rrbのブログ - 天を仰いで思うことのエントリ
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天を仰いで思うこと へんねし 2009/12/28 12:00 am
へんねし
すねること。ねたむこと。「赤ちゃんばっかり大事にすると、お兄ちゃんがヘンネシおこさはるのえ」 よくヘンネシを起こす人を「あいつはヘンネシや」という。一方に偏執(へんしゅう)することから。江戸時代の『片言』には「偏執」を「へんにし、へんねし」とある。「妬む」をヘンネシバルといった。また、子どもが産まれないので貰い子をしたら、すぐ出産した子をヘンネシゴという。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
天を仰いで思うこと



すべて、カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
神戸ルミナリエの写真を…と、天を仰いで思うこと。

すねること。ねたむこと。「赤ちゃんばっかり大事にすると、お兄ちゃんがヘンネシおこさはるのえ」 よくヘンネシを起こす人を「あいつはヘンネシや」という。一方に偏執(へんしゅう)することから。江戸時代の『片言』には「偏執」を「へんにし、へんねし」とある。「妬む」をヘンネシバルといった。また、子どもが産まれないので貰い子をしたら、すぐ出産した子をヘンネシゴという。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
天を仰いで思うこと



すべて、カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
神戸ルミナリエの写真を…と、天を仰いで思うこと。


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天を仰いで思うこと おけそくさん 2009/12/27 12:00 am
おけそくさん
月忌(がっき)に仏に供える小餅。月忌は個人の命日にあたる毎月の日。また、当日の仏事。オケソクサンの華足(けそく)は華やかに飾った足のこと。机、第、匣(はこ)などの装飾のある脚の彫り物にもいう。転じて、仏前に供える物を盛る台の意味になり、さらに供物そのものをいうようになった。「あしたは亡くなったおばあちゃんの命日になるさかい、オケソクサン買うてきてお供えしまひょ」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
閉塞(へいそく)に思うこと

「閉塞」という考え方がある。自動車より制動距離の長い鉄道車両は別の車両を発見してからブレーキをかけても衝突を避けられない。そこで、一定の区間に二つの車両が同時に入らないよう閉塞して安全を確保する。誤侵入によって閉塞が破られないようにするのが自動列車停止装置(ATS)で、速度超過も制御する。閉塞を基本とするから日本の鉄道は安全とされている。

(神戸ルミナリエ) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
さて、107人が死亡した尼崎脱線事故で、JR西日本の山崎前社長は安全対策を怠ったとして起訴された。では、当時の相談役井手正敬、会長南谷昌二郎、社長垣内剛の歴代3社長に責任はないのか、と言いたくなる。神戸地検は不起訴としたが、検察審査会は起訴相当と議決したと聞く。井手、南谷両氏は1987年の民営化後に社の経営を軌道に乗せた。関西空港開港時には京都と直結する「特急はるか」を運行し、現在の京都駅ビルを建設。浅からぬ縁がある。

(神戸ルミナリエ) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
沿線各地の発展を願い、新幹線と在来線が交わる京都駅の重要性を説くなど広範な話題に応じている。起訴相当が今後、どう判断されるのか分からないが、事故現場に設置されていなかったATSの必要性は認識していたはずだ。報告書漏えい問題には山崎氏のほかに垣内氏もかかわっていたと聞く。社長らは安全を確保する閉塞の教えを忘れ、皮肉にも効率だけで経営を閉塞させてしまっていたのか…と、天を仰いで思うこと。

月忌(がっき)に仏に供える小餅。月忌は個人の命日にあたる毎月の日。また、当日の仏事。オケソクサンの華足(けそく)は華やかに飾った足のこと。机、第、匣(はこ)などの装飾のある脚の彫り物にもいう。転じて、仏前に供える物を盛る台の意味になり、さらに供物そのものをいうようになった。「あしたは亡くなったおばあちゃんの命日になるさかい、オケソクサン買うてきてお供えしまひょ」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
閉塞(へいそく)に思うこと

