rrbのブログ - 今京都のエントリ
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今京都 寺町通 2021/12/20 12:00 am
寺町通は京都市の南北の通りの一つ。北は紫明通から南は五条通までの全長約4.6kmである。誕生したのは1590(天正18)年であり、寺町通の名もこの時につけられている。
しかし、遡ると、平安京の成立期には出現していた。東京極大路という幅員32mの堂々たる道であった。
東京極大路は「ひがし きょうごく おおじ」と読む。決して「とうきょう きょくだい じ」と読まないように願いたい。平安京では最も東にある道であった。
平安京では高級住宅街だったが、応仁・文明の大乱で荒廃。豊臣秀吉によって寺院街として再興され、今でも80余の寺院を数える。寺を集めた目的は、税の徴収の効率化と京都の防衛である。東の御土居に沿うように寺を配置することで、東から進入する軍勢の戦意の低下をねらったとされる。
この日は最北端の紫明通から南に下がっていった。通りの散策と御朱印巡りが目的である。丸太町通以北は御朱印を授ける寺院が少ないということを発見した。「御朱印拝辞」と掲示されていたり、「やってないです」と断られたりが多いのが丸太町通以北。逆に以南は殆どが授かることができる。寺院数は以北の方が多いが、御朱印数は以南が勝るという結果である。
通りの散策と、その通り沿いにある寺社仏閣の御朱印を集めるという一石二鳥の楽しみ方を発見し、ちょっとしたマイブームになっている…という今京都。





しかし、遡ると、平安京の成立期には出現していた。東京極大路という幅員32mの堂々たる道であった。
東京極大路は「ひがし きょうごく おおじ」と読む。決して「とうきょう きょくだい じ」と読まないように願いたい。平安京では最も東にある道であった。
平安京では高級住宅街だったが、応仁・文明の大乱で荒廃。豊臣秀吉によって寺院街として再興され、今でも80余の寺院を数える。寺を集めた目的は、税の徴収の効率化と京都の防衛である。東の御土居に沿うように寺を配置することで、東から進入する軍勢の戦意の低下をねらったとされる。
この日は最北端の紫明通から南に下がっていった。通りの散策と御朱印巡りが目的である。丸太町通以北は御朱印を授ける寺院が少ないということを発見した。「御朱印拝辞」と掲示されていたり、「やってないです」と断られたりが多いのが丸太町通以北。逆に以南は殆どが授かることができる。寺院数は以北の方が多いが、御朱印数は以南が勝るという結果である。
通りの散策と、その通り沿いにある寺社仏閣の御朱印を集めるという一石二鳥の楽しみ方を発見し、ちょっとしたマイブームになっている…という今京都。





なるほど通りの散策と御朱印は良い組み合わせだね
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今京都 三明院 2021/12/17 12:00 am
三明院(さんみょういん)の存在そのものを知らなかった。知ったのは御朱印のおかげだ。三宅八幡宮の3つめの鳥居の手前を右手に歩いて行くとたどり着く。まず、目につくのは塔(多宝塔)だ。ちょっとした羅漢像も楽しませてくれる。決して広くはないが、満足の行くお寺さん。御朱印には紅葉を貼り付けてくれた。
調べてみると、境内には樹齢約100年といわれる数本のカエデなどが植えられていて、穴場の紅葉スポットらしい。来年の紅葉の季節には…という今京都。






調べてみると、境内には樹齢約100年といわれる数本のカエデなどが植えられていて、穴場の紅葉スポットらしい。来年の紅葉の季節には…という今京都。






rrbの行動は、写真と御朱印の恩恵をいっぱい受けているね
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今京都 三宅八幡宮 2021/12/16 12:00 am
ここも応仁の乱の影響を受けている。詳しくは以前に掲載しているので興味のある方は 今京都記事一覧 からどうぞ。
訪れたこの日は、高木の伐採作業の最中だったので、本殿には横の入り口から迂回して行くことになった。何年も前に訪れているので、殆ど記憶になかったのが情けない。以前にはあった水車は朽ちて無くなっていたり、年月を感じる。その対比はまた改めて掲載したい…という今京都。



