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rrbのブログ - 天を仰いで思うことのエントリ

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天を仰いで思うこと 情報の選択 2016/05/06 12:00 am

現在社会では、どのような環境に生を受けても、この世で生きていくのは難しい。インターネット時代になって、受ける情報がやたらに増え、難しさがぐっと増してきている。情報を得ることと、それを判断して考えることは全く別の作業である。毎日さまざまな判断を迫られる。自由が増えるほどに、判断を迫られる量も増える。問題の内容も複雑になってくる。限りある時間の中で、押し寄せる情報を、何をよりどころとして判断し、切り捨て、整理していったらいいのだろうか。

熊本震災の報道を見ているとますますその考えが強くなる。毎日のようにスマホに届くニュース。使用しているニュースアプリの種類にもよるが、新聞報道されないような内容のものが多く含まれる。現地取材者の横暴な態度や被災者の方の神経を逆なでするような発言・行動。あるいは、芸能界の人々のSNS等による発信内容についての報道…とさまざまだ。

全てが嘘や過剰・誇大とは言わないが、全てが真実とも限らない。まさに押し寄せる情報をどう判断していくかである。

そんな中で、安倍首相の現地訪問のニュースをテレビで見た。被災者の方々に声をかけているシーンはどこか空々しい。というのは、取材陣の要請だと推測するが、被災者の子どもを含む方々と一緒に写真を撮るシーンがあった。丁寧に安倍首相は人々に「あっちのカメラを見て」というように指をさし、その後自らもポーズをとっていたからだ。首相の訪問はニュースになるだろうが、このシーンの撮影を要請しなければならないものだろろうか。少なくとも会見ではないのでカメラ目線はいらない。声をかけているようすを横から撮影するだけで十分ではないかと感じた。首相という立場から、行かなければバッシング、行ってもバッシング、それは理解できるが、行ったからには目的は何かを見失わないようにしてほしいものだ。

一方で、情報を受け取る我々も注意したい。鵜呑みは危険である…と常に意識し、情報を正しく選択していきたい。それが誤解を生まない方法ではないか…と、天を仰いで思うこと。

確かに情報量は多いよね。どれが正しいのか…よくわからないときがある

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天を仰いで思うこと 読書が楽しい理由 2016/04/29 12:00 am

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」 誰もが知っている川端康成の『雪国』の冒頭である。『雪国』は、雪の白さに代表される純粋さからイメージされるとおり、美しい雪国の景色を背景に、男女の純粋な恋愛を描く物語とされている。

しかし…だ。物語のはじめに次のような部分がある。

「もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、これから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけてゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだと、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女の片眼がはっきり浮き出たのだった。」

中学生の頃に読んだときには、この部分の存在はまったく意識になかった…というより意味がわからなかったから覚えていないのかもしれない。大人になって、読み返し、この部分が何を意味しているのかがわかる。この部分に気づいたとき、思わず赤面し、同時に、自分の中から「男女の純粋な恋愛を描く物語」というイメージはなくなった。

考えてみれば、読者は、与えられたものすべてを均等に読んでいるわけではないのかもしれない。自分が読みたいものだけを、都合よく選択し、自分が読みたい物語を、自分で作っているかもしれない。このことは、同じ本を読んでも、人によってその印象や感想が違うことからもうかがえる。人にはそれぞれに、しっかり読まなければならないと思いながら読む箇所と、読み飛ばす箇所があるのだろう。これは、読者におけるストーリー重視の傾向が関わっているのかもしれない。

そんな難しい論を展開するつもりはない。要は、読書における読者心理は、読者が10人いれば10通り、100人いれば100通りあるということだ。さらに、何度も読み返すことによって、その時々に感想も異なる。だから読書は楽しいのかも…と、天を仰いで思うこと。

生々しい表現だけど、男って女の感触をそのように思い返すものなのか…と気になるね

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天を仰いで思うこと でも 2016/04/22 12:00 am

「でも」という言葉は不思議だと思う。
たとえば、「死んでもあなたと暮らしていたい」と言った場合、「死んでからも」という意味である。一方、「死んでも嫌だ」と言った場合、「死んだとしても」という意味となる。同じ「死んでも」であるが、その次に続く言葉により意味が変化する。
「でも」という言葉というより、同じ字面・音であっても、それに続く文面により意味が異なる。この面白い現象は、日本語特有かもしれない…と、天を仰いで思うこと。

またまた、面白いことを考えるね、ちゃんと仕事してるのかな?と心配になるよ

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天を仰いで思うこと 自分にとって写真とは 2016/04/15 12:00 am

カメラを手にし撮影に臨む時、それは撮影したい写真を頭の中でイメージすることから始まる…そして、思い描いたイメージをカメラに託し撮影する…カメラは信頼できる相棒であり、信頼できる道具でなければならない…思い描いたイメージを、写真にする…それは、時として思い通りにいかず困難な時もある…そんな緊張の中で、カメラは静かに撮影者の意思決定を待ち、いざ撮影になると撮影者の期待に全力で答える

これは、『LEICA STYLE MAGAZINE』に掲載されていたものだ。その通りだと思う。どんなカメラで撮ったとしても、撮る作業工程は変わらない。もし違いがあるとすれば、写真または写真を撮るという行為に対する思いではないだろうか。

一眼レフに超望遠レンズをセットし、スズメさんを撮るときも、レンジファインダーカメラで町撮りをするときも、写真や写真を撮るという行為に対する思いの違いはないと自負している。スズメさんを撮るときのほうが、戦闘態勢に近い燃えかたをしているかもしれない。

他人(ひと)から「カメラが好きなのか、写真が好きなのか」と聞かれることがある。これまでは答えに窮することもあったが、「カメラは信頼できる相棒であり、信頼できる道具でなければならない」という言葉がありがたい存在だ。信頼できる相棒・道具として、どのメーカーのどのモデルのカメラを選んだかということに尽きる。その選んだカメラ(機材)は、当然、好きだ。そして、「思い描いたイメージ」通りに撮れていれば、このうえない喜びを感じる。

つまり、自分は、「撮影したい写真を頭の中でイメージし、思い描いたイメージで撮れるまで追い続ける」ということだ。スズメさんのホバリングはまだ撮れていないが…と、天を仰いで思うこと。

イメージ通りに撮れるまで粘り、妥協を許さないよなぁ…他人の写真には寛大やのに…

熊本で発生した地震、
何もできない自分がとてもとても歯がゆいですが、
心よりお見舞い申しあげます。
阪神、東日本のときと同じように、自分なりの支援をしていきます。

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天を仰いで思うこと 徳力 2016/04/08 12:00 am

実際に「知力」「体力」という言葉はよく使うが、「徳力(とくりょく)」という言葉はあまり使われない。それは、「知力」や「体力」には、量が多い少ないの目盛があって、テストで測ることができるけれど、心の問題は測れないからだろう。心が豊かか貧しいかには明確な目盛はないし、ましてや、テストで成績や順位をつけられるようなものでもない。だから、「徳力」とは言わす、単に「徳」があるかないかで判断することが多くなる。

学校に、国語、算数・数学、理科、社会のような強化だけでなく、体育や道徳、学活、総合の時間、音楽、図工・美術、技術・家庭、のような教科があるのが納得できる。音楽、図工・美術、技術・家庭の実技系は、頭と手先(体一部)を結びつけ、同時に心を豊かにする教科だともいえる。

当然、先にも述べたように、「ココロ」については尺度がない。教師の判断ひとつで変わるものだ。そのために「徳力」の指導は難しい…と、天を仰いで思うこと。

「徳力」とは倫理観へとつながっていくものだね

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