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rrbのブログ - 天を仰いで思うことのエントリ

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天を仰いで思うこと 厄介なものは 2018/03/16 12:00 am

「怒(いか)り」は他者をコントロールしようとする感情。どんなアドバイスをしても、アドバイスをするところまでは自分の課題。それをどう参考にし、判断するかは他者の課題。いくら意にそぐわなくても「怒(いか)る」必要はどこにもない。けれど人は怒(いか)る。そこには相手をコントロールしようとする無意識の意識ががある。人の感情で最も厄介なのが「価値観」。「価値観の相違」と「他者をコントロールしようとする感情」が衝突を生み出す。

「叱(しか)る」と「怒(おこ)る」の違い。教育界では「叱る」は教育的であり、「怒る」は教育的ではないとする傾向がある。この使い分けをしたい気持ちはとても理解する。しかし、「叱る」も「怒る」も同意語である。ここでは便宜上「叱る」という言葉で説明すると、問題はその「叱り方」。「何に対して叱ったのか」の基準を明らかにし、相手を否定することはしてはいけない。具体的には「その発言は差別的になるのでやめようね」のようなものだ。「褒める」場合も同じである。「あなたは優しい子」ではなく、「他人に対するその気遣いがステキだね」のようなもの。

また、相手を論破したり、力でねじ伏せるようなことを一般的に「無敵」とするが、私はそれを「無敵」とは考えていない。私が考える「無敵」とは、敵をつくるのではなく、味方にすることである。

自分の感情に振り回されず、常に冷静な自分でありたい。色々な意味で、人間を相手に生きる社会は厄介だから…と、天を仰いで思うこと。

ほう、きょうはどないした? これは行動心理学か?

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天を仰いで思うこと おつきあい 2018/03/09 12:00 am

先日、教員養成系の大学研修会に参加した。仕事のおつきあいもあるし、お世話になった先生も何人かいるし…。
大学の先生の話の内容は奥が深い。テーマは「教員養成における研究と教育の間(はざま)」だったような。数人の大学の先生が発表したが、共通の指摘は、「現在の学校教育はこれでいいのか?」と解釈した。発表を聞いての所見は次のとおり。

現在の学校教育は「自己肯定」とか「達成」とか、いわゆる「成功」することへの導きを押し付けすぎる。文部科学省のホームページを見ると、育むのは「生きる力」とある。「成功体験」は大切なことだけれど、人生って成功より失敗のほうが多いのでは? 思うようにならないことのほうが断然多いと思う。本当に「生きる力」を育てるのであれば、「できない自分」「駄目な自分」をしっかりと受け止めさせ、そんな自分と、もがき苦しみながらどうつきあっていくか、あるいはつきあっていくという強さを教えるほうがいい。発表の中で「感動の教育」とあったが、私は「感じる教育」のほうがいいと思った。「感動」はどうも明るすぎるし、「成功」をイメージさせる。「できた自分」「できなかった自分」「わかった自分」「わからなかった自分」そういったものを「感じる」教育がいい。そのほうが人は強くなる。

学術的な見解は種々あるし、この感想もその一つとして成立するかな。先生方も元気そうだったし、安心。思わぬ勉強をしたが、とても新鮮だった。たまに勉強するのもいいもんだ…と、天を仰いで思うこと。

大学とかの学び舎に通いたくなったか?

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天を仰いで思うこと もっと名乗れ! 2018/03/02 12:00 am

少し前に、有村藍里さんの持論を「俺の持論」という番組で知った。彼女のプレゼンを見ていて、雑誌やネット等で配信されている内容は、嘘ではないが、真実ではないということをつくづく感じた。インターネット時代になって便利になったのは確かだ。その分、受け取る情報もやたらに増え、難しさがぐっと増している。押し寄せる情報を何を拠りどころとして判断し、切り捨て、整理していくか。視野狭窄にならずに何を基準としてものごとの善し悪し、自分の考えや行動を決めていくか。SNSの普及は生きにくい世の中を広め、匿名による社会参加をも容易にした。それは今まで手の届かなったことに手が届くようになり、無責任な言動を加速させ、人の感覚をも狂わせてしまったのではないだろうか。

有村藍里さんが、有村藍里と名乗ることに何の問題があるのだろう。「有村架純さんの姉」ということが売名行為としてバッシングされる理由がどこにあるのだろう。私にはサッパリわからない。「有村架純の姉」と名乗ることが意図した売名行為であったとしても、有村架純さんの姉であるのは事実であり、芸能界で活動する戦略としては容認できることである。それが容認できないならば、それこそ二世タレントが生きにくい世界となる。

「『有村架純の姉』と名乗るな」と発言する権利を有するのはただ一人、有村架純さんだけである。これらのことを認識せず、「あーだこーだ」というのはちょっと違うのではないか。私たちがすべきことは、バッシング等の行為ではなく、有村藍里さんそのものを見て、有村藍里さんを応援するかしないか、好きか嫌いかを判断することだけである。応援しない、嫌いと判断しても攻撃する必要はどこにもない。

