rrbのブログ - 天を仰いで思うことのエントリ
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天を仰いで思うこと よそう 2009/05/22 12:00 am
よそう
「ご飯ヨソテ」「味噌汁お椀にヨソウ」のヨソウは「装う」からで、準備する、支度することに由来。身なりを飾る意になり、飲食物を整え、用意することから容器に入れる意味へ広がった。室町時代のことばを集めた『日葡辞書』にも記される。『平家物語』には「飯うづたかくよそひ」とある。また「ご馳走」の「馳走」はもとは走り回ること。準備に奔走し、客をもてなすことからおいしい食物の意に。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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話のネタ雑学(41)
ツバメはなぜ去年の巣を覚えている?

前の巣を使うのは親ツバメ。その確率は50〜60%といわれている。ツバメは高いところから見た景色をちゃんと覚えているという。巣をつくるときに、枯れ草の切れ端や泥の固まりを何十回も運ぶから、巣の場所をしっかり覚えることができるのだろう。

渡りのときも、この記憶がしっかり役立つ。ツバメは体の中に、自分だけにわかる体内時計と呼ばれるものを持っていて、太陽や星座を見ては「この時刻に太陽がこの方角に見えるから、こちらが南」といった判断をしながら飛んでいる。やがて巣のある街に近づくと、去年の記憶が呼び起こされて、前に使っていた巣にたどりつくというわけ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
ただし、空が曇っているときは、方向が決められず群れがバラバラになってしまうことがあり、途中で力尽きててしまうのもいるというので、この程度の確率になるのだろう。なお、去年生まれた若いツバメは、新しい巣をつくる。家の軒下にツバメが巣をつくったら、来年も帰ってくることを信じて、そのままにしておくのがよい…と、天を仰いで思うこと。
★前回はここ(←クリック)

「ご飯ヨソテ」「味噌汁お椀にヨソウ」のヨソウは「装う」からで、準備する、支度することに由来。身なりを飾る意になり、飲食物を整え、用意することから容器に入れる意味へ広がった。室町時代のことばを集めた『日葡辞書』にも記される。『平家物語』には「飯うづたかくよそひ」とある。また「ご馳走」の「馳走」はもとは走り回ること。準備に奔走し、客をもてなすことからおいしい食物の意に。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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話のネタ雑学(41)
ツバメはなぜ去年の巣を覚えている?

前の巣を使うのは親ツバメ。その確率は50〜60%といわれている。ツバメは高いところから見た景色をちゃんと覚えているという。巣をつくるときに、枯れ草の切れ端や泥の固まりを何十回も運ぶから、巣の場所をしっかり覚えることができるのだろう。

渡りのときも、この記憶がしっかり役立つ。ツバメは体の中に、自分だけにわかる体内時計と呼ばれるものを持っていて、太陽や星座を見ては「この時刻に太陽がこの方角に見えるから、こちらが南」といった判断をしながら飛んでいる。やがて巣のある街に近づくと、去年の記憶が呼び起こされて、前に使っていた巣にたどりつくというわけ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
ただし、空が曇っているときは、方向が決められず群れがバラバラになってしまうことがあり、途中で力尽きててしまうのもいるというので、この程度の確率になるのだろう。なお、去年生まれた若いツバメは、新しい巣をつくる。家の軒下にツバメが巣をつくったら、来年も帰ってくることを信じて、そのままにしておくのがよい…と、天を仰いで思うこと。
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天を仰いで思うこと ごもくをほかす 2009/05/20 12:00 am
ごもくをほかす
「ゴモク」はごみ、「ホカス」は捨てるの意。4月、京都に住み始め、「学生はん、そこのゴモク、ホカシトイテンカ」といわれ、きょとんとして分からない若者も多い。ゴミは「ご」の実のこと。平安時代から松の落葉を「ご」といい、燃料にした。芭蕉の句に「ごを焚いて手拭(てぬぐい)あぶる寒さかな」 ホカスは「放下す」の意味からで、京都から大阪にかけて「ゴモクをホカス」の使用地域がみられる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(51) ちょっと気になる「ことば」の話
よろしかったでしょうか

最近、ファミリーレストランなどで、「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」と使われる。注文が以上でいいかを聞いているのだから、「ご注文は以上でよろしいでしょうか」というように、現在形でいいのではないか。「これでよいか」は現在のことについての評価(良し悪し)を聞いているものであり、「これでよかったか」は過去のことについての評価を尋ねているものである。だから、現在している注文について「よかったか」と訪ねるのはおかしいのではないかという疑問がでてくる。

