rrbのブログ - 天を仰いで思うことのエントリ
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天を仰いで思うこと すんまへん 2009/10/26 12:00 am
すんまへん
すみません。恐れ入ります。「お先に失礼してスンマヘン」「いつもお世話になりスンマヘン」 心が澄まない意からで、謝罪のときにも、感謝するときにも使う。祇園の舞妓・芸妓がよく口にする。スマンの丁寧語。スイマヘン・スイマセン・スミマヘンとも。「スンマヘンこんなことお願いしまして」と、スンマヘンを前出したり、「ちょっとスンマヘンケド」と、あらかじめ容赦の気持ちを伝える表現もある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
四方山話(79)
いわし雲に思うこと

秋の澄んだ青空一面に、白い雲が斑点状に広がる様子が、海で鰯(いわし)が群れているように見えることから「いわし雲」という。また、鯖(さば)の背の斑点のように見えるので「さば雲」、魚の鱗に似ているので「うろこ雲」ともいう。

高度5000から13000mに生じる巻積雲(けんせきうん)のことで、この雲がでると、秋が深まっていくことが実感できる。今年はまだ見ていない。この雲は、漁師にとっては鰯の大漁の兆しでもあったそうだ。

(京都・嵯峨野 化野念仏寺)
「鰯雲化野(あだし)の墓隙間なし」と詠んだのは藤井艸眉子だったか…。先日訪れた、化野(あだし)の念仏寺はまだ秋の気配は浅かった…と、天を仰いで思うこと。

すみません。恐れ入ります。「お先に失礼してスンマヘン」「いつもお世話になりスンマヘン」 心が澄まない意からで、謝罪のときにも、感謝するときにも使う。祇園の舞妓・芸妓がよく口にする。スマンの丁寧語。スイマヘン・スイマセン・スミマヘンとも。「スンマヘンこんなことお願いしまして」と、スンマヘンを前出したり、「ちょっとスンマヘンケド」と、あらかじめ容赦の気持ちを伝える表現もある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(79)
いわし雲に思うこと

秋の澄んだ青空一面に、白い雲が斑点状に広がる様子が、海で鰯(いわし)が群れているように見えることから「いわし雲」という。また、鯖(さば)の背の斑点のように見えるので「さば雲」、魚の鱗に似ているので「うろこ雲」ともいう。

高度5000から13000mに生じる巻積雲(けんせきうん)のことで、この雲がでると、秋が深まっていくことが実感できる。今年はまだ見ていない。この雲は、漁師にとっては鰯の大漁の兆しでもあったそうだ。

(京都・嵯峨野 化野念仏寺)
「鰯雲化野(あだし)の墓隙間なし」と詠んだのは藤井艸眉子だったか…。先日訪れた、化野(あだし)の念仏寺はまだ秋の気配は浅かった…と、天を仰いで思うこと。


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天を仰いで思うこと にじくる 2009/10/23 12:00 am
にじくる
「そんなにあっちゃこっちゃニジクルもんやない」 なすりつける。塗りつける。ニシクルともいう。擦り付ける。じりじりと押し付けるの意味のニジルに、繰り返す、こね回すの意味のクル(繰る)をつけて作った。「にじり寄る」「にじり出る」というし、茶室には「にじり口」がある。「にじり書き」といえば、筆を紙に押さえ付けるようにして下手な文字を書くことになる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
四方山話(78)
橋に思うこと