番組を見ていて思い浮かんだのは、広瀬アリスさんと広瀬すずさんの姉妹。ここも妹の方が知名度は高い。広瀬アリスさんには「広瀬すずの姉」ということについて聞いてみたい。さらに、有村架純さんには「有村藍里の妹」、広瀬すずさんには「広瀬アリスの妹」ということについて聞いてみたい。芸風や演技力等についての質問には、評価を含めてそれぞれに発言するだろう。しかし、互いの存在については「どんな状況でも大切な家族のひとり。それ以上でもないしそれ以下でもない」と彼女たちは言うに違いない。当然だ。家族というのが事実であり、真実だから。私が同じ立場でもそう言う。不本意に迷惑をかけあって助け合って生きていくのが家族。それを一人で解決しようとする行為ほど家族にとって寂しく迷惑なものはない。

私は私の判断で、有村架純さん、広瀬アリスさん、広瀬すずさんと同様に有村藍里さんを応援する。それに架純さんが拒否しないのであれば「有村架純の姉」をもっともっと自由に名乗ればいいとさえ思っている。それが正当な戦略だ。番組内の有村藍里さんの発言で一つだけ賛成できないことがある。それは写真の加工。私は、「飾らずありのまま」が万人に与えられた最大の武器だと考えている。だから写真を加工する必要は全くない。加工することにより事実が虚偽になる。どうしても気になるのであれば、小物を使ったり、顔の向きや表情の工夫などで対応すればいい。もっというならば、ありのままの有村藍里さんを素敵に撮るカメラマンを探せばいい。

SNSへの投稿は、すぐ隣にいる人との内緒話ではない。全世界に向けて配信される。その責任は配信者にある。いくら匿名で人物の特定が容易にされないとしても責任はある。これをインターネット時代に生き、SNS等を使用する人は忘れてはならない。田村耕太郎氏の『頭に来てもアホとは戦うな!』は、視野狭窄にならずに何を基準としてものごとの善し悪し、自分の考えや行動を決めていくか、のひとつの参考になる。

さて、有村藍里さんは、有村架純さんの姉であるというのは事実で真実。架純さんが拒否しない限り「有村架純の姉」と名乗ることに遠慮もいらないし気を使う必要もない。私が架純さんの立場なら「お姉ちゃん、もっと私の名前を使いなよ。だって姉妹なのは事実だし真実でしょ」というだろう…と、天を仰いで思うこと。

きょうは語ったねぇ。rrbは、真実を知らないの批判等の行為を最も嫌う人だもんね

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天を仰いで思うこと 印象 2018/02/23 12:00 am

きょうは23日。今月は28日までだから、きょうを含めても今月の残りは一週間もない。来週の木曜日からは、いよいよ弥生3月。「春」の体感を色々と味わうことが増えてくる。

3月を「春」という言葉で捉えると、明るい印象がある。12カ月で一カ月の平均気温が一番低い厳しい寒さの2月の後だからなおさらのことだ。しかし、「卒業」とか「旅立ち」いう言葉で捉えると、喜びとともにどこか寂しさを感じる。3月は「始まり」よりも「終わり」という印象か。「門出」が使われるのは4月だろうか。3月とは違い、なんとなく「始まり」の印象がある。

2月28日と3月1日はさほど気持ちは変わらないのに、3月31日と4月1日とでは随分違う。3月まで見ていた顔が4月からはない。3月には見なかった顔が4月には表れる。3月と4月の印象の違いは、日本の学校教育が運用している4月始まりの学年暦が影響しているのだろうと予測。

このことについては、改めて考えてみたい…と、天を仰いで思うこと。

きょうはなんか感慨深いものがあるね。どうかした?

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天を仰いで思うこと 映画は娯楽か文化か 2018/02/16 12:00 am

本ほど多くはないと思うが、映画の多さにびっくり。最近、自分の生活を大切にするために映画も楽しむようにしている。きょうのタイトル、「映画は娯楽か文化か」という言葉は、映画館で知ったもの。「どっちだろう?」と考えるが答えはでない。ただ、「何かを与えてくれている」のは確かだ。ジャンルを問わず映画からも教えられることは多い。

「観てから読むか、読んでから観るか」、これも映画館で知ったものだ。「どっちだろう?」と考えて自分のパターンに気がついた。ずばり「いずれか」のパターンが多い。本を読んでもいるし、映画も観たというパターンは皆無に等しい。写真はやらないが映画大好きお友達の影響だ。以下は映画大好きお友達の言葉。活字にすると伝わりにくいが、彼女の理屈は好きだ。
同じ作品であっても表現者が異なれば印象が変わるのは当たり前。「どっちも良い」はあり得るが、それは比較したくない。本か映画か、どっちかでいいねん。

「きょう、何してる?」
「映画に行こうと思ってる」
「そう。じゃ、映画の後にお茶しようか」
「オッケー」
一緒に行こうとは決して言わない。彼女も私も映画は一人で行く派だ。1年で45本程度、平均月4本程度のペースで観ている。何でもかんでも観るというわけではなく、興味をもったものしか観ていない。それも観る映画館を固定しているので、その映画館で上映されない場合は観ない。こんな態度である。映画好きからすればふざけた奴に違いない。

タイトルの話題に戻るが、私にとって映画は「学習」かもしれない…と、天を仰いで思うこと。

やっぱり、rrbの思考や理屈はおもしろいね。お友達もステキ。

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