「よい(よろしい)」と「よかった(よろしかった)」の違いについて、考えてみると、「よい」は現在のことについての現在における評価を表わす。「注文はこれでよい」は、現在注文をしている、その注文内容はこれでよい、ということだ。それに対して、「よかった」は、過去のことについての現在における評価を表わす。「昨日の注文はよかった」は、昨日という過去において行った注文について現在振り返ってよかったと評価している。つまり、「よい」と「よかった」は評価の対象は現在のことと過去のことで違うが、評価の時点はいずれも現在で共通だということだ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
だから、「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」の「ご注文」が過去のこととみなすことができれば許される表現ということになる。注文を色々して、し終わった、それは現在の注文ではあるけれど、し終わった過去の注文でもある。注文が過去のものとみなされれば「先ほどのご注文はあれでよろしかったでしょうか」に準ずるような表現として許されるのではないか。この表現がでてくる論理、この表現にあまり違和感を持たないという人の論理はこの辺にあるのではないかと考える。
そうそう、もうひとつ。「あなたは○○さんでいらっしゃったでしょうか」というのも聞く。この場合、「いらっしゃった(わよね)」と相手に確認する用法に「でしょうか」という相手に質問をする表現の混在となるので避けるべきだろう…と、天を仰いで思うこと。
★前回のちょっと気になる「ことば」の話はここ(←クリック)

「ゴモク」はごみ、「ホカス」は捨てるの意。4月、京都に住み始め、「学生はん、そこのゴモク、ホカシトイテンカ」といわれ、きょとんとして分からない若者も多い。ゴミは「ご」の実のこと。平安時代から松の落葉を「ご」といい、燃料にした。芭蕉の句に「ごを焚いて手拭(てぬぐい)あぶる寒さかな」 ホカスは「放下す」の意味からで、京都から大阪にかけて「ゴモクをホカス」の使用地域がみられる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(51) ちょっと気になる「ことば」の話
よろしかったでしょうか

最近、ファミリーレストランなどで、「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」と使われる。注文が以上でいいかを聞いているのだから、「ご注文は以上でよろしいでしょうか」というように、現在形でいいのではないか。「これでよいか」は現在のことについての評価(良し悪し)を聞いているものであり、「これでよかったか」は過去のことについての評価を尋ねているものである。だから、現在している注文について「よかったか」と訪ねるのはおかしいのではないかという疑問がでてくる。

「よい(よろしい)」と「よかった(よろしかった)」の違いについて、考えてみると、「よい」は現在のことについての現在における評価を表わす。「注文はこれでよい」は、現在注文をしている、その注文内容はこれでよい、ということだ。それに対して、「よかった」は、過去のことについての現在における評価を表わす。「昨日の注文はよかった」は、昨日という過去において行った注文について現在振り返ってよかったと評価している。つまり、「よい」と「よかった」は評価の対象は現在のことと過去のことで違うが、評価の時点はいずれも現在で共通だということだ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
だから、「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」の「ご注文」が過去のこととみなすことができれば許される表現ということになる。注文を色々して、し終わった、それは現在の注文ではあるけれど、し終わった過去の注文でもある。注文が過去のものとみなされれば「先ほどのご注文はあれでよろしかったでしょうか」に準ずるような表現として許されるのではないか。この表現がでてくる論理、この表現にあまり違和感を持たないという人の論理はこの辺にあるのではないかと考える。
そうそう、もうひとつ。「あなたは○○さんでいらっしゃったでしょうか」というのも聞く。この場合、「いらっしゃった(わよね)」と相手に確認する用法に「でしょうか」という相手に質問をする表現の混在となるので避けるべきだろう…と、天を仰いで思うこと。
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天を仰いで思うこと はしり 2009/05/18 12:00 am
はしり
台所の流し元。「お茶碗やお皿をハシリまで持って行って」 東京のナガシに対する。ハシリモトは台所の水の流れるもと、水道の蛇口のもとを指す。台所はダイドコとも。宮中の清涼殿内の女房の詰め所である台盤所の略。台所に設置して茶器などを収納するタンス風のものをミズヤという。「お茶碗をミズヤにいれてナオス(しまう)」 水屋はもとは茶室の隣室に設けた茶器を洗う場所。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(7)
ポストの色 (エキサイト 2008年2月9日掲載)

