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天を仰いで思うこと 天気予報 2013/03/28 12:00 am
天気予報
日常生活でもっとも馴染みの深い確率といえば天気予報だ。あてにならないと言いながらも、天気予報から情報を得ている。降水確率0%と言われれば、誰だって傘を持っていかないものだ。しかし、実は降水確率0%でも、絶対に雨が降らないという訳ではない。
降水確率とは、過去の気象データと比較して、今後一定の時間内に1mm以上の雨または雪がどのくらいの割合で降るかを表したものだ。つまり統計的確率。
例えば、明日の午前6時から正午までの予報の場合、その時間帯に予想される気象条件と同じような過去の気象データを探して、当時、雨が降ったかを調べ、同様の気象データのうちで雨が降った割合を求めたものだ。過去の実績で100回中60回降っていれば、降水確率60%となる。降水確率60%とは、こうした確率予報が出された日が100回あったとすると、そのうちのだいたい60回は1mm以上の雨が降るだろうという意味。
ここでの盲点は、1%の位が四捨五入されて10%刻みの分類とされている、ことだ。過去の実績が0〜4%なら降水確率は四捨五入されて0%となる。5〜14%は10%、15〜24%は20%・・・となる。降水確率0%と発表されても最大で4%が含まれることになり、100回のうち4回は1mm以上の雨が降ってもおかしくないということになる。
さらに、注意したいことは「1時間あたり1mmの雨」である。1mmといってもこちらは切り捨て表示なので、1.0mm〜1.9mmが1mmとなるということ。1.9mmは「傘がないとあかん」と誰もが判断する雨量である。
もうひとつ、時間との兼ね合いだ。観測時間の最初の30分間に1.8mmの雨が降って、その後止んだ場合、1時間で換算すると0.9mmとなり、記録としては「降水」とはならない。だから降水確率0%でも雨が降らないのではなく、記録上「降水」とならない降水はあり得るということだ。
統計データの取り方の問題なので、「天気予報が外れた!」と怒っては、気象庁や気象予報士がかわいそうだ…と、天を仰いで思うこと。


日常生活でもっとも馴染みの深い確率といえば天気予報だ。あてにならないと言いながらも、天気予報から情報を得ている。降水確率0%と言われれば、誰だって傘を持っていかないものだ。しかし、実は降水確率0%でも、絶対に雨が降らないという訳ではない。
降水確率とは、過去の気象データと比較して、今後一定の時間内に1mm以上の雨または雪がどのくらいの割合で降るかを表したものだ。つまり統計的確率。
例えば、明日の午前6時から正午までの予報の場合、その時間帯に予想される気象条件と同じような過去の気象データを探して、当時、雨が降ったかを調べ、同様の気象データのうちで雨が降った割合を求めたものだ。過去の実績で100回中60回降っていれば、降水確率60%となる。降水確率60%とは、こうした確率予報が出された日が100回あったとすると、そのうちのだいたい60回は1mm以上の雨が降るだろうという意味。
ここでの盲点は、1%の位が四捨五入されて10%刻みの分類とされている、ことだ。過去の実績が0〜4%なら降水確率は四捨五入されて0%となる。5〜14%は10%、15〜24%は20%・・・となる。降水確率0%と発表されても最大で4%が含まれることになり、100回のうち4回は1mm以上の雨が降ってもおかしくないということになる。
さらに、注意したいことは「1時間あたり1mmの雨」である。1mmといってもこちらは切り捨て表示なので、1.0mm〜1.9mmが1mmとなるということ。1.9mmは「傘がないとあかん」と誰もが判断する雨量である。
もうひとつ、時間との兼ね合いだ。観測時間の最初の30分間に1.8mmの雨が降って、その後止んだ場合、1時間で換算すると0.9mmとなり、記録としては「降水」とはならない。だから降水確率0%でも雨が降らないのではなく、記録上「降水」とならない降水はあり得るということだ。
統計データの取り方の問題なので、「天気予報が外れた!」と怒っては、気象庁や気象予報士がかわいそうだ…と、天を仰いで思うこと。