京都には、観月橋と渡月橋という橋がある。いずれもそこそこ有名だろう。
観月橋は、鎌倉時代末期から、桂橋(両郡橋又は指月橋)と称し存在した。桃山時代に、豊臣秀吉が豊後大友氏に命じ伏見から向島の間に長さ200m橋を架ける。豊後(ぶんご)橋と呼ばれる。江戸時代を通して18回の架け替えや修復の工事が行われた。鳥羽・伏見の戦で豊後橋が焼け落ちる。川の流れが速いため復旧に難儀したそうだ。その間は、渡し船が就航。1873(明治6)年に橋が再建、この時に橋脚の柱や高欄が鉄製になる。月を観るのに好適の場所にあるということから、「観月橋」と呼ばれるようになった。
一方、渡月橋は、承和年間(834-848)に僧・道昌が架橋したのが始まりとされ、現在の位置には、後年に角倉了以が架けたとされる。現在の橋は1934年(昭和9年)完成。橋脚と橋桁は鉄筋コンクリート製だが、欄干部分は景勝地である嵐山の風景にとけ込むよう木造。観光パンフレットなどには、この橋が写り込んだ写真が多用され、また、映画やテレビドラマの撮影で多用されていることもあり、観光地としての嵐山を象徴する橋ともなっている。欄干が木造であることから、自動車が欄干に衝突した際に欄干を破損して車が川底に落下したり、捨てられた煙草の火によって欄干が燃える事故が発生することがある。亀山上皇が、橋の上空を移動していく月を眺めて、「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから「渡月橋」と名付けられる。

このふたつの橋に共通する項目は、「月」である。
さて、京都の人に「観月橋は東西、南北のどっちに架かっている?」と聞くと、凡その人から、「南北」と正解が返ってくる。しかし、「渡月橋は?」という質問に対しては、凡その人が、「東西」と間違って答える。実際に渡月橋を渡ったことがある人に聞いても「東西」と間違って答える。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
この間違いはどこからくるのか…。恐らく、京都人にとって観月橋は京都の南にあり、北から南向いて行った進行方向のまま渡るから「南北」と正しく答えられる。しかし、渡月橋は京都の西にあることから、東から西に行ったところにあるため、錯覚し間違うのであろうと推測する。ちなみに四条通に架かる「松尾橋」については、正しく「東西」と答える。
念のために、地図を掲載しておく。


それにしても、「月を観る」だの「月が渡る」だの、京都での先人たちの生活感性は素晴らしい…と、天を仰いで思うこと。

「そんなにあっちゃこっちゃニジクルもんやない」 なすりつける。塗りつける。ニシクルともいう。擦り付ける。じりじりと押し付けるの意味のニジルに、繰り返す、こね回すの意味のクル(繰る)をつけて作った。「にじり寄る」「にじり出る」というし、茶室には「にじり口」がある。「にじり書き」といえば、筆を紙に押さえ付けるようにして下手な文字を書くことになる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(78)
橋に思うこと

京都には、観月橋と渡月橋という橋がある。いずれもそこそこ有名だろう。
観月橋は、鎌倉時代末期から、桂橋(両郡橋又は指月橋)と称し存在した。桃山時代に、豊臣秀吉が豊後大友氏に命じ伏見から向島の間に長さ200m橋を架ける。豊後(ぶんご)橋と呼ばれる。江戸時代を通して18回の架け替えや修復の工事が行われた。鳥羽・伏見の戦で豊後橋が焼け落ちる。川の流れが速いため復旧に難儀したそうだ。その間は、渡し船が就航。1873(明治6)年に橋が再建、この時に橋脚の柱や高欄が鉄製になる。月を観るのに好適の場所にあるということから、「観月橋」と呼ばれるようになった。
一方、渡月橋は、承和年間(834-848)に僧・道昌が架橋したのが始まりとされ、現在の位置には、後年に角倉了以が架けたとされる。現在の橋は1934年(昭和9年)完成。橋脚と橋桁は鉄筋コンクリート製だが、欄干部分は景勝地である嵐山の風景にとけ込むよう木造。観光パンフレットなどには、この橋が写り込んだ写真が多用され、また、映画やテレビドラマの撮影で多用されていることもあり、観光地としての嵐山を象徴する橋ともなっている。欄干が木造であることから、自動車が欄干に衝突した際に欄干を破損して車が川底に落下したり、捨てられた煙草の火によって欄干が燃える事故が発生することがある。亀山上皇が、橋の上空を移動していく月を眺めて、「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから「渡月橋」と名付けられる。