「閉塞」という考え方がある。自動車より制動距離の長い鉄道車両は別の車両を発見してからブレーキをかけても衝突を避けられない。そこで、一定の区間に二つの車両が同時に入らないよう閉塞して安全を確保する。誤侵入によって閉塞が破られないようにするのが自動列車停止装置(ATS)で、速度超過も制御する。閉塞を基本とするから日本の鉄道は安全とされている。

(神戸ルミナリエ) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
さて、107人が死亡した尼崎脱線事故で、JR西日本の山崎前社長は安全対策を怠ったとして起訴された。では、当時の相談役井手正敬、会長南谷昌二郎、社長垣内剛の歴代3社長に責任はないのか、と言いたくなる。神戸地検は不起訴としたが、検察審査会は起訴相当と議決したと聞く。井手、南谷両氏は1987年の民営化後に社の経営を軌道に乗せた。関西空港開港時には京都と直結する「特急はるか」を運行し、現在の京都駅ビルを建設。浅からぬ縁がある。

(神戸ルミナリエ) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
沿線各地の発展を願い、新幹線と在来線が交わる京都駅の重要性を説くなど広範な話題に応じている。起訴相当が今後、どう判断されるのか分からないが、事故現場に設置されていなかったATSの必要性は認識していたはずだ。報告書漏えい問題には山崎氏のほかに垣内氏もかかわっていたと聞く。社長らは安全を確保する閉塞の教えを忘れ、皮肉にも効率だけで経営を閉塞させてしまっていたのか…と、天を仰いで思うこと。


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天を仰いで思うこと ゆーれん 2009/12/21 12:00 am
ゆ―れん
幽霊。「むかしはようユーレンの話を聞いてこわいとおもいましたけどな」「あそこの薮にユーレンが出るといううわさどす」 ゆうれいの訛り。「葬札」をソーレン、「小刀」をコガタンという類。オバケは現れる場所が決まっていて、相手を決めないで、宵でも暁でも折々に出現するのに、ユーレンは足がないのに向こうからやってくる。相手を決めて現れ、時刻は丑三つ時であった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
京都議定書に思うこと

初冬の国立京都国際会館に、京都議定書の誕生を告げる議長の木槌が高らかに打ち鳴らされたのは、今から12年前のこと。最近では、地球温暖化が現実味を増す一方、国際交渉は座礁しかけているのではないかと心配する。議定書の期限が切れる2013年以降の国際規約は12月のコペンハーゲン会議(COP15)で決まる。しかし、先ごろバンコクで開かれた準備会合では、先進国と途上国の溝は埋まらなかったと聞く。議定書がCO2削減義務を課すのは先進国だけである。次は世界一の排出国となった中国やブラジルの扱いが焦点となるだろうが、途上国は「先進国の削減と資金援助が先」と身を固めるに違いない。途上国の扱いは最もナイーブな問題だ。京都会議では、日米の意を受けて途上国の削減義務に言及したニュージーランドが猛反発を受け、火だるまになったのは、まだ記憶にある。

以来、この問題はタブー視され、先進国は再提案のタイミングを計ってきた。ブッシュ政権の離脱で一時「死んだ」と言われた議定書だったが、国際社会は米国抜きで歴史的な発効につなげた。それを決めたボン会議閉会式が印象深い方もいるのではないか。「国連の多国間交渉の勝利」、ある国の代表の宣言に満場の拍手は鳴りやまず、涙ぐむ代表団員もいたという。

(神戸ルミナリエ) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
問題児だった米国のオバマ政権は国際協調と温暖化対策への積極姿勢を打ち出した。途上国問題というパンドラの箱が開いた現状は厳しいが、何度も危機を乗り越えた国際社会の知恵と力で、最後に希望が出てくると信じたいものだ…と、天を仰いで思うこと。

幽霊。「むかしはようユーレンの話を聞いてこわいとおもいましたけどな」「あそこの薮にユーレンが出るといううわさどす」 ゆうれいの訛り。「葬札」をソーレン、「小刀」をコガタンという類。オバケは現れる場所が決まっていて、相手を決めないで、宵でも暁でも折々に出現するのに、ユーレンは足がないのに向こうからやってくる。相手を決めて現れ、時刻は丑三つ時であった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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京都議定書に思うこと