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天を仰いで思うこと あきらめない 2012/08/19 12:00 am
あきらめない
ロンドンで義足ランナーとして初めて五輪に参加し、400mに出た南アフリカのオスカー・ピストリウス選手(25)のこと。
準決勝で敗れはしたが、同走の選手が敬意の印にゼッケンの交換を求めてきた。
両すねの骨を欠いて生まれ、程なく膝から下を切断。
「私の義足は靴と同じ」
10代から短距離を磨き、北京パラリンピックでは敵なし。
称賛の一方で、義足は加速装置ではないのか、といった批判もくすぶる。
「道具によるドーピング」の声に抗し、出場規定のハードルを幾つも越え、たどり着いたのがロンドン。
「オスカー、敗者とは最後にゴールする人じゃない。はなから出場を諦めちゃう人を言うんだよ。」
同選手の10年前に亡くなった母親の言葉が紹介された。
とても心に響く。
偉大な選手を育てる偉大な母。当然、当人たちは「偉大」と自負している訳ではあるまい。
しかし、偉大な選手(人物)の傍にいる人々の何気ない一言が、なんとなく普通ではないような気がする。
こういうところに人生の教訓があり、日常的に心に「あきらめない」ことが刻み込まれているのだろう。
「できない」と何もしないのではなく、「できないかも」でも何かをすることが重要である。
元気をもらった言葉に約半年ぶりの更新となった…と、天を仰いで思うこと。


ロンドンで義足ランナーとして初めて五輪に参加し、400mに出た南アフリカのオスカー・ピストリウス選手(25)のこと。
準決勝で敗れはしたが、同走の選手が敬意の印にゼッケンの交換を求めてきた。
両すねの骨を欠いて生まれ、程なく膝から下を切断。
「私の義足は靴と同じ」
10代から短距離を磨き、北京パラリンピックでは敵なし。
称賛の一方で、義足は加速装置ではないのか、といった批判もくすぶる。
「道具によるドーピング」の声に抗し、出場規定のハードルを幾つも越え、たどり着いたのがロンドン。
「オスカー、敗者とは最後にゴールする人じゃない。はなから出場を諦めちゃう人を言うんだよ。」
同選手の10年前に亡くなった母親の言葉が紹介された。
とても心に響く。
偉大な選手を育てる偉大な母。当然、当人たちは「偉大」と自負している訳ではあるまい。
しかし、偉大な選手(人物)の傍にいる人々の何気ない一言が、なんとなく普通ではないような気がする。
こういうところに人生の教訓があり、日常的に心に「あきらめない」ことが刻み込まれているのだろう。
「できない」と何もしないのではなく、「できないかも」でも何かをすることが重要である。
元気をもらった言葉に約半年ぶりの更新となった…と、天を仰いで思うこと。



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天を仰いで思うこと その声はいまも 2012/03/14 12:00 am
その声はいまも
『現代詩手帖』(2011年6月号)に収録されている高良留美子さんの詩「その声はいまも」が天声人語(2012年1月28日付『朝日新聞』)で、紹介された。
あの女(ひと)は ひとり わたしに立ち向かってきた
南三陸町役場の 防災マイクから その声はいまも響いている
わたしはあの女(ひと)を町ごと呑み込んでしまったが
その声を消すことはできない
ただいま津波が襲来しています 高台へ避難してください
海岸近くには 絶対に近付かないでください
わたしに意志はない
時がくれば 大地は動き 海は襲いかかる
ひとつの岩盤が沈みこみ もうひとつの岩盤を跳ね上げたのだ
人間はわたしをみくびっていた
わたしの巨大な力に あの女(ひと)は ひとり 立ち向かってた
わたしはあの女(ひと)の声を聞いている
その声のなかから いのちが蘇るのを感じている
わたしはあの女(ひと)の身体を呑みこんでしまったが
いまもその声は わたしの底に響いている
津波を擬人化した「わたし」。「あの女(ひと)」とは、最後まで避難を呼びかけた宮城県南三陸町の職員、遠藤未希さんのことである。天声人語は、遠藤さんは、埼玉県の道徳の副読本に載るとも伝えている。この詩、余計な解説などは要らないと思う。ひとつひとつをしっかり読めば、心の中に何かが生まれるはずだ。人類は英知を絞り繁栄してきたが、地球の振動ひとつでいとも簡単に壊滅状態に追い込まれる。恐るべきは自然の営み。あれから1年。「今、私にできることは何だろう」と考えるが、非力な自分がそこにいるだけだった…と、天を仰いで思うこと。


