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天を仰いで思うこと 麒麟児 2009/02/09 12:00 am
きりんじ…才能があり、優れている少年。将来を期待されている若者。
◇ちょっと予備知識 → 「麒麟」は中国の想像上の動物。優れた人物のたとえ。
類義語に神童(しんどう)・鳳雛(ほうすう)がある。
話のネタ雑学(2)
空が青いのはなぜ? (旧フォトヴィレッジ 2006年11月7日掲載)

宇宙から見た地球は、まさに「水の惑星」という名にふさわしい美しい青色。暗い宇宙にあって、そこだけが生命の息づく場所という気さえする。地球が青く見えるのは、地球を取り巻く大気の粒子が太陽の光を反射するためで、空が青く見えるのも同じ理由による。太陽の光は白色光で、プリズムで見ると虹の色でおなじみのように赤、橙、黄、緑、青、青紫、紫の七色に分かれる。波長の長い、赤、橙、黄色などの光は大気を通るうちに吸収されてしまうことが多く、波長の短い青や緑色の光は大気中の粒子にぶつかって散乱するため、人間の目に届くことが多いというわけ。だから空は青く見える。

さて、色の話が出たついでに、もうひとつお話。虹は何色? 日本では、虹は7色というのが当たり前。しかし世界では虹の認識は様々。色相関図などから分かるように、本来、色というのは連続的なもの。それをそれぞれの文化がここが青、ここまでが赤とか独自に決めているだけ。それぞれの国で何が重要だったかによって色の認識も違う。したがって、虹は2色だという国があってもおかしくない。実際に2色、3色、5色、6色という国が存在している。

(ちょっと神様になった気分)
(神戸 生田神社) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
また、日本には青信号・青竹・青虫など、緑色のものに青という名前がついているものが多くある。これは日本の文化にはもともと緑という色が無かったからで、このように文化の違いが色々な見解の境界をつくっている。文化の違いによる境界のお話はいずれまた…と、天を仰いで思うこと。 ※写真は本文とは関係ないのであしからず。
★前回はここ(←クリック)

◇ちょっと予備知識 → 「麒麟」は中国の想像上の動物。優れた人物のたとえ。
類義語に神童(しんどう)・鳳雛(ほうすう)がある。
話のネタ雑学(2)
空が青いのはなぜ? (旧フォトヴィレッジ 2006年11月7日掲載)

宇宙から見た地球は、まさに「水の惑星」という名にふさわしい美しい青色。暗い宇宙にあって、そこだけが生命の息づく場所という気さえする。地球が青く見えるのは、地球を取り巻く大気の粒子が太陽の光を反射するためで、空が青く見えるのも同じ理由による。太陽の光は白色光で、プリズムで見ると虹の色でおなじみのように赤、橙、黄、緑、青、青紫、紫の七色に分かれる。波長の長い、赤、橙、黄色などの光は大気を通るうちに吸収されてしまうことが多く、波長の短い青や緑色の光は大気中の粒子にぶつかって散乱するため、人間の目に届くことが多いというわけ。だから空は青く見える。

さて、色の話が出たついでに、もうひとつお話。虹は何色? 日本では、虹は7色というのが当たり前。しかし世界では虹の認識は様々。色相関図などから分かるように、本来、色というのは連続的なもの。それをそれぞれの文化がここが青、ここまでが赤とか独自に決めているだけ。それぞれの国で何が重要だったかによって色の認識も違う。したがって、虹は2色だという国があってもおかしくない。実際に2色、3色、5色、6色という国が存在している。

(ちょっと神様になった気分)
(神戸 生田神社) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
また、日本には青信号・青竹・青虫など、緑色のものに青という名前がついているものが多くある。これは日本の文化にはもともと緑という色が無かったからで、このように文化の違いが色々な見解の境界をつくっている。文化の違いによる境界のお話はいずれまた…と、天を仰いで思うこと。 ※写真は本文とは関係ないのであしからず。
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今京都 綺羅星 2009/02/08 12:00 am
きらぼし…夜空にきらきらと輝く無数の星。
◇ちょっと予備知識 → 「綺羅、星の如く」から、美人や有名人などが顔を並べているさま。
羅漢