初冬の国立京都国際会館に、京都議定書の誕生を告げる議長の木槌が高らかに打ち鳴らされたのは、今から12年前のこと。最近では、地球温暖化が現実味を増す一方、国際交渉は座礁しかけているのではないかと心配する。議定書の期限が切れる2013年以降の国際規約は12月のコペンハーゲン会議(COP15)で決まる。しかし、先ごろバンコクで開かれた準備会合では、先進国と途上国の溝は埋まらなかったと聞く。議定書がCO2削減義務を課すのは先進国だけである。次は世界一の排出国となった中国やブラジルの扱いが焦点となるだろうが、途上国は「先進国の削減と資金援助が先」と身を固めるに違いない。途上国の扱いは最もナイーブな問題だ。京都会議では、日米の意を受けて途上国の削減義務に言及したニュージーランドが猛反発を受け、火だるまになったのは、まだ記憶にある。

以来、この問題はタブー視され、先進国は再提案のタイミングを計ってきた。ブッシュ政権の離脱で一時「死んだ」と言われた議定書だったが、国際社会は米国抜きで歴史的な発効につなげた。それを決めたボン会議閉会式が印象深い方もいるのではないか。「国連の多国間交渉の勝利」、ある国の代表の宣言に満場の拍手は鳴りやまず、涙ぐむ代表団員もいたという。

(神戸ルミナリエ) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
問題児だった米国のオバマ政権は国際協調と温暖化対策への積極姿勢を打ち出した。途上国問題というパンドラの箱が開いた現状は厳しいが、何度も危機を乗り越えた国際社会の知恵と力で、最後に希望が出てくると信じたいものだ…と、天を仰いで思うこと。


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天を仰いで思うこと みずな 2009/12/16 12:00 am
みずな
葉に切れ込みのあるアブラナ科の一、二年草。京都の東寺、九条あたりの低湿地に栽培された。「今朝食べたミズナはおいしおしたな」 江戸時代の『雍州府志』に、畦の間に水を引き入れて作ったので水菜というとある。主として煮たき用にするが漬物にもなる。同種のものにミブナ(壬生菜)がある。水菜は葉に細かい切れ込みがあるが、壬生菜にはない。関東ではミズナもミブナも「京菜」と呼ぶ。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
四方山話(100) ちょっと気になる「ことば」の話
みたいな

最近、「一緒にやろうよ、みたいな話だった」とか、「お前は帰れ、みたいな態度がむかつく」というように、会話の内容を「みたいな」で受ける言い方が見られる。学校文法では、「みたいだ」は、名詞や活用語の終止形につくとされるが、この用法は、終助詞「よ」や命令形に接続するので、例外となる。この「みたいだ」と同じように、前の語句を受けて、概略を示したり例として示したりするものに「ようだ」がある。両者は前の語句との接続に違いがある。まず、名詞と接続する場合、「ようだ」は「彼のような学生」とか「馬とか牛といったような家畜」のように「の」や「という(といった)」を中に入れるが、「みたいだ」は「彼みたいな学生」とか「馬や牛みたいな家畜」のように、直接名詞につける。

また「ようだ」は名詞以外のものでも「君がするような仕事ではない」のように動詞に直接つけることができるが、これに対し「みたいだ」は、動詞に直接つけて「君がするみたいな仕事ではない」というと不自然な言い方になってしまう。「彼は帰るみたいだ」のような言い方はできるが、これは「たぶん、〜だろう」という推量を表わすのであって、「いわば、〜といった」とか「たとえば〜」といった概略や例示の用法ではありません。冒頭の例のような、引用部分を受ける場合は、「『一緒にやろうよ』というような話だった」や「『お前は帰れ』のような態度」という形、つまり、先の名詞の場合と同じように「という」や「の」を中に入れる形になる。引用部分は名詞とよく似た性質がある。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
一方、「みたいだ」のほうは、名詞には「の」をそえず直接つけるので、引用句を名詞と同様に扱うと「一緒にやろうよ、みたいな話だった」のような言い方ができあがる。このように「一緒にやろうよ、みたいな話だった」とか、「お前は帰れ、みたいな態度がむかつく」などの言い方は、引用部分を名詞と同様に扱うという、それなりの文法的な手続きを踏んで作り出されたものだ。しかし、現時点では、友達同士の使用ならともかく、改まった場面では好ましい表現ではない。会話を直接引用するのであれば、不必要にぼかさないで、はっきり「〜という」で示すほうが良いし、例示の意味を含めるなら、「〜というような」や「といった」「(さも)〜と言わんばかりの」といった表現を使うようにしたいものだ…と、天を仰いで思うこと。
★前回のちょっと気になる「ことば」の話はここ(←クリック)