このふたつの橋に共通する項目は、「月」である。
さて、京都の人に「観月橋は東西、南北のどっちに架かっている?」と聞くと、凡その人から、「南北」と正解が返ってくる。しかし、「渡月橋は?」という質問に対しては、凡その人が、「東西」と間違って答える。実際に渡月橋を渡ったことがある人に聞いても「東西」と間違って答える。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
この間違いはどこからくるのか…。恐らく、京都人にとって観月橋は京都の南にあり、北から南向いて行った進行方向のまま渡るから「南北」と正しく答えられる。しかし、渡月橋は京都の西にあることから、東から西に行ったところにあるため、錯覚し間違うのであろうと推測する。ちなみに四条通に架かる「松尾橋」については、正しく「東西」と答える。
念のために、地図を掲載しておく。


それにしても、「月を観る」だの「月が渡る」だの、京都での先人たちの生活感性は素晴らしい…と、天を仰いで思うこと。


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天を仰いで思うこと かーかーかーこーこーこー 2009/10/09 12:00 am
かーかーかーこーこーこー
烏相撲の神事が、9月9日に上賀茂神社で行われる。弓矢を手にした神官が、横飛びをしながら土俵付近の盛り砂の前に出て、カーカーカー、コーコーコーと烏の鳴き声を三度する。続いて小学生たちの相撲が始まる。重陽の節句に当たり、長寿や厄除けを願って奉納する。祭神の賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が、神武天皇の東征を先導したとき、八咫烏(やたがらす)が天皇の弓先にとまっという故事に基づく。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
四方山話(77)
秋に思うこと

今の季節、部屋の中で秋らしい気分を味わうには、ススキを飾るのが手っ取り早い。原っぱから何本か、ハサミで切ってきて花瓶に投げ込むと、演出効果はてきめんだ。窓の向こうの景色さえ心なしか澄みわたる。秋の七草を、指を折り挙げてみると、萩(はぎ)、尾花、葛(くず)、撫子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)、それに朝顔となる。朝顔はいまの桔梗(ききょう)か木槿(むくげ)だという。ススキを尾花と呼ぶのは、花穂が動物の尻尾(しっぽ)に似ているためらしい。

原っぱなどに生えているススキの群れは、風になびいて「おいで、おいで」をする。その様を、江戸時代の俳人・去来は「さよなら」に見立てた。「君が手もまじるなるべし花芒(はなすすき)」 見送ってくれる人の振る手が、銀の穂波と一緒にいつまでも揺れている。秋風の立つような余韻を残す。「夕焼、小焼、薄(すすき)のさきに火がついた」 これで全文の「薄」という童謡をつくったのは、北原白秋。秋の夕暮れは赤々と落ちていく。説明抜きの郷愁を、ススキは呼びさます。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
さて、この秋はどういう写真を撮ろう。ススキと月の写真などを撮ってみたい。秋の季語の「花野」をイメージして撮るのもよい。それだけの腕があれば…の話だが…と、天を仰いで思うこと。

烏相撲の神事が、9月9日に上賀茂神社で行われる。弓矢を手にした神官が、横飛びをしながら土俵付近の盛り砂の前に出て、カーカーカー、コーコーコーと烏の鳴き声を三度する。続いて小学生たちの相撲が始まる。重陽の節句に当たり、長寿や厄除けを願って奉納する。祭神の賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が、神武天皇の東征を先導したとき、八咫烏(やたがらす)が天皇の弓先にとまっという故事に基づく。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
四方山話(77)
秋に思うこと

今の季節、部屋の中で秋らしい気分を味わうには、ススキを飾るのが手っ取り早い。原っぱから何本か、ハサミで切ってきて花瓶に投げ込むと、演出効果はてきめんだ。窓の向こうの景色さえ心なしか澄みわたる。秋の七草を、指を折り挙げてみると、萩(はぎ)、尾花、葛(くず)、撫子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)、それに朝顔となる。朝顔はいまの桔梗(ききょう)か木槿(むくげ)だという。ススキを尾花と呼ぶのは、花穂が動物の尻尾(しっぽ)に似ているためらしい。