日本に最初にポストができたのは、今から130年以上も前の1871年のこと。このころは、まだポストは木で作られており、今のように赤い色はしていなかった。つまり、ポストは最初から赤かったわけではない。

ポストが赤くなったのは、最初のポストができてから37年後の1908年のこと。この年、初めて鉄でできた赤いポストが町に置かれた。このときポストを赤くぬった理由は、やはり赤が一番目につくからということ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
町の中に置いたときにどんな色にすればよく目立つかということから決定された。なぜポストが赤いかは、その色がよく目立つためという理由。
そういえば、「カラスがカーァと鳴くのも、角のポストが赤いのも、みんなの成績が悪いのも、みーんなワタシが悪いんです」という先生がいた。高校のときの英語の先生だった…と、天を仰いで思うこと。

台所の流し元。「お茶碗やお皿をハシリまで持って行って」 東京のナガシに対する。ハシリモトは台所の水の流れるもと、水道の蛇口のもとを指す。台所はダイドコとも。宮中の清涼殿内の女房の詰め所である台盤所の略。台所に設置して茶器などを収納するタンス風のものをミズヤという。「お茶碗をミズヤにいれてナオス(しまう)」 水屋はもとは茶室の隣室に設けた茶器を洗う場所。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(7)
ポストの色 (エキサイト 2008年2月9日掲載)

日本に最初にポストができたのは、今から130年以上も前の1871年のこと。このころは、まだポストは木で作られており、今のように赤い色はしていなかった。つまり、ポストは最初から赤かったわけではない。

ポストが赤くなったのは、最初のポストができてから37年後の1908年のこと。この年、初めて鉄でできた赤いポストが町に置かれた。このときポストを赤くぬった理由は、やはり赤が一番目につくからということ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
町の中に置いたときにどんな色にすればよく目立つかということから決定された。なぜポストが赤いかは、その色がよく目立つためという理由。
そういえば、「カラスがカーァと鳴くのも、角のポストが赤いのも、みんなの成績が悪いのも、みーんなワタシが悪いんです」という先生がいた。高校のときの英語の先生だった…と、天を仰いで思うこと。


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天を仰いで思うこと いぬ 2009/05/15 12:00 am
いぬ
「えらい遅うなったし、もうイヌわ」 「帰る」の意で、丹後ではイヌルという。奈良時代から使われてきた。江戸時代後期に四段活用で使用。インデクルともいい、「忘れ物したし、インデクルわ」 イノーは帰ろう。インデコイは帰れで、離縁する意味にもなった。『万葉集』では「行く」や「過ぎ去る」の意味もあった。「うぐひすぞ鳴きていぬなる梅が下枝(しずえ)に」のこのイヌは「移っていく」ことを表す。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(1)
絵馬について思うこと (エキサイト 2008年1月30日〜2月4日掲載)

常日頃、神仏に頼っていない人でも大半の人は行っているのが「初詣」。今年も年の初めに様々な願い事を何人もの人が奉納したことには違いない。寺社仏閣への行ったときのひとつの楽しみは絵馬である。ハシタナイけれど奉納されている絵馬を見てしまう。ひっくり返してまでは見ないけれど、見えている範囲で読んでしまう。神社の本殿に立って心の中で願い事をつぶやく、絵馬に願い事を文字にして奉納する。どちらも願い事を託すことには変わりない。この絵馬を見ると世相の一端が見えるような気がするし、絵馬を読むのは結構楽しい。以前の合格祈願は大学・高等学校が占めていた。しかし、最近は私立の小学校・中学校ばかりでなく、幼稚園入園の合格祈願も増えている。当然、資格関係の合格祈願もある。

