。

2011年は更に環境が変わりそうだが、これまで以上に自己啓発・研鑽に努め、『夢』実現に近づきたい…と、天を仰いで思うこと。


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天を仰いで思うこと 師走 2010/12/10 12:00 am
師走
気まま更新になってから随分と経つ。まだ、本格的に復帰できないでいる。やる気はあるが他に色々としなければならないことがあるので、ブログまで気がまわらない状況だ。写真も全く撮っていない。というより、とれていない状況だ。気がつけば12月。師走だ。月に一、二回の更新がやっという感じだ。
若い人の挨拶は「ちわ〜す」
女性が気にするのは「しわ〜す」
など、実につまらん話を考えていた。これは、まさにオヤジ思考だ。ヤバイ。

さて、年内に、三つの山場がある。そのひとつひとつをこなしていかねばならない。山場がハッキリ見えているだけに「時」の経過を待てばよい状況でもある。逆に、意識にあるから「時」が止まったようにも感じることがある。「なんて身勝手なんだ」と感じることもシバシバ。しかし、それだからこそ「おもしろい」のかも知れない。

臨床心理関係の論文を読む機会があった。とてもリアルな内容だ。赤裸々に記載されている。その論文に色々な要素を加えると、本にできるのではないかと感じる。内容は重い。筆者の思いはどこにあるのか、筆者の背景には何があるのか、と考えながら読み終わった後は、とても普通ではいられないものがある。暗くなるとかという意味ではない。むしろ関心する。それだけに、自分に跳ね返ってくるものがある。

さぁ、年内の三つの山場。焦らずに時が来るのを待つことにしよう。焦るのはよくない。何事も「なすがまま」にするのがよいだろう…と、天を仰いで思うこと。

気まま更新になってから随分と経つ。まだ、本格的に復帰できないでいる。やる気はあるが他に色々としなければならないことがあるので、ブログまで気がまわらない状況だ。写真も全く撮っていない。というより、とれていない状況だ。気がつけば12月。師走だ。月に一、二回の更新がやっという感じだ。
若い人の挨拶は「ちわ〜す」
女性が気にするのは「しわ〜す」
など、実につまらん話を考えていた。これは、まさにオヤジ思考だ。ヤバイ。

さて、年内に、三つの山場がある。そのひとつひとつをこなしていかねばならない。山場がハッキリ見えているだけに「時」の経過を待てばよい状況でもある。逆に、意識にあるから「時」が止まったようにも感じることがある。「なんて身勝手なんだ」と感じることもシバシバ。しかし、それだからこそ「おもしろい」のかも知れない。

臨床心理関係の論文を読む機会があった。とてもリアルな内容だ。赤裸々に記載されている。その論文に色々な要素を加えると、本にできるのではないかと感じる。内容は重い。筆者の思いはどこにあるのか、筆者の背景には何があるのか、と考えながら読み終わった後は、とても普通ではいられないものがある。暗くなるとかという意味ではない。むしろ関心する。それだけに、自分に跳ね返ってくるものがある。

さぁ、年内の三つの山場。焦らずに時が来るのを待つことにしよう。焦るのはよくない。何事も「なすがまま」にするのがよいだろう…と、天を仰いで思うこと。


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天を仰いで思うこと 心理学 2010/11/21 12:00 am
心理学
相変わらずブログの更新がなかなか進まない状況だ。しばらくは休息宣言をしなければならないかな…とも考えている。
さて、心理学に触れる機会が多いこのごろだ。特に、アーネスト・L・ロッシの『精神生物学』に苦しめられている。と、いっても、拒絶するほど嫌がっている訳ではない。「実におもしろい!」という感想もあるが、脳とホルモンに関することなので、苦手なのだ。要約すると、心が疾病の治療に大きな変化を与えうるとする説と、この説が真剣な考慮に値し、多くのケースに実際にあてはまるという医師たちの臨床報告とを結びつけるものである。つまり、肉体の病気を、心や精神的な方法を用いて治療することが本当に可能なのかという問題であり、心身相関的な療法について、なのである。

催眠療法で、特定された意識だけを退行させることにより、その症状は消えた。
催眠療法で、クライエントが自分の心身の問題に気づき、それを克服することができた。
などなどが報告されている。
その方法は決して難しいものではない。試しに、自己暗示で退化させてみた。何度かチャレンジしている間に、なんと、煩わしい現象がひとつ消えたではないか。所要時間は20分くらいだ。カウンセラーも必要ない。コツさえ掴めば、自分でもできる。まぁ、たまたまかも知れないが…。生物学的なしくみが分かれば、「なるほど!」という発見でもある。この自己暗示は便利なものだ。