この2枚は同じ羅漢さんだけれど、少し撮る角度を変えると印象が違って見える。こういうところも写真の楽しさだといえるが、同時に難しさでもあるといえる。撮る前に時間をかけて、被写体を様々な角度から見て決めたい…今京都。
地蔵物語(243)

京都にはたくさんのお地蔵さんがある。本当に多いと思う…今京都。

◇ちょっと予備知識 → 「綺羅、星の如く」から、美人や有名人などが顔を並べているさま。
羅漢


この2枚は同じ羅漢さんだけれど、少し撮る角度を変えると印象が違って見える。こういうところも写真の楽しさだといえるが、同時に難しさでもあるといえる。撮る前に時間をかけて、被写体を様々な角度から見て決めたい…今京都。
地蔵物語(243)

京都にはたくさんのお地蔵さんがある。本当に多いと思う…今京都。


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今京都 几帳面 2009/02/07 12:00 am
きちょうめん…性格や行動がまじめできちんとしていること。
◇ちょっと予備知識 → 「几帳」は台に柱を立てて幕を下ろし、室内の間仕切りに使った道具のこと。
類義語に正確無比(せいかくむひ)がある。
対義語は大雑把(おおざっぱ)。
関連記事はここ(←クリック)
水に流す (旧フォトヴィレッジ 2007年7月6日掲載)
「このことは、もう水に流してよ」とか、「過去は水に流して…」と、使用される「水に流す」という言葉は京都から生まれた。なんでも、平安時代、京の都で疫病が流行したとき、人々は死の恐怖を前にして水を浴びたり、何度も何度も水をかぶったりして疫病から我が身を守った。「水に流す」という言葉はそこから生まれたのだという。

話がちょっと反れるけど、下鴨・上賀茂の両神社が舞台となる「賀茂祭」こと「葵祭」は疫病が蔓延したことに端を発する。祭りの始まりは544年ともいわれ、京に都がやってくるはるか以前のこと。その昔、春も流行病の季節なら夏も恐怖。冷蔵庫も下水処理も衛生知識もない時代。ものが腐敗しウィルスがはびこる夏が巡りくるたびに疫病が広がり、人々がバタバタと死んでいった。「葵祭」とならぶ「祇園祭」もまた、暑い夏の疫病退散を願う御霊会(ごりょうえ)である。外から進入してくる邪悪な何物かを防がなければならない。神の祟りにふれたくない、病に倒れたくないと必死だった人々の切実な思いが、恐ろしい病を振り払いたい一心となり、水を浴び身を清める。それによって疫病を「水に流す」ことができると考えたのだろうと推測されている。

下鴨神社では毎年、夏の土用の丑の日に「御手洗祭(みたらしまつり)」が行なわれている。夏の土用は7月の下旬、京都では梅雨明け後の太陽が何日も照りつける猛暑のさなか。境内を流れる御手洗川の源である御手洗池にひざまで足を浸して身を清め無病息災を願う。「足つけ神事」ともいわれるこの行事、夏の流行り病を「水に流す」行為そのものとして、現在も伝わっている。日本人は古来より「みそぎ」という習慣がある。祀りごとを行なう前に、海や川の水で身を清める。これが「みそぎ」の儀式で、その語源は「身そそぎ」にあるとも「水そそぎ」にあるともいわれている。

さて、その「水に流す」という言葉であるが、「都合の悪いことはなんでも水に流す」とか、「過去を水に流す」とか最近はあまりいい意味で使用されなくなった。「水に流す」という言葉は、本来は、豊かな水と美しい自然に培われた日本人独特の自然観や清浄感に基づいていた。平安の昔、疫病を「水に流す」ことにより身を守られ、いつしかそれを人と人とをつなぐ知恵として、また自然に寄り添って生きる美学として身につけてきたのではないか、と想像する。この想像が正しいとすると、「水に流す」が「ただリセットボタンを押す」という意味に成り下がっている現在、正しい意味で使用されていないと、少し悲しい気持ちになる。「今言葉」というか現在広く使用されている日常の言葉の中にも「本来の意味が忘れ去られ、都合のいいように使用されている」言葉がたくさんあるかも知れない。