『現代詩手帖』(2011年6月号)に収録されている高良留美子さんの詩「その声はいまも」が天声人語(2012年1月28日付『朝日新聞』)で、紹介された。
あの女(ひと)は ひとり わたしに立ち向かってきた
南三陸町役場の 防災マイクから その声はいまも響いている
わたしはあの女(ひと)を町ごと呑み込んでしまったが
その声を消すことはできない
ただいま津波が襲来しています 高台へ避難してください
海岸近くには 絶対に近付かないでください
わたしに意志はない
時がくれば 大地は動き 海は襲いかかる
ひとつの岩盤が沈みこみ もうひとつの岩盤を跳ね上げたのだ
人間はわたしをみくびっていた
わたしの巨大な力に あの女(ひと)は ひとり 立ち向かってた
わたしはあの女(ひと)の声を聞いている
その声のなかから いのちが蘇るのを感じている
わたしはあの女(ひと)の身体を呑みこんでしまったが
いまもその声は わたしの底に響いている
津波を擬人化した「わたし」。「あの女(ひと)」とは、最後まで避難を呼びかけた宮城県南三陸町の職員、遠藤未希さんのことである。天声人語は、遠藤さんは、埼玉県の道徳の副読本に載るとも伝えている。この詩、余計な解説などは要らないと思う。ひとつひとつをしっかり読めば、心の中に何かが生まれるはずだ。人類は英知を絞り繁栄してきたが、地球の振動ひとつでいとも簡単に壊滅状態に追い込まれる。恐るべきは自然の営み。あれから1年。「今、私にできることは何だろう」と考えるが、非力な自分がそこにいるだけだった…と、天を仰いで思うこと。



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天を仰いで思うこと 言葉 2012/03/09 12:00 am
言葉
「森の生活」を書いた米国の随筆家ソローは忘れがたい言葉を多く残した。たとえば、「ほんの一瞬でも、お互いの立場から世界を見ることができれば奇跡が起こるだろう」。とかく自分の立場にこだわりがちな人間への、時代を超えたメッセージと読める。
以上は、天声人語(朝日新聞、2012年2月10日)からの引用である。今日は「言葉」「ことば」について考えてみる。
私たち人類が、他の生命体と最も異なるのは「言葉」を使うところだろう。『広辞苑』で「言葉」を調べると、「ある意味を表わすために、口でいったり字に書いたりするもの。語。言語。」とある。
かつての偉人は数々の含蓄のある言葉を残している。今、本屋さんに、たくさん並んでいるピーター・ファーディナンド・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)の言葉などもそうだ。天声人語の記事をきっかけに、『ソロー語録』(文遊社)なるものを買った。124ページもので1600円(税別)。ちょっと高い買い物だ。

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau)は、1817年アメリカに生まれる。ソローは、詩人、作家、思想家、ナチュラリストなど多彩な顔をもつ。また、ソローの言葉は、誰よりも深く考え、実践し、今日の自然保護思想・政治思想などに大きな影響を与え続けているという。
その本の、あるページに、「自分自身を知ることは、振り向かずに後ろを見るのと同じくらい難しい」という言葉がある。言われてみれば簡単で納得できることであるが、「振り向かずに後ろを見る」ということをもってくることができるかどうかが問題だ。このあたりに非凡さを感じる。日常的に使っている言葉であるが、深く考え、選んで使用することは少ない。言葉を考えて選ぶという行為は、とても重要であると気づかされる。
しかし、一方、現代社会では、その言葉が乱れていると指摘されている。私たちは自分の思いなどを言葉でしか伝えることが出来ないのに、その言葉を真摯に扱っていないのではないか。人が発する言葉は、その人の心を100%表わすことができないのも事実である。だからこそ、言葉の重みや大切さを、もっと理解していく必要があるのではないだろうか。
私たちは言葉によってしか生きられないのである。たった一言が人を傷つけることもあれば、人の胸を打つこともある。私たちは今一度、言葉が持つ力について再考すべき時にきているのではないか。