原っぱなどに生えているススキの群れは、風になびいて「おいで、おいで」をする。その様を、江戸時代の俳人・去来は「さよなら」に見立てた。「君が手もまじるなるべし花芒(はなすすき)」 見送ってくれる人の振る手が、銀の穂波と一緒にいつまでも揺れている。秋風の立つような余韻を残す。「夕焼、小焼、薄(すすき)のさきに火がついた」 これで全文の「薄」という童謡をつくったのは、北原白秋。秋の夕暮れは赤々と落ちていく。説明抜きの郷愁を、ススキは呼びさます。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
さて、この秋はどういう写真を撮ろう。ススキと月の写真などを撮ってみたい。秋の季語の「花野」をイメージして撮るのもよい。それだけの腕があれば…の話だが…と、天を仰いで思うこと。


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天を仰いで思うこと いきどしい 2009/10/07 12:00 am
いきどしい
「急いで走ってきたさかい、イキドシイのや」息苦しい。呼吸が早くて切ない。「息労し(いきいたはし)」から。平安時代は「いきだはし」で、それが「いきどほし」となった。平安時代の辞書『色葉字類抄(いろはるいしょう)』に「イキダハシ」とある。「息」を活用させイキルという動詞を作った。意気込む、気張る、調子に乗るなどの意で、「あんまりイキルと長続きせんで」という。息遣いを荒くすることから、調子に乗り騒ぐことをいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
四方山話(76)
台風に思うこと

1957(昭和32)年に5000円札が、翌年には10000円札が続いて出た。これにより、聖徳太子は高度成長の顔となったといえる。都市には労働者が密集し、家電が普及し始めたのもこの頃だろう。そんな時代を未曽有の災害が襲う。1959年(昭和34)年9月26日、この日は今年と同じ土曜日。名古屋の地方気象台は、怪物のような台風15号に忙殺されていた。接近時の中心気圧は900ヘクトパスカルを下回り、夕刻、ほとんど衰えないまま紀伊半島に上陸。停電で情報が途絶える中、南からの暴風に乗って5mもの高潮が襲う。港の貯木場から流れ出た巨木が家々をつぶし、死者・不明者は名古屋市の低地を中心に5098人となった。この台風は4日後に伊勢湾台風と名づけられる。

調べてみると、阪神大震災まで、これが戦後最悪の天変地異だという。濁流にのまれ、闇に引き裂かれた家族は数知れず、多くの悲話が残る。翌年に出た『伊勢湾台風物語』(寺沢鎮著)には、ある家で5歳ほどの男の子の亡きがらが見つかった。傍らに水筒とリュック、財布には1枚の5000札が入っていた。親は「この子だけは」と手を尽くし、水にさらわれたらしい。初任給が10000円前後の頃である。こうして、中京地区の物づくりを支えるはずだった幾多の命が失われた、という話などが綴られている。一説によると、気象台は台風の進路を読み切り、早めに警報を出しており、行政が避難を徹底させれば死者は250人に抑えられた、との分析もあるらしい。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
「わが身は己で守るだけ」と、以後、電池式の携帯ラジオが普及したという。この「自助」が命を救うという防災の教訓は、半世紀を経ても色あせていない。
最近、専門家たちの間で危惧されているのが、伊勢湾台風なみの、いやそれ以上の台風の発生である。地球温暖化の影響で、伊勢湾台風以上の勢力をもつ台風を産み出すという。「超伊勢湾台風」と名づけ警戒している。
今、台風18号が日本に接近している。大きな影響が出なければいいが…と、天を仰いで思うこと。

