ID : Pass :  | register
フォトヴィレッジ
(rrbのブログ)
上手い下手は関係なし
感じたままの気ままな
写真と言葉を掲載
*画像は全てリサイズ済*
 
------------------------------
《写真カテゴリ》
*
京都の町の
そぞろ歩きは
今京都
* *
スズメさんで
天を仰いで思うこと
* * *
四方山話は
おやかまっさん
* * * *
京都以外の町で
足の赴くままは
◆◆なう
------------------------------
色々とチャレンジする
rrbのブログ
フォトヴィレッジ




Photographer affectation
Delivered from Kyoto
Since 2006/4/25
Since 2007/12/9
(Renewal Start)
Copyright (C) 2006
www.rrbphotovillage.jp
All Rights Reserved
カレンダー
« « 2025 7月 » »
29 30 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 1 2
ご案内
今京都記事一覧
京ことば記事一覧
京が語源記事一覧
天を仰いで記事一覧
・スズメの写真
------------------------------
アクセスカウンタは
不具合のため
運用停止中
2017/9/27
過去ログ
     

rrbのブログ - 今京都のエントリ

ヘッダーナビゲーション

現在のカテゴリー位置

サイト全体のカテゴリーナビゲーション

今京都 リアルな日常 2016/01/14 12:00 am

「リアルな日常を切りとる」という言葉をある雑誌で目にした。その瞬間、リアルな京都の日常を伝えたいのが「今京都」だと再認識した。
では、「リアルな日常」とはどんな光景だろう? スズメさんの写真はリアルな日常ではないのか? 観光地の写真はリアルな日常ではないのか? 色々と考えたけれど、写真に写っているものすべてがリアルな日常だと思う。待ち構えて撮っているスズメさんの餌やりシーンも、観光地に観光客が訪れているシーンも、リアルな日常だ。一般的に目にしているかどうか、イヤイヤ、目を向けているかどうかの違いではないだろうか。
「リアル」を「ありのまま」と解釈するならば、一眼レフカメラは不向きかもしれない。人に一眼レフカメラを向けるとどうも意識されてしまう。コンパクトデジカメやレンジファインダーカメラは意識されにくい。人がいるリアルな日常を切りとるには、これらのカメラがよいかも…だ。
今日の写真も年末に撮ったリアルな日常の1枚だ…という今京都。

「リアルな日常を切りとる」っていい言葉だね

このエントリーの情報

今京都 年の瀬の祇園で 2016/01/13 12:00 am

随分以前に掲載した犬矢来(いぬやらい)は、町家の外観を飾る重要なアクセント。犬のおしっこを警戒するためのものではないだろうが、家のすそを保護する役目を担っているのは確かだ。料亭の犬矢来を毎朝掃除しているのは知っていたが、このような手入れの場面に出くわしたのは初めて。作業しているおじさんに聞くと、新年を迎える準備のひとつで、毎年、この時期にしているとのことだ。メンテナンスは必要だろうとは想定していたが、まさか毎年とは…。こういう風景も伝えていきたい…という今京都。

景観を維持するのも大変な苦労があるということだね

このエントリーの情報

今京都 大晦日 2015/12/31 12:00 am

『徒然草』第220段に「鐘の音は黄鐘調(おうじきちょう)なるべし、これ、無常の調子」と出てくる鐘が右京区花園の妙心寺にある。698年の作で、銘ある梵鐘の中では最古だという。その響き(調子)は兼好法師も書いている通り「黄鐘調の鐘」と呼ばれて、余韻が長く心に響く無常の調べとして古来より名高い。世にいう「天下の三鐘」とは、調べのよい妙心寺の鐘、装飾模様の美しい平等院の鐘、そして銘で知られる神護寺の「三絶(さんぜつ)の鐘」のこと。

神護寺のその銘は、学者・橘広相(たちばなのひろみ)が序を考え、菅原道真の父・是善(これよし)が銘を選び、歌人であり書家と知られる藤原敏行(ふじわらのとしゆき)が序と銘を書いた。3人の優れた技芸が揃ったとして「三絶の鐘」と讃えられるのだそうである。