余談であるが、「けがれを水に流す」御手洗池に湧き出る水のあぶくを人の形にかたどったのが「みたらし団子」のルーツ。その昔、御手洗祭の日に下鴨神社境内「糺の森」で売られたのが「みたらし団子」の発祥であるとされているという。意外なことに語源が京都にあった言葉のお話vol.2(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
★前回の京が語源「うまい」「さまになる」「にのまいをふむ」はここ(←クリック)

◇ちょっと予備知識 → 「几帳」は台に柱を立てて幕を下ろし、室内の間仕切りに使った道具のこと。
類義語に正確無比(せいかくむひ)がある。
対義語は大雑把(おおざっぱ)。
関連記事はここ(←クリック)
水に流す (旧フォトヴィレッジ 2007年7月6日掲載)
「このことは、もう水に流してよ」とか、「過去は水に流して…」と、使用される「水に流す」という言葉は京都から生まれた。なんでも、平安時代、京の都で疫病が流行したとき、人々は死の恐怖を前にして水を浴びたり、何度も何度も水をかぶったりして疫病から我が身を守った。「水に流す」という言葉はそこから生まれたのだという。

話がちょっと反れるけど、下鴨・上賀茂の両神社が舞台となる「賀茂祭」こと「葵祭」は疫病が蔓延したことに端を発する。祭りの始まりは544年ともいわれ、京に都がやってくるはるか以前のこと。その昔、春も流行病の季節なら夏も恐怖。冷蔵庫も下水処理も衛生知識もない時代。ものが腐敗しウィルスがはびこる夏が巡りくるたびに疫病が広がり、人々がバタバタと死んでいった。「葵祭」とならぶ「祇園祭」もまた、暑い夏の疫病退散を願う御霊会(ごりょうえ)である。外から進入してくる邪悪な何物かを防がなければならない。神の祟りにふれたくない、病に倒れたくないと必死だった人々の切実な思いが、恐ろしい病を振り払いたい一心となり、水を浴び身を清める。それによって疫病を「水に流す」ことができると考えたのだろうと推測されている。

下鴨神社では毎年、夏の土用の丑の日に「御手洗祭(みたらしまつり)」が行なわれている。夏の土用は7月の下旬、京都では梅雨明け後の太陽が何日も照りつける猛暑のさなか。境内を流れる御手洗川の源である御手洗池にひざまで足を浸して身を清め無病息災を願う。「足つけ神事」ともいわれるこの行事、夏の流行り病を「水に流す」行為そのものとして、現在も伝わっている。日本人は古来より「みそぎ」という習慣がある。祀りごとを行なう前に、海や川の水で身を清める。これが「みそぎ」の儀式で、その語源は「身そそぎ」にあるとも「水そそぎ」にあるともいわれている。

さて、その「水に流す」という言葉であるが、「都合の悪いことはなんでも水に流す」とか、「過去を水に流す」とか最近はあまりいい意味で使用されなくなった。「水に流す」という言葉は、本来は、豊かな水と美しい自然に培われた日本人独特の自然観や清浄感に基づいていた。平安の昔、疫病を「水に流す」ことにより身を守られ、いつしかそれを人と人とをつなぐ知恵として、また自然に寄り添って生きる美学として身につけてきたのではないか、と想像する。この想像が正しいとすると、「水に流す」が「ただリセットボタンを押す」という意味に成り下がっている現在、正しい意味で使用されていないと、少し悲しい気持ちになる。「今言葉」というか現在広く使用されている日常の言葉の中にも「本来の意味が忘れ去られ、都合のいいように使用されている」言葉がたくさんあるかも知れない。

余談であるが、「けがれを水に流す」御手洗池に湧き出る水のあぶくを人の形にかたどったのが「みたらし団子」のルーツ。その昔、御手洗祭の日に下鴨神社境内「糺の森」で売られたのが「みたらし団子」の発祥であるとされているという。意外なことに語源が京都にあった言葉のお話vol.2(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
★前回の京が語源「うまい」「さまになる」「にのまいをふむ」はここ(←クリック)