その絵馬について気になることがある。絵馬にはどうして氏名はもちろん住所まで書いているのだろう。そもそも絵馬に氏名・住所は必要なのだろうか? 本殿の前で手を合わせて願い事を心でつぶやく時、「自分はどこどこの誰々です」とつぶやくだろうか? 誰もつぶやいていないと思う。少なくとも自分はつぶやいていない。恋愛成就や結婚祈願の場合、相手の名前をつぶやくことがあったとしても、自分の氏名などはつぶやいていない。しかし、絵馬には、自分の氏名はもちろん住所までしっかり書いているものが大半なのである。なぜ? 絵馬奉納のルールなのか? 絵馬に氏名とか住所を書くのが奉納のルールとするならば、今は個人情報保護が叫ばれる時代。「他人に読まれることがありますよ、よろしいですか?」という許諾が必要となってくるはずであるが、そんな説明は聞いたことがない。しかし、絵馬を書くときには大半の人が氏名や住所まで書く。いや、書いてしまうのである。なぜ書いてしまうのか…考えながら絵馬を見ていたとき、「どこどこの誰々って書かないと神様が誰のことかわからなくなるでしょ」と子供に説明している親の言葉が耳に飛び込んできた。「なるほど!」と言いたいが、本殿の前で手を合わせて願い事を心でつぶやく時、「自分はどこどこの誰々です」とつぶやかないのが通常である。本殿の前に立ったときは容姿をさらけ出しているから特定されている、あるいは、直接頼んだから大丈夫という安心なのか?

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
今は個人情報保護に気をつかう時代。他人様の絵馬を読みながら、心の中では個人情報への配慮と楽しさと心配の葛藤がある。その絵馬も最近変わってきた。縁結びのお社で発見したのであるが、書いた上にシールを貼る絵馬が誕生している。「やっぱり、個人情報保護!」と思ったが、どうも違うようである。このシールは個人情報の保護という考えではなく、絵馬を誰かに見られることを意識しないようにというもの。誰かに見られると意識してしまうと、願い事を書くのにためらいがでてくる人に対する配慮だという。シール貼る絵馬、シールで見えなくしても神様は願い事をかなえてくれるの?と思うが、本殿にお参りするとき、何かに願い事を書くわけでもなく心の中でつぶやくだけである。つまり、神様と心のやり取りをするのである。絵馬に文字にして書いたときこそが神様との心のやり取りなのであって、絵馬を掛けた(奉納した)時ではないのである。気持ちをもめて書けば、たとえシールで隠されていても、神様とは心のやり取りができている。そこには、当然、氏名も住所もいらない。神様は全てお見通しということ。誰かに当てたメッセージや見ていただくのを目的とした場合、目印となるものは書くことにして、氏名も住所も書かず奉納することにしよう。神様は全てお見通しだし、個人情報保護の時代でもあるし…と、天を仰いで思うこと。

「えらい遅うなったし、もうイヌわ」 「帰る」の意で、丹後ではイヌルという。奈良時代から使われてきた。江戸時代後期に四段活用で使用。インデクルともいい、「忘れ物したし、インデクルわ」 イノーは帰ろう。インデコイは帰れで、離縁する意味にもなった。『万葉集』では「行く」や「過ぎ去る」の意味もあった。「うぐひすぞ鳴きていぬなる梅が下枝(しずえ)に」のこのイヌは「移っていく」ことを表す。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(1)
絵馬について思うこと (エキサイト 2008年1月30日〜2月4日掲載)

常日頃、神仏に頼っていない人でも大半の人は行っているのが「初詣」。今年も年の初めに様々な願い事を何人もの人が奉納したことには違いない。寺社仏閣への行ったときのひとつの楽しみは絵馬である。ハシタナイけれど奉納されている絵馬を見てしまう。ひっくり返してまでは見ないけれど、見えている範囲で読んでしまう。神社の本殿に立って心の中で願い事をつぶやく、絵馬に願い事を文字にして奉納する。どちらも願い事を託すことには変わりない。この絵馬を見ると世相の一端が見えるような気がするし、絵馬を読むのは結構楽しい。以前の合格祈願は大学・高等学校が占めていた。しかし、最近は私立の小学校・中学校ばかりでなく、幼稚園入園の合格祈願も増えている。当然、資格関係の合格祈願もある。