葉に切れ込みのあるアブラナ科の一、二年草。京都の東寺、九条あたりの低湿地に栽培された。「今朝食べたミズナはおいしおしたな」 江戸時代の『雍州府志』に、畦の間に水を引き入れて作ったので水菜というとある。主として煮たき用にするが漬物にもなる。同種のものにミブナ(壬生菜)がある。水菜は葉に細かい切れ込みがあるが、壬生菜にはない。関東ではミズナもミブナも「京菜」と呼ぶ。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(100) ちょっと気になる「ことば」の話
みたいな

最近、「一緒にやろうよ、みたいな話だった」とか、「お前は帰れ、みたいな態度がむかつく」というように、会話の内容を「みたいな」で受ける言い方が見られる。学校文法では、「みたいだ」は、名詞や活用語の終止形につくとされるが、この用法は、終助詞「よ」や命令形に接続するので、例外となる。この「みたいだ」と同じように、前の語句を受けて、概略を示したり例として示したりするものに「ようだ」がある。両者は前の語句との接続に違いがある。まず、名詞と接続する場合、「ようだ」は「彼のような学生」とか「馬とか牛といったような家畜」のように「の」や「という(といった)」を中に入れるが、「みたいだ」は「彼みたいな学生」とか「馬や牛みたいな家畜」のように、直接名詞につける。

また「ようだ」は名詞以外のものでも「君がするような仕事ではない」のように動詞に直接つけることができるが、これに対し「みたいだ」は、動詞に直接つけて「君がするみたいな仕事ではない」というと不自然な言い方になってしまう。「彼は帰るみたいだ」のような言い方はできるが、これは「たぶん、〜だろう」という推量を表わすのであって、「いわば、〜といった」とか「たとえば〜」といった概略や例示の用法ではありません。冒頭の例のような、引用部分を受ける場合は、「『一緒にやろうよ』というような話だった」や「『お前は帰れ』のような態度」という形、つまり、先の名詞の場合と同じように「という」や「の」を中に入れる形になる。引用部分は名詞とよく似た性質がある。

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一方、「みたいだ」のほうは、名詞には「の」をそえず直接つけるので、引用句を名詞と同様に扱うと「一緒にやろうよ、みたいな話だった」のような言い方ができあがる。このように「一緒にやろうよ、みたいな話だった」とか、「お前は帰れ、みたいな態度がむかつく」などの言い方は、引用部分を名詞と同様に扱うという、それなりの文法的な手続きを踏んで作り出されたものだ。しかし、現時点では、友達同士の使用ならともかく、改まった場面では好ましい表現ではない。会話を直接引用するのであれば、不必要にぼかさないで、はっきり「〜という」で示すほうが良いし、例示の意味を含めるなら、「〜というような」や「といった」「(さも)〜と言わんばかりの」といった表現を使うようにしたいものだ…と、天を仰いで思うこと。
★前回のちょっと気になる「ことば」の話はここ(←クリック)


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天を仰いで思うこと すいば 2009/12/14 12:00 am
すいば
一人だけで遊ぶ場所。大切なものを隠しておく秘密の場所。子どもたちの遊ぶ秘密基地。「あそこは瞳ちゃんのスイバや」「好き場」から。「あの山には玉虫のスイバがあった」のように「好む場所」を指した。「あの人はスイナ着物着やはって、よう似合うたはるわ」のスイナは、粋な、玄人向きの意味。スキ「好き・数寄」からか。スイ(推)して知るという忌みからとも。丹波ではスイットともいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
天を仰いで思うこと
だまし絵に思うこと