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天を仰いで思うこと 気丈夫 2009/02/06 12:00 am
きじょうぶ…頼れるほど心強いさま。心配事がなく安心していられること。
◇ちょっと予備知識 → 「気丈」は強くて健康なこと。堅固なこと。
類義語に気丈(きじょう)・心丈夫(こころじょうぶ)がある。
対義語は気弱(きよわ)・柔弱(じゅうじゃく)。
旧フォトヴィレッジで掲載した「話のネタ雑学」。途中から「エキサイト」での掲載としたが、昨日と同じ理由から、改訂・再掲を少しずつしていきたいと思う。
話のネタ雑学(1)
同じ30度でも風呂は冷たく、気温は暑く感じるのはなぜ? (旧フォトヴィレッジ 2006年11月7日掲載)

風呂の適温は40〜42度前後。冬に38度の風呂はぬる過ぎるし、夏の42度の風呂は熱過ぎるというように気温によって適温がかわる。同じ30度でも風呂は冷たく、気温は暑く感じるのはなぜか…。
これは皮膚表面の温度、つまり皮膚温度が関係している。水は熱を伝える率が多きいため、体温を次々に奪っていく。その結果、30度の水に入ると、皮膚温度も30度近くに下がってしまう。空気の場合は熱伝導が小さいので体温を奪う速度が遅く、皮膚温度は36度前後を保ち続ける。

暑いとか冷たいといった感覚は、外部温度でなく皮膚温度で決まるため、同じ30度でも、皮膚温度の高い空気中のほうが暑く感じられる。空気中でも風の吹き方で皮膚温度が変わる。

(神戸 生田神社) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
夏の暑さ対策としては、濡れタオルを当てて扇風機にあたっていればかなり涼しく感じられるからクーラーはいらないかも。また、北風・木枯らしが吹く冬は、皮膚温度を奪われないよう工夫すると暖かく過ごせるかも…と、天を仰いで思うこと。 ※写真は本文とは関係ないのであしからず。

◇ちょっと予備知識 → 「気丈」は強くて健康なこと。堅固なこと。
類義語に気丈(きじょう)・心丈夫(こころじょうぶ)がある。
対義語は気弱(きよわ)・柔弱(じゅうじゃく)。
旧フォトヴィレッジで掲載した「話のネタ雑学」。途中から「エキサイト」での掲載としたが、昨日と同じ理由から、改訂・再掲を少しずつしていきたいと思う。
話のネタ雑学(1)
同じ30度でも風呂は冷たく、気温は暑く感じるのはなぜ? (旧フォトヴィレッジ 2006年11月7日掲載)

風呂の適温は40〜42度前後。冬に38度の風呂はぬる過ぎるし、夏の42度の風呂は熱過ぎるというように気温によって適温がかわる。同じ30度でも風呂は冷たく、気温は暑く感じるのはなぜか…。
これは皮膚表面の温度、つまり皮膚温度が関係している。水は熱を伝える率が多きいため、体温を次々に奪っていく。その結果、30度の水に入ると、皮膚温度も30度近くに下がってしまう。空気の場合は熱伝導が小さいので体温を奪う速度が遅く、皮膚温度は36度前後を保ち続ける。

暑いとか冷たいといった感覚は、外部温度でなく皮膚温度で決まるため、同じ30度でも、皮膚温度の高い空気中のほうが暑く感じられる。空気中でも風の吹き方で皮膚温度が変わる。

(神戸 生田神社) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
夏の暑さ対策としては、濡れタオルを当てて扇風機にあたっていればかなり涼しく感じられるからクーラーはいらないかも。また、北風・木枯らしが吹く冬は、皮膚温度を奪われないよう工夫すると暖かく過ごせるかも…と、天を仰いで思うこと。 ※写真は本文とは関係ないのであしからず。


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今京都 生一本 2009/02/05 12:00 am
きいっぽん…純粋で混じり気がないこと。心がまっすぐで、一つのことに打ち込む性格。
◇ちょっと予備知識 → 「生」は混ぜ物がないということ。
類義語に一本気(いっぽんぎ)・生粋(きっすい)・無垢(むく)がある。
対義語は不純(ふじゅん)。
以前から気になっていたのだが、旧フォトヴィレッジの運用環境が安定していない。旧フォトヴィレッジで掲載した内容で、いくつかはとっておきたいものがある。「童謡物語」「京が語源」「京の街」なとで残しておきたい記事がある。その改訂・再掲を少しずつしていきたいと思う。
うまい、さまになる、にのまいをふむ (旧フォトヴィレッジ 2007年6月26日掲載)
「京が語源」で初めて取り上げたのが「うまい」「さまになる」「にのまいをふむ」だ。