ソローは言う。「重要なのは、何を見るかではなく、何が見えてくるかである。」と。
さらに言う。「何も変りはしない、変るのは僕らだ。」と。
もっと心に響く言葉があった。「友人のために僕ができることは、ただ彼の友達でいることである。」と。
あえて解説の必要はない言葉だ。特別に何かをする必要はなく、ただただ友達でいつづけることが大切なことだ。
私たちが言葉の使い方を正すだけで、言葉の乱れが指摘されている現代社会を変えることができるのではないだろうか…と、天を仰いで思うこと。

「森の生活」を書いた米国の随筆家ソローは忘れがたい言葉を多く残した。たとえば、「ほんの一瞬でも、お互いの立場から世界を見ることができれば奇跡が起こるだろう」。とかく自分の立場にこだわりがちな人間への、時代を超えたメッセージと読める。
以上は、天声人語(朝日新聞、2012年2月10日)からの引用である。今日は「言葉」「ことば」について考えてみる。
私たち人類が、他の生命体と最も異なるのは「言葉」を使うところだろう。『広辞苑』で「言葉」を調べると、「ある意味を表わすために、口でいったり字に書いたりするもの。語。言語。」とある。
かつての偉人は数々の含蓄のある言葉を残している。今、本屋さんに、たくさん並んでいるピーター・ファーディナンド・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker)の言葉などもそうだ。天声人語の記事をきっかけに、『ソロー語録』(文遊社)なるものを買った。124ページもので1600円(税別)。ちょっと高い買い物だ。

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau)は、1817年アメリカに生まれる。ソローは、詩人、作家、思想家、ナチュラリストなど多彩な顔をもつ。また、ソローの言葉は、誰よりも深く考え、実践し、今日の自然保護思想・政治思想などに大きな影響を与え続けているという。
その本の、あるページに、「自分自身を知ることは、振り向かずに後ろを見るのと同じくらい難しい」という言葉がある。言われてみれば簡単で納得できることであるが、「振り向かずに後ろを見る」ということをもってくることができるかどうかが問題だ。このあたりに非凡さを感じる。日常的に使っている言葉であるが、深く考え、選んで使用することは少ない。言葉を考えて選ぶという行為は、とても重要であると気づかされる。
しかし、一方、現代社会では、その言葉が乱れていると指摘されている。私たちは自分の思いなどを言葉でしか伝えることが出来ないのに、その言葉を真摯に扱っていないのではないか。人が発する言葉は、その人の心を100%表わすことができないのも事実である。だからこそ、言葉の重みや大切さを、もっと理解していく必要があるのではないだろうか。
私たちは言葉によってしか生きられないのである。たった一言が人を傷つけることもあれば、人の胸を打つこともある。私たちは今一度、言葉が持つ力について再考すべき時にきているのではないか。

ソローは言う。「重要なのは、何を見るかではなく、何が見えてくるかである。」と。
さらに言う。「何も変りはしない、変るのは僕らだ。」と。
もっと心に響く言葉があった。「友人のために僕ができることは、ただ彼の友達でいることである。」と。
あえて解説の必要はない言葉だ。特別に何かをする必要はなく、ただただ友達でいつづけることが大切なことだ。
私たちが言葉の使い方を正すだけで、言葉の乱れが指摘されている現代社会を変えることができるのではないだろうか…と、天を仰いで思うこと。


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天を仰いで思うこと ツクツクボウシ 2011/08/24 12:00 am
ツクツクボウシ
ここ数日の京都では、朝夕がめっきりと涼しくなった。と言っても、まだ8月下旬。この涼しさは一時のものであろう。そんな中、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえてきた。今まで鳴いていたのかも知れないが昨日気がついた。

