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今京都 おきばりやす 2009/07/18 12:00 am

きばりやす
精出してがんばってください。「よう勉強しやはりますな、オキバリヤス」 キバルは「気張る」からで、もとは息をつめて力むこと。「オ〜ヤス」の構成で敬意を示す。仕事をしている人に呼びかけるあいさつことば。祇園花街では、舞妓・芸妓をお座敷に送り出すときに、子方屋の女主人が「オキバリヤッシャ」という。「キバッタハリマスナ」と呼びかけることがある。やや皮肉を込めて受け取ることもある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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斗町(ぽんとちょう) (旧フォトヴィレッジ 2007年8月30日掲載)
知らなければ読めない「先斗町」。この町はもと鴨川の河原で、1670(寛文10)年、鴨川の護岸工事により三条通から四条通一町下ルの間に細長く伸びる新しい町ができた。新河原町と名づけられていたのだが、やがて四条以北を先斗町といい、四条以南を西石垣(さいせき)と呼