「急いで走ってきたさかい、イキドシイのや」息苦しい。呼吸が早くて切ない。「息労し(いきいたはし)」から。平安時代は「いきだはし」で、それが「いきどほし」となった。平安時代の辞書『色葉字類抄(いろはるいしょう)』に「イキダハシ」とある。「息」を活用させイキルという動詞を作った。意気込む、気張る、調子に乗るなどの意で、「あんまりイキルと長続きせんで」という。息遣いを荒くすることから、調子に乗り騒ぐことをいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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四方山話(76)
台風に思うこと

1957(昭和32)年に5000円札が、翌年には10000円札が続いて出た。これにより、聖徳太子は高度成長の顔となったといえる。都市には労働者が密集し、家電が普及し始めたのもこの頃だろう。そんな時代を未曽有の災害が襲う。1959年(昭和34)年9月26日、この日は今年と同じ土曜日。名古屋の地方気象台は、怪物のような台風15号に忙殺されていた。接近時の中心気圧は900ヘクトパスカルを下回り、夕刻、ほとんど衰えないまま紀伊半島に上陸。停電で情報が途絶える中、南からの暴風に乗って5mもの高潮が襲う。港の貯木場から流れ出た巨木が家々をつぶし、死者・不明者は名古屋市の低地を中心に5098人となった。この台風は4日後に伊勢湾台風と名づけられる。

調べてみると、阪神大震災まで、これが戦後最悪の天変地異だという。濁流にのまれ、闇に引き裂かれた家族は数知れず、多くの悲話が残る。翌年に出た『伊勢湾台風物語』(寺沢鎮著)には、ある家で5歳ほどの男の子の亡きがらが見つかった。傍らに水筒とリュック、財布には1枚の5000札が入っていた。親は「この子だけは」と手を尽くし、水にさらわれたらしい。初任給が10000円前後の頃である。こうして、中京地区の物づくりを支えるはずだった幾多の命が失われた、という話などが綴られている。一説によると、気象台は台風の進路を読み切り、早めに警報を出しており、行政が避難を徹底させれば死者は250人に抑えられた、との分析もあるらしい。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
「わが身は己で守るだけ」と、以後、電池式の携帯ラジオが普及したという。この「自助」が命を救うという防災の教訓は、半世紀を経ても色あせていない。
最近、専門家たちの間で危惧されているのが、伊勢湾台風なみの、いやそれ以上の台風の発生である。地球温暖化の影響で、伊勢湾台風以上の勢力をもつ台風を産み出すという。「超伊勢湾台風」と名づけ警戒している。
今、台風18号が日本に接近している。大きな影響が出なければいいが…と、天を仰いで思うこと。


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天を仰いで思うこと けんずい 2009/10/05 12:00 am
けんずい
間食。呉音で読むと、ケンズイとなる。昔、朝夕二食のころ、今の昼食に当たる中間の食事をケンズイといった。三食の時代になって、昼食と夕食の間に食べる軽食をケンズイと呼ぶようになった。地域でケンズイの意味はさまざま。棟上げの日に出る酒や食物をいったり、新築の家に贈る米や酒をいうところもある。大工職人に出す昼食と夕食の間のケンズイもある。間水・間炊・硯水と書くのは当て字。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
天を仰いで思うこと

月のお話。月見(つきみ)とは、満月など月を眺めて楽しむことで、観月(かんげつ)ともいう。月見(お月見)とは、旧暦の8月15日と9月13日に月を鑑賞すること。前者の夜を「十五夜」、後者の夜を「十三夜」と呼び、十五夜の月は、サトイモなどを供えることが多いため「芋名月」とも呼ばれる。一方、十三夜の月は、栗や豆を供えることが多いため「栗名月」又は「豆名月」とも呼ばれる。どちらか一方の月見だけをすることは、「片見月」として嫌われたというから驚きである。十五夜の月を鑑賞する習慣は中国から伝わったというが、十三夜の月見は日本独特の風習であり、平安時代に貴族たちが集まって、月を見て詩歌を詠んだのが始まりといわれる。十五夜の月は「中秋の名月(ちゅうしゅうのめいげつ)」とも呼ばれる。繰り返しになるが、十五夜は、中国が始まりとされる。中国では中秋節として盛大に祝い月餅を作ってお供えする。この月餅が日本に伝わって、月見団子に変ったとか。十三夜は、日本独自の風習があり、ちょうど食べ頃の大豆や栗などを供えることから、この夜の月を豆名月または栗名月という。江戸時代の遊里では、十五夜と十三夜の両方を祝い、どちらか片方の月見しかしない客は「片月見」または「片見月」と言って遊女らに嫌われた。二度目の通いを確実に行うために、十五夜に有力な客を誘う(相手はどうしても十三夜にも来なければならないため)風習があった、ということだ。

さて、その月だが、国によっても扱いが違う。中国・日本では、月を愛でるという習慣が古くからあり、日本では縄文時代ごろからあるといわれ、平安時代ごろから中国から月見の祭事が伝わると貴族などの間で観月の宴や舟遊び(直接月を見るのではなく船などにのったりして水面に揺れる月を楽しむ)など歌を詠み、宴を催した。また、平安貴族らは月を直接見ることをせず、杯や池にそれを映して楽しんだという。しかし、ヨーロッパでは満月は人の心をかき乱し、狂わせるものであるといわれ、月の女神が死を暗示したり、狼男が月を見て変身するというのは、その典型的な例。とても月を眺めて楽しむという気分にはなれなかったようだ。日本では『竹取物語』に、月を眺めるかぐや姫を嫗が注意する場面があるため、中国から観月の風習が入るまでは月に対する考えがヨーロッパと似ていたのではないかといわれている。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
中秋の夜に雲などで月が隠れて見えないことを「無月」、中秋の晩に雨が降ることを「雨月」と呼び、月が見えないながらもなんとなくほの明るい風情を賞するものとされる。また、俳諧では葉月十四日、十六日のことを特に「待宵(まつよい)」「十六夜(いざよい)」と称して、名月の前後の月を愛でるが、日本の関東以西では、この時期、晴天に恵まれる確率は低いというから、見ることができないかも知れない。その他に、月を愛でる証として、十五夜以後、月の出はしだいに遅くなり、十六夜(いざよい)の月は山の端にいざよい、十七夜(立待月)は立ち待つほどに出、十八夜(居待月(いまちづき))は座し居て待ち、十九夜(臥待月(ふしまちづき))は臥して待ち、二十日(更待月(ふけすまちづき))には夜半近くと遅くなる、という呼称があるところからも伺える。いずれにしても、月は太陽と同じように地球にとっては大切な存在。住んでいる地域や国が違っても、みんな「おなじ月をみている」のは確かだ…と、天を仰いで思うこと。
おなじ月をみている
ステキな企画(←クリック)に参画。10月2日から出張。出張先の天気が良くないとの情報だったのでカメラは持って行かなかった。ところが、晴れ。あいにく携帯電話のデタルカメラモードでしか撮れなかった。

(10月2日の月。飛行機の中から)

(10月3日の月。出張先にて)
こういうことがあるから、やはりカメラはいつも持っていかないとダメね。大いに反省。そうそう、企画された方の「おなじ月をみている」はここ(←クリック)。

間食。呉音で読むと、ケンズイとなる。昔、朝夕二食のころ、今の昼食に当たる中間の食事をケンズイといった。三食の時代になって、昼食と夕食の間に食べる軽食をケンズイと呼ぶようになった。地域でケンズイの意味はさまざま。棟上げの日に出る酒や食物をいったり、新築の家に贈る米や酒をいうところもある。大工職人に出す昼食と夕食の間のケンズイもある。間水・間炊・硯水と書くのは当て字。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
天を仰いで思うこと