例えば、人前でしゃべるのが苦手な人も、ホンの数分で、どんな人数の前であっても、ちゃんとしゃべれるようになる。ただし、しゃべる内容をしっかり持っており、人前では「緊張したり」「あがったり」する人への対処なので、しゃべりネタまでがつくられるわけではない。このいわば「自己暗示」な方法は、なかなか有効な手段だ。
「ちょっと苦手」とか「無理」とか「できない」とか思っている場合は、自分には事実だと思えても、統計によると、技術的なものでない限り、90%は精神的な(無意識な)思い込みによるブレーキがかかっているという状況であるのが実際なのである。簡単に言うと、自分で無意識のうちにブレーキをかけてしまっているということだ。「無理」と考えているその思考が意識的にあるいは無意識にブレーキをかけてしまっているということだ。ややこしい話だが、「無理」と考える、あるいは「しんどいと考える」ことが、既にブレーキをかけてしまっている状態なのだ…とロッシはいう。
その呪縛から紐解くのは、とても簡単な方法だという発見は自分にとっては嬉しい限りであった。そもそも自己分析によると、この理論・方法を知る前に既になんとかなく実行していたようなのだが…。

さて、その方法は、簡単なことであるが、文章で書くとヤヤコシイ内容となる。
誰しも初めから「無理」ではない。何かが原因で「無理だ」とか「できない」とか記憶してしまっている。その記憶する前の段階に意識の一部を退行させることなのである。
目を閉じて自分と向き合う。どの時に「それが無理」と感じたかを、呼吸を整えて記憶をさかのぼっていく。一回では無理でも、何回かしていくと「その時」が鮮明に見つかる。見つかれば、次に、その時の少し前(平気であった時)の記憶を意識する。意識がしっかり持てたら、そのことをしばらく考えつづける。それが定着できたら、克服できるということだ。
ヤヤコシイ話だが、日本にはいい言葉があった。「病は気から」という言葉だ。この言葉の意味をしっかりと理解すると感覚的にわかるはずである。さぁ、目を閉じて、記憶の退行をしよう。そして平気になったら、次の行動はおのずと見えて、できるはず。あっ…「信じるものは騙される」ということもあったっけ…と、天を仰いで思うこと。

相変わらずブログの更新がなかなか進まない状況だ。しばらくは休息宣言をしなければならないかな…とも考えている。
さて、心理学に触れる機会が多いこのごろだ。特に、アーネスト・L・ロッシの『精神生物学』に苦しめられている。と、いっても、拒絶するほど嫌がっている訳ではない。「実におもしろい!」という感想もあるが、脳とホルモンに関することなので、苦手なのだ。要約すると、心が疾病の治療に大きな変化を与えうるとする説と、この説が真剣な考慮に値し、多くのケースに実際にあてはまるという医師たちの臨床報告とを結びつけるものである。つまり、肉体の病気を、心や精神的な方法を用いて治療することが本当に可能なのかという問題であり、心身相関的な療法について、なのである。

催眠療法で、特定された意識だけを退行させることにより、その症状は消えた。
催眠療法で、クライエントが自分の心身の問題に気づき、それを克服することができた。
などなどが報告されている。
その方法は決して難しいものではない。試しに、自己暗示で退化させてみた。何度かチャレンジしている間に、なんと、煩わしい現象がひとつ消えたではないか。所要時間は20分くらいだ。カウンセラーも必要ない。コツさえ掴めば、自分でもできる。まぁ、たまたまかも知れないが…。生物学的なしくみが分かれば、「なるほど!」という発見でもある。この自己暗示は便利なものだ。

例えば、人前でしゃべるのが苦手な人も、ホンの数分で、どんな人数の前であっても、ちゃんとしゃべれるようになる。ただし、しゃべる内容をしっかり持っており、人前では「緊張したり」「あがったり」する人への対処なので、しゃべりネタまでがつくられるわけではない。このいわば「自己暗示」な方法は、なかなか有効な手段だ。
「ちょっと苦手」とか「無理」とか「できない」とか思っている場合は、自分には事実だと思えても、統計によると、技術的なものでない限り、90%は精神的な(無意識な)思い込みによるブレーキがかかっているという状況であるのが実際なのである。簡単に言うと、自分で無意識のうちにブレーキをかけてしまっているということだ。「無理」と考えているその思考が意識的にあるいは無意識にブレーキをかけてしまっているということだ。ややこしい話だが、「無理」と考える、あるいは「しんどいと考える」ことが、既にブレーキをかけてしまっている状態なのだ…とロッシはいう。
その呪縛から紐解くのは、とても簡単な方法だという発見は自分にとっては嬉しい限りであった。そもそも自己分析によると、この理論・方法を知る前に既になんとかなく実行していたようなのだが…。

さて、その方法は、簡単なことであるが、文章で書くとヤヤコシイ内容となる。
誰しも初めから「無理」ではない。何かが原因で「無理だ」とか「できない」とか記憶してしまっている。その記憶する前の段階に意識の一部を退行させることなのである。
目を閉じて自分と向き合う。どの時に「それが無理」と感じたかを、呼吸を整えて記憶をさかのぼっていく。一回では無理でも、何回かしていくと「その時」が鮮明に見つかる。見つかれば、次に、その時の少し前(平気であった時)の記憶を意識する。意識がしっかり持てたら、そのことをしばらく考えつづける。それが定着できたら、克服できるということだ。
ヤヤコシイ話だが、日本にはいい言葉があった。「病は気から」という言葉だ。この言葉の意味をしっかりと理解すると感覚的にわかるはずである。さぁ、目を閉じて、記憶の退行をしよう。そして平気になったら、次の行動はおのずと見えて、できるはず。あっ…「信じるものは騙される」ということもあったっけ…と、天を仰いで思うこと。