お寺ではこれらの鐘を、昔は1日に6回、晨朝(じんちょう・午前6時頃)、日中、日没、初夜、中夜、後夜に撞いて、都の人々に時を告げていた。京都はお寺の分、梵鐘(釣鐘)も多い。それらがいっせいに鳴ったらどうなるのだろう。「音の洪水となるのか…」と思いきや、その音は御所を中心に京の都全体で音の設計がなされているという。つまり、サウンドスケープという発想だ。「平安の昔から、そんな壮大な音楽宇宙を都に演出した人がいるのだろうか」、また、「どういうことなんだ…」と気になる。

京都市内に伝わる古い鐘の音の振動数を測定した結果というものがある。その結果によると、鐘の多くは唐古律(とうこりつ)という中国唐代の音の調べに合わせて調律されているという。そして、それらは御所を中心にして、寺院のある方角と鐘の調べに関連性があった。鐘の調べは北の大徳寺は「盤渉調(ばんしきちょう)」、東山の高台寺・清水寺は「上無調(かみむちょう)」、知恩院は「下無調(したむちょう)」、南の西本願寺は「壱越調甲(いちこつちょうこう)、そして西の神護寺の「三絶の鐘」は「平調(ひょうじょう)」という結果が得られた。

さらに、これらの音は平安時代後期の音楽理論のもとで陰陽五行説と結びついている。すなわち、北に玄武(げんぶ)、東に青龍(せいりゅう)、南に朱雀(すざく)、西に白虎(びゃっこ)、という獣神を想定し、それによって平安の都は守護されている。と同時に、東西南北にはそれぞれの調べがあって、これらの寺院の鐘があてはまるとのことである。調査した鐘は京都市内の15点で、あてはまらないものもあるということだが、半分の7点は関連性をもつという。陰陽五行説に基づいて、御所を中心に方位に見合った鐘の調べが都大路に鳴り渡っているということになる。

平安京の造営では方位が重んじられたことがわかっているが、そこには方位に見合った音という発想まで含まれていた。そして、その調べに合わせて設計された京のお寺の鐘がいっせいに鳴り響けば、京の都全体が音舞台に変身する。静寂に包まれた平安の都の諸行無常のコンサートといえる。それはまさに、お寺の鐘が美しい雅楽を奏でる平安の都はサウンド設計された音舞台ということだ。

今日は大晦日。いっせいに鳴り響く各寺院の梵鐘に耳を傾けてみよう。この記事は再掲であるが、大晦日の定番としたい。今年1年大変お世話になりました。来年もよろしくお願いします…という今京都。

京都の鐘にはそんな秘密があったのね〜。あっ、来年もよろしくね。

このエントリーの情報

今京都 会話 2015/12/10 12:00 am

こらっ、スズメくん! 出てこい!

んっ!? な〜に?

「な〜に?」ではない。昨日の〆のコメントはどういうつもり?

えっ、何か言ったっけ?

とぼけんじゃな〜い、ご利益にかかわらずやったほうがよい、だって〜

おまけに、隠れコメントで「恋ぐらいしろ」だって〜

イヤ…あの…その…そろそろ色っぽい話があってもよい頃かと…

うっせぇ〜、ほっとけ〜〜〜

た、たしかに…、でも、合コンとかは?

なに〜!? 合コンだぁ!? てめぇ〜喧嘩売ってんのかぁ

イヤ、喧嘩は売ってないよ。気に障ったなら、謝るよ〜、すみません!

「いいよぉ〜」って、吉本新喜劇のノリはせんよ!

今度、吉本新喜劇をおごるから…ね

ホンマ? じゃ、許してあげる。やっと目が覚めてきた。スズメさん、ありがとう

な、なに? 眠気覚ましに僕をいたぶった?