(少し富士山ぽくなった比叡山) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
何でも舞楽の世界では「さまになる」は「左舞になる」、「うまい」は「右舞」がルーツだといわれているらしい。舞楽には、中国・インド・ベトナムの舞が唐の文化として伝わった唐楽(とうがく)の左舞(さまい)と、朝鮮・満州の舞が高麗経由で伝わった高麗楽(こまがく)の右舞(うまい)がある。
舞人にとっては、右舞より左舞のほうがより高度で難しいとされている。そこで、まず右舞が一人前になると「うまい」、さらに左舞が舞えるようになると、ようやく「さまになる」といわれるそうだ。

(大文字と比叡山) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
ちなみに舞楽に語源をたどれば「にのまいをふむ」という言葉もそうである。これは安南から伝わったインド楽のひとつ「安摩(あま)」という舞楽に由来する。まず二人の舞人が優雅に舞う一の舞が行なわれ、次にそれを真似ようとして真似られず、滑稽な足取り(舞い方)を踏んでしまうというユーモラスな舞が続く。ここから「二の舞を踏む」という言葉が生まれたということ。
平安京で盛んだった舞楽や雅楽、蹴鞠などに現在使用されている言葉の語源がたくさんあるという恐るべし京都の一面だ。
さてさて、写真にしてもブログにしても「うまい」とか「さまになっている」とか、褒められる日がくるのだろうか。いずれにしても「うまい」「さまになる」「にのまいをふむ」は意外なことに語源が京都にあった言葉のお話vol.1(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。

◇ちょっと予備知識 → 「生」は混ぜ物がないということ。
類義語に一本気(いっぽんぎ)・生粋(きっすい)・無垢(むく)がある。
対義語は不純(ふじゅん)。
以前から気になっていたのだが、旧フォトヴィレッジの運用環境が安定していない。旧フォトヴィレッジで掲載した内容で、いくつかはとっておきたいものがある。「童謡物語」「京が語源」「京の街」なとで残しておきたい記事がある。その改訂・再掲を少しずつしていきたいと思う。
うまい、さまになる、にのまいをふむ (旧フォトヴィレッジ 2007年6月26日掲載)
「京が語源」で初めて取り上げたのが「うまい」「さまになる」「にのまいをふむ」だ。

(少し富士山ぽくなった比叡山) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
何でも舞楽の世界では「さまになる」は「左舞になる」、「うまい」は「右舞」がルーツだといわれているらしい。舞楽には、中国・インド・ベトナムの舞が唐の文化として伝わった唐楽(とうがく)の左舞(さまい)と、朝鮮・満州の舞が高麗経由で伝わった高麗楽(こまがく)の右舞(うまい)がある。
舞人にとっては、右舞より左舞のほうがより高度で難しいとされている。そこで、まず右舞が一人前になると「うまい」、さらに左舞が舞えるようになると、ようやく「さまになる」といわれるそうだ。

(大文字と比叡山) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
ちなみに舞楽に語源をたどれば「にのまいをふむ」という言葉もそうである。これは安南から伝わったインド楽のひとつ「安摩(あま)」という舞楽に由来する。まず二人の舞人が優雅に舞う一の舞が行なわれ、次にそれを真似ようとして真似られず、滑稽な足取り(舞い方)を踏んでしまうというユーモラスな舞が続く。ここから「二の舞を踏む」という言葉が生まれたということ。
平安京で盛んだった舞楽や雅楽、蹴鞠などに現在使用されている言葉の語源がたくさんあるという恐るべし京都の一面だ。
さてさて、写真にしてもブログにしても「うまい」とか「さまになっている」とか、褒められる日がくるのだろうか。いずれにしても「うまい」「さまになる」「にのまいをふむ」は意外なことに語源が京都にあった言葉のお話vol.1(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。