ツクツクボウシは、「つくつく法師」と表記され、カメムシ目(半翅目)・ヨコバイ亜目(同翅亜目)・セミ科に分類されるセミの一種であり、晩夏から初秋に発生するセミで、特徴的な鳴き声をもつことはご承知のとおりである。ツクツクボウシはアブラゼミやニイニイゼミと比べて冬の寒さに弱く、元来北日本では局地的にしか分布していなかったという。しかし近年、盛岡や仙台において増えつつあり、特に盛岡ではアブラゼミが激減している(仙台でも減少している)おり、ツクツクボウシは逆に増えているという。これは地球温暖化が原因と考えられるが、生態学的に優位な立場にあるアブラゼミの数が減ったことで、ツクツクボウシが繁殖しやすくなったという原因もあり、定かではない。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
オスは午後の日が傾き始めた頃から日没後くらいまで鳴く。その鳴き声は特徴的で、和名もこの鳴き声の聞きなしに由来。鳴き声は「ジー…ツクツクツク…ボーシ!ツクツクボーシ!」と始まり、以後「ツクツクボーシ!」を十数回ほど繰り返し、「ウイヨース!」を数回、最後に「ジー…」と鳴き終わる。最初の「ボーシ!」が聞き取りやすいためか、本によっては鳴き声を「オーシツクツク…」と逆に表記することもあるという。また、1匹のオスが鳴いている近くにまだオスがいた場合、それらのオスが鳴き声に呼応するように「ジー!」と繰り返し声を挙げる。合唱のようにも聞こえるが、これは鳴き声を妨害しているという説があるという。

季節を感じる色々なものが日本には揃っている。今年の個人的な心配の一番は「稲」である。田植えの時期が通年より一週間から10日ほど遅かった。その影響があるかもしれないが、毎年、早いところでは9月の第一週までには稲刈りの風景を見ることができるが、今年はこの時期も十分に育っていないと聞いた。ツクツクボウシの鳴き声を聞きながら、田植えが遅かった分、遅くなるのであろうが、新米不足にならないように願いたい。稲の育ちが悪いと、稲をあてにしているスズメさんも辛かろうに…と、天を仰いで思うこと。

ここ数日の京都では、朝夕がめっきりと涼しくなった。と言っても、まだ8月下旬。この涼しさは一時のものであろう。そんな中、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえてきた。今まで鳴いていたのかも知れないが昨日気がついた。

ツクツクボウシは、「つくつく法師」と表記され、カメムシ目(半翅目)・ヨコバイ亜目(同翅亜目)・セミ科に分類されるセミの一種であり、晩夏から初秋に発生するセミで、特徴的な鳴き声をもつことはご承知のとおりである。ツクツクボウシはアブラゼミやニイニイゼミと比べて冬の寒さに弱く、元来北日本では局地的にしか分布していなかったという。しかし近年、盛岡や仙台において増えつつあり、特に盛岡ではアブラゼミが激減している(仙台でも減少している)おり、ツクツクボウシは逆に増えているという。これは地球温暖化が原因と考えられるが、生態学的に優位な立場にあるアブラゼミの数が減ったことで、ツクツクボウシが繁殖しやすくなったという原因もあり、定かではない。

(神戸) カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4
オスは午後の日が傾き始めた頃から日没後くらいまで鳴く。その鳴き声は特徴的で、和名もこの鳴き声の聞きなしに由来。鳴き声は「ジー…ツクツクツク…ボーシ!ツクツクボーシ!」と始まり、以後「ツクツクボーシ!」を十数回ほど繰り返し、「ウイヨース!」を数回、最後に「ジー…」と鳴き終わる。最初の「ボーシ!」が聞き取りやすいためか、本によっては鳴き声を「オーシツクツク…」と逆に表記することもあるという。また、1匹のオスが鳴いている近くにまだオスがいた場合、それらのオスが鳴き声に呼応するように「ジー!」と繰り返し声を挙げる。合唱のようにも聞こえるが、これは鳴き声を妨害しているという説があるという。

季節を感じる色々なものが日本には揃っている。今年の個人的な心配の一番は「稲」である。田植えの時期が通年より一週間から10日ほど遅かった。その影響があるかもしれないが、毎年、早いところでは9月の第一週までには稲刈りの風景を見ることができるが、今年はこの時期も十分に育っていないと聞いた。ツクツクボウシの鳴き声を聞きながら、田植えが遅かった分、遅くなるのであろうが、新米不足にならないように願いたい。稲の育ちが悪いと、稲をあてにしているスズメさんも辛かろうに…と、天を仰いで思うこと。