その絵馬について気になることがある。絵馬にはどうして氏名はもちろん住所まで書いているのだろう。そもそも絵馬に氏名・住所は必要なのだろうか? 本殿の前で手を合わせて願い事を心でつぶやく時、「自分はどこどこの誰々です」とつぶやくだろうか? 誰もつぶやいていないと思う。少なくとも自分はつぶやいていない。恋愛成就や結婚祈願の場合、相手の名前をつぶやくことがあったとしても、自分の氏名などはつぶやいていない。しかし、絵馬には、自分の氏名はもちろん住所までしっかり書いているものが大半なのである。なぜ? 絵馬奉納のルールなのか? 絵馬に氏名とか住所を書くのが奉納のルールとするならば、今は個人情報保護が叫ばれる時代。「他人に読まれることがありますよ、よろしいですか?」という許諾が必要となってくるはずであるが、そんな説明は聞いたことがない。しかし、絵馬を書くときには大半の人が氏名や住所まで書く。いや、書いてしまうのである。なぜ書いてしまうのか…考えながら絵馬を見ていたとき、「どこどこの誰々って書かないと神様が誰のことかわからなくなるでしょ」と子供に説明している親の言葉が耳に飛び込んできた。「なるほど!」と言いたいが、本殿の前で手を合わせて願い事を心でつぶやく時、「自分はどこどこの誰々です」とつぶやかないのが通常である。本殿の前に立ったときは容姿をさらけ出しているから特定されている、あるいは、直接頼んだから大丈夫という安心なのか?

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
今は個人情報保護に気をつかう時代。他人様の絵馬を読みながら、心の中では個人情報への配慮と楽しさと心配の葛藤がある。その絵馬も最近変わってきた。縁結びのお社で発見したのであるが、書いた上にシールを貼る絵馬が誕生している。「やっぱり、個人情報保護!」と思ったが、どうも違うようである。このシールは個人情報の保護という考えではなく、絵馬を誰かに見られることを意識しないようにというもの。誰かに見られると意識してしまうと、願い事を書くのにためらいがでてくる人に対する配慮だという。シール貼る絵馬、シールで見えなくしても神様は願い事をかなえてくれるの?と思うが、本殿にお参りするとき、何かに願い事を書くわけでもなく心の中でつぶやくだけである。つまり、神様と心のやり取りをするのである。絵馬に文字にして書いたときこそが神様との心のやり取りなのであって、絵馬を掛けた(奉納した)時ではないのである。気持ちをもめて書けば、たとえシールで隠されていても、神様とは心のやり取りができている。そこには、当然、氏名も住所もいらない。神様は全てお見通しということ。誰かに当てたメッセージや見ていただくのを目的とした場合、目印となるものは書くことにして、氏名も住所も書かず奉納することにしよう。神様は全てお見通しだし、個人情報保護の時代でもあるし…と、天を仰いで思うこと。


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天を仰いで思うこと おやかまっさん 2009/05/13 12:00 am
おやかまっさん
「おおきに、オヤカマッサンどした」と辞去の時のあいさつ。お邪魔しました、お騒がせしてすみませんでしたの意。やかましいに基づく。オ〜サンを用いて丁寧語に。平安時代に「あなかま」といえば「ああ騒がしい」で、「あな」は感動詞、「かまし」は騒がしい。公家は「ごめんどう申し上げました」、お付の者は「ごめんどうさんをあそばしましてございます」とあいさつした。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(50) ちょっと気になる「ことば」の話
おビールお持ちしました

最近、飲みに行くとよく聞くこの言葉。実は少し違和感を覚えている。「おビール」と「お持ちしました」の部分だと思う。「おビール」は、最近、ごく普通に使用されているから、違和感を覚える人も少ないだろうが、実は違和感がある。たとえば「(先生の)おカバンをお持ちします」の場合の「おカバン」は、先生の持ち物で、先生を高めるために「お」をつけるが、「ビール」は誰の持ち物でもなく、極端にいえば、運んできた自分の物で、尊敬すべき相手がない。この場合、「ビール」に「お」をつけるのは言葉を上品に美しくするためで、「おビール」のような語を美化語という。「おカバン」も前掲のように相手を高めるために使った場合は尊敬語になるが、「私はおカバンを買いました」のように自分の物についていった場合は美化語となる。美化語は上品な物言いをして自分の品位を高めるための表現だから、使うか使わないかは大きな個人差がある。