見る者の目をあざむくような絵は「だまし絵」と呼ばれる。一見、不可解な図像だが、斜めから見ると正しい絵が浮かび上がったり、迫真の描写で現実と見誤るような画面だったり、いろんなタイプがある。有名なのは、16世紀のイタリア人画家アンチンボルドが描いたルドルフ2世の肖像画だろう。すべてが野菜と果物で構成された絵で、一つのモチーフが別のものに見えることからダブルイメージと呼ばれる。

日本にも同様の作品はある。小さな裸の人物が寄り集まって顔や手を構成する歌川国芳の浮世絵「みかけはこはゐがとんだいゝ人だ」は代表格だ。だが、信仰の対象である仏画にも、そんなだまし絵があったというから驚く。青蓮院(京都市東山区)で昨年の12月20日まで公開された国宝「青不動」がそれである。現存する平安仏画の最高傑作とされる名品だが、よく見ると、不動明王の背後で燃えさかる炎が、7羽の火の鳥(迦楼羅(かるら))とのダブルイメージになっている。同院の資料によれば、迦楼羅は三毒(貪欲(どんよく)、瞋恚(しんい)、愚痴)を食らい尽くす鳥で、炎の形状に重ねて描くことで「悪鬼を焼き尽くす聖なる力が内在していることを表現している」という。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
同院でのご開帳は、平安時代の創建以来初めてとのことだ。青不動の力で荒廃の世を良い方向に導いてほしいと踏み切った。殺伐とした事件や不祥事が絶えない日本。どうか世の悪鬼が聖なる炎にだまされ消えうせますように…と、天を仰いで思うこと。

一人だけで遊ぶ場所。大切なものを隠しておく秘密の場所。子どもたちの遊ぶ秘密基地。「あそこは瞳ちゃんのスイバや」「好き場」から。「あの山には玉虫のスイバがあった」のように「好む場所」を指した。「あの人はスイナ着物着やはって、よう似合うたはるわ」のスイナは、粋な、玄人向きの意味。スキ「好き・数寄」からか。スイ(推)して知るという忌みからとも。丹波ではスイットともいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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だまし絵に思うこと

見る者の目をあざむくような絵は「だまし絵」と呼ばれる。一見、不可解な図像だが、斜めから見ると正しい絵が浮かび上がったり、迫真の描写で現実と見誤るような画面だったり、いろんなタイプがある。有名なのは、16世紀のイタリア人画家アンチンボルドが描いたルドルフ2世の肖像画だろう。すべてが野菜と果物で構成された絵で、一つのモチーフが別のものに見えることからダブルイメージと呼ばれる。

日本にも同様の作品はある。小さな裸の人物が寄り集まって顔や手を構成する歌川国芳の浮世絵「みかけはこはゐがとんだいゝ人だ」は代表格だ。だが、信仰の対象である仏画にも、そんなだまし絵があったというから驚く。青蓮院(京都市東山区)で昨年の12月20日まで公開された国宝「青不動」がそれである。現存する平安仏画の最高傑作とされる名品だが、よく見ると、不動明王の背後で燃えさかる炎が、7羽の火の鳥(迦楼羅(かるら))とのダブルイメージになっている。同院の資料によれば、迦楼羅は三毒(貪欲(どんよく)、瞋恚(しんい)、愚痴)を食らい尽くす鳥で、炎の形状に重ねて描くことで「悪鬼を焼き尽くす聖なる力が内在していることを表現している」という。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
同院でのご開帳は、平安時代の創建以来初めてとのことだ。青不動の力で荒廃の世を良い方向に導いてほしいと踏み切った。殺伐とした事件や不祥事が絶えない日本。どうか世の悪鬼が聖なる炎にだまされ消えうせますように…と、天を仰いで思うこと。