訪れたこの日は、高木の伐採作業の最中だったので、本殿には横の入り口から迂回して行くことになった。何年も前に訪れているので、殆ど記憶になかったのが情けない。以前にはあった水車は朽ちて無くなっていたり、年月を感じる。その対比はまた改めて掲載したい…という今京都。



以前はブログ記事、今回は御朱印。目的がなければ訪れない人だね、rrbは。
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今京都 蓮華寺 2021/12/15 12:00 am
蓮華寺は鴨川源流のひとつである高野川のほとり国道367号に面してある。国道367号は鯖街道の名で知られている。蓮華寺から八瀬方面に、ほんの少し足を伸ばせば崇道神社がある。
蓮華寺は、もとは七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院という時宗寺院。応仁の乱に際して焼失したものを江戸時代初期の1662(寛文2)年に、加賀前田藩の家臣、今枝近義が再建したものとされている。
応仁の乱は、多くの大切なものを焼失させている。平安京の外には、「京都の百塔参り」ができるくらいの塔があったという。藤原忠親の日記『山槐記』には、三日間で128基の塔を巡ったという記述があると聞く。それらの殆どが応仁の乱で焼け落ちている。中京区の京都市平安京創生館に展示されている「平安京復元模型(1/1000)」には平安京の外に多くの塔があり、「百塔参り」が容易に想像できる。この百塔参りは塔に番号が付いているわけではなく、単に100参るという数に重点があるということだ。
応仁の乱は多くを焼失させるが、この地に再建されて良かったのかも…と思う。決して大きくはないが、趣のあるお寺さんの一つになっている…という今京都。





蓮華寺は、もとは七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院という時宗寺院。応仁の乱に際して焼失したものを江戸時代初期の1662(寛文2)年に、加賀前田藩の家臣、今枝近義が再建したものとされている。
応仁の乱は、多くの大切なものを焼失させている。平安京の外には、「京都の百塔参り」ができるくらいの塔があったという。藤原忠親の日記『山槐記』には、三日間で128基の塔を巡ったという記述があると聞く。それらの殆どが応仁の乱で焼け落ちている。中京区の京都市平安京創生館に展示されている「平安京復元模型(1/1000)」には平安京の外に多くの塔があり、「百塔参り」が容易に想像できる。この百塔参りは塔に番号が付いているわけではなく、単に100参るという数に重点があるということだ。
応仁の乱は多くを焼失させるが、この地に再建されて良かったのかも…と思う。決して大きくはないが、趣のあるお寺さんの一つになっている…という今京都。





百塔参り、今の時代なら全て写真に撮る…なんてこともできたのにね
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今京都 崇道神社 2021/12/14 12:00 am
ここの神社は3年ほど前に訪れている。崇道神社が正しいようだが、神社入り口には「崇導神社」の石碑。この神社の説明は以前の掲載に任せるので興味のある方は 今京都記事一覧 からどうぞ。
この日訪れたのは「御朱印」目当てだが、月に一度のボランティア掃除の日だった。せっかくなので少しの時間だけ手伝わせてもらった。京都では寺社仏閣を維持するため、ボランティア活動が活躍している。
特に紅葉で有名な神社ではないが、それだけにポツンとある紅葉は目を引く…という今京都。
★以前の掲載は ここ と ここ と ここ 。



この日訪れたのは「御朱印」目当てだが、月に一度のボランティア掃除の日だった。せっかくなので少しの時間だけ手伝わせてもらった。京都では寺社仏閣を維持するため、ボランティア活動が活躍している。
特に紅葉で有名な神社ではないが、それだけにポツンとある紅葉は目を引く…という今京都。
★以前の掲載は ここ と ここ と ここ 。



掃除を手伝ったのは、良いことしたね