そう、眠気覚ましにはスズメさんをいたぶるのが一番や〜

あちゃ〜、日ごろは想定外に優しいのに…おかしいと思った…

こうして職場の人や僕は、何かにつけていたぶられるのであった…







rrbは本当は優しいんだよ、僕は知っている

このエントリーの情報

今京都 首振地蔵−借金苦の幇間供養− 2015/12/09 12:00 am

記念写真を撮る観光客が後を絶たない清水寺正面の仁王門前。楽しそうにポーズをとる光景を、一体のお地蔵さんが、ほほ笑ましい表情で眺めている。
仁王門下の石段の北側にある同寺「善光寺堂」の敷地内に、「首振(くびふり)地蔵」と呼ばれる地蔵が立つ。御影石でできており、高さは50cm。普通の地蔵なら動かないはずの首が左右に360度回る。駒札には「願い事のある方向に首をまわして拝めば願いがかなえられるといわれ、江戸時代以来、衆庶の深甚な信仰を伝統している」とある。
同寺に伝わる話では、江戸中期、祇園の芸妓たちが、親身になって客のだんな方を世話してくれた鳥羽八という名前の幇(ほう)間(たいこ持ち)をしのんで奉納したとされる。首が回るのは、散財し過ぎて借金で首が回らなくなって亡くなったのを気の毒に思い、供養の思いを込めたとも言われる。

今の首振地蔵は「二代目」。江戸中期につくられたとされる「初代」は、二代目の背後の格子戸の中にある。20年ほど前、初代は観光ガイドやタクシー運転手の間で隠れた名所として存在が広まった。連日多くの観光客が首を回したため、首を支えている軸の部分がすり減り、頭が落ちることもあった。厨子(ずし)の内部に納めても扉を開けて回す人が後を絶たず、扉を閉ざして回すのを禁止した。ところが不評を買ったため、同寺は地蔵を新調することにした。

ただ、新調は思うように進まなかった。石屋さんが『首の切れた地蔵さんなど作れない』と作るのを嫌がったのである。説得に一年以上かかり、ようやく納得して作ってくれたとのことだ。なんでも渋る職人さんに「これは地蔵さんではないから」と説得したそうだ。

太鼓持ちの姿を模しているため、ずきんを取ると頭にちょんまげがあり、よだれかけに隠れた手には扇子を持っている。羽織のような着物も着ている。今も多くの観光客が首を回し、手を合わせる。同寺が各地で開催する「出張開帳」でも、本尊に並ぶ人気を集める。ただ拝むだけでなく、触れることで一体感を持てるからかもしれない。

善光寺堂は、鎌倉時代末期に作られた如意輪観音像などが安置されている。善光寺堂の前にある小さな厨子に、首振地蔵は置かれている。厨子は1990年に全京都建築高等職業訓練校の生徒らが建てた。恋を成就させようと、思いを寄せる人の住む方角へ地蔵の頭を向ける人が多いというが、さてご利益のほどはどうなんだろうね、羅漢さん…という今京都。





ご利益があるならやってみる? イヤ、ご利益がなくてもやったほうがいいのでは?

このエントリーの情報

ページナビゲーション

« 1 ... 126 127 128 (129) 130 131 132 ... 294 »

 
     
お願い
画像等の著作権は、所有者または撮影者に帰属しています
画像等の無断転用は、固くお断りします
------------------------------
← に掲載以外の写真等は
もっと今京都
↓ ↓ ↓

------------------------------
《LINK》


XP canon


photocon

------------------------------
《ポチッとお願い》

にほんブログ村 写真ブログ 京都風景写真へ

にほんブログ村 写真ブログ 野鳥写真へ

にほんブログ村 写真ブログへ



PV Access Ranking
にほんブログ村

------------------------------
copyright Tsuwano
Screen Project

スズメ(rrbphoto)
ランダムスクロール
(表示30枚/全枚)
こんな1枚

シジュウカラ


ヒヨドリ


絵馬に願いを


手水舎


千本鳥居


幸せを感じるとき


哲学の道


影絵

pagetop