さて、「おビール」であるが、これは飲食店などで使われ始めその世界では既に定着しているようだ。美化語は、自分が上品だということを示すための表現であるから、一般化していないものほど使用効果が高いといえるが、あまり使いすぎるとかえって品位を失うことになる。不足すると乱暴な言葉遣いになるし、過剰になると顰蹙を買う。「おジュース」なんてあり得ない。
次に「お持ちする」だが、「持つ」は自分の行為だから「お」をつけるのはおかしいと感じる人がいるかも知れない。さりとて相手を高めているわけだから、美化語とも考えられない。「お〜する」は全体で謙譲語であるから問題はないと考え違和感を持っていない。しかし、金田一京助氏は「お〜する」を謙譲に使用するのは間違いしているから、大正の頃は正しくない表現だと考えられていたようだ。現在では「(先生を)お誘いする」「(先生のために)お調べする」などは最も普通の謙譲表現であるが、以前は不自然だと感じられていたようだ。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
現在ではさらに「(私は会社を)お休みします」のように行為が開いてに及ばず謙譲にならない「お〜する」も使用されており、美化語としかいうしかない。年配の人には違和感を強く訴える人もいるが、若い女性などには広く使われているようだ。こうみると「お〜する」は、謙譲の使い方も認められない時期から、それの認められる時期、そして美化語として使われる時期と、3回も変化していることになる。美化語的な「お〜する」も、やがては違和感なく認められる時期がくるということか…。「おビール」「おジュース」はまだ一般化した表現ではなく、美化語も使いすぎるとかえって品位を失うというお話。
お酒はOKでおビールはNG。おそばはOKでおパスタはNG。お召しものはOKでおスーツはNG。まぁ、英語に敬語はないからなぁ…と、天を仰いで思うこと。

「おおきに、オヤカマッサンどした」と辞去の時のあいさつ。お邪魔しました、お騒がせしてすみませんでしたの意。やかましいに基づく。オ〜サンを用いて丁寧語に。平安時代に「あなかま」といえば「ああ騒がしい」で、「あな」は感動詞、「かまし」は騒がしい。公家は「ごめんどう申し上げました」、お付の者は「ごめんどうさんをあそばしましてございます」とあいさつした。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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おビールお持ちしました

最近、飲みに行くとよく聞くこの言葉。実は少し違和感を覚えている。「おビール」と「お持ちしました」の部分だと思う。「おビール」は、最近、ごく普通に使用されているから、違和感を覚える人も少ないだろうが、実は違和感がある。たとえば「(先生の)おカバンをお持ちします」の場合の「おカバン」は、先生の持ち物で、先生を高めるために「お」をつけるが、「ビール」は誰の持ち物でもなく、極端にいえば、運んできた自分の物で、尊敬すべき相手がない。この場合、「ビール」に「お」をつけるのは言葉を上品に美しくするためで、「おビール」のような語を美化語という。「おカバン」も前掲のように相手を高めるために使った場合は尊敬語になるが、「私はおカバンを買いました」のように自分の物についていった場合は美化語となる。美化語は上品な物言いをして自分の品位を高めるための表現だから、使うか使わないかは大きな個人差がある。

さて、「おビール」であるが、これは飲食店などで使われ始めその世界では既に定着しているようだ。美化語は、自分が上品だということを示すための表現であるから、一般化していないものほど使用効果が高いといえるが、あまり使いすぎるとかえって品位を失うことになる。不足すると乱暴な言葉遣いになるし、過剰になると顰蹙を買う。「おジュース」なんてあり得ない。
次に「お持ちする」だが、「持つ」は自分の行為だから「お」をつけるのはおかしいと感じる人がいるかも知れない。さりとて相手を高めているわけだから、美化語とも考えられない。「お〜する」は全体で謙譲語であるから問題はないと考え違和感を持っていない。しかし、金田一京助氏は「お〜する」を謙譲に使用するのは間違いしているから、大正の頃は正しくない表現だと考えられていたようだ。現在では「(先生を)お誘いする」「(先生のために)お調べする」などは最も普通の謙譲表現であるが、以前は不自然だと感じられていたようだ。

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現在ではさらに「(私は会社を)お休みします」のように行為が開いてに及ばず謙譲にならない「お〜する」も使用されており、美化語としかいうしかない。年配の人には違和感を強く訴える人もいるが、若い女性などには広く使われているようだ。こうみると「お〜する」は、謙譲の使い方も認められない時期から、それの認められる時期、そして美化語として使われる時期と、3回も変化していることになる。美化語的な「お〜する」も、やがては違和感なく認められる時期がくるということか…。「おビール」「おジュース」はまだ一般化した表現ではなく、美化語も使いすぎるとかえって品位を失うというお話。
お酒はOKでおビールはNG。おそばはOKでおパスタはNG。お召しものはOKでおスーツはNG。まぁ、英語に敬語はないからなぁ…と、天を仰いで思うこと。