月のお話。月見(つきみ)とは、満月など月を眺めて楽しむことで、観月(かんげつ)ともいう。月見(お月見)とは、旧暦の8月15日と9月13日に月を鑑賞すること。前者の夜を「十五夜」、後者の夜を「十三夜」と呼び、十五夜の月は、サトイモなどを供えることが多いため「芋名月」とも呼ばれる。一方、十三夜の月は、栗や豆を供えることが多いため「栗名月」又は「豆名月」とも呼ばれる。どちらか一方の月見だけをすることは、「片見月」として嫌われたというから驚きである。十五夜の月を鑑賞する習慣は中国から伝わったというが、十三夜の月見は日本独特の風習であり、平安時代に貴族たちが集まって、月を見て詩歌を詠んだのが始まりといわれる。十五夜の月は「中秋の名月(ちゅうしゅうのめいげつ)」とも呼ばれる。繰り返しになるが、十五夜は、中国が始まりとされる。中国では中秋節として盛大に祝い月餅を作ってお供えする。この月餅が日本に伝わって、月見団子に変ったとか。十三夜は、日本独自の風習があり、ちょうど食べ頃の大豆や栗などを供えることから、この夜の月を豆名月または栗名月という。江戸時代の遊里では、十五夜と十三夜の両方を祝い、どちらか片方の月見しかしない客は「片月見」または「片見月」と言って遊女らに嫌われた。二度目の通いを確実に行うために、十五夜に有力な客を誘う(相手はどうしても十三夜にも来なければならないため)風習があった、ということだ。

さて、その月だが、国によっても扱いが違う。中国・日本では、月を愛でるという習慣が古くからあり、日本では縄文時代ごろからあるといわれ、平安時代ごろから中国から月見の祭事が伝わると貴族などの間で観月の宴や舟遊び(直接月を見るのではなく船などにのったりして水面に揺れる月を楽しむ)など歌を詠み、宴を催した。また、平安貴族らは月を直接見ることをせず、杯や池にそれを映して楽しんだという。しかし、ヨーロッパでは満月は人の心をかき乱し、狂わせるものであるといわれ、月の女神が死を暗示したり、狼男が月を見て変身するというのは、その典型的な例。とても月を眺めて楽しむという気分にはなれなかったようだ。日本では『竹取物語』に、月を眺めるかぐや姫を嫗が注意する場面があるため、中国から観月の風習が入るまでは月に対する考えがヨーロッパと似ていたのではないかといわれている。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
中秋の夜に雲などで月が隠れて見えないことを「無月」、中秋の晩に雨が降ることを「雨月」と呼び、月が見えないながらもなんとなくほの明るい風情を賞するものとされる。また、俳諧では葉月十四日、十六日のことを特に「待宵(まつよい)」「十六夜(いざよい)」と称して、名月の前後の月を愛でるが、日本の関東以西では、この時期、晴天に恵まれる確率は低いというから、見ることができないかも知れない。その他に、月を愛でる証として、十五夜以後、月の出はしだいに遅くなり、十六夜(いざよい)の月は山の端にいざよい、十七夜(立待月)は立ち待つほどに出、十八夜(居待月(いまちづき))は座し居て待ち、十九夜(臥待月(ふしまちづき))は臥して待ち、二十日(更待月(ふけすまちづき))には夜半近くと遅くなる、という呼称があるところからも伺える。いずれにしても、月は太陽と同じように地球にとっては大切な存在。住んでいる地域や国が違っても、みんな「おなじ月をみている」のは確かだ…と、天を仰いで思うこと。
おなじ月をみている
ステキな企画(←クリック)に参画。10月2日から出張。出張先の天気が良くないとの情報だったのでカメラは持って行かなかった。ところが、晴れ。あいにく携帯電話のデタルカメラモードでしか撮れなかった。

(10月2日の月。飛行機の中から)

(10月3日の月。出張先にて)
こういうことがあるから、やはりカメラはいつも持っていかないとダメね。大いに反省。そうそう、企画された方の「おなじ月をみている」はここ(←クリック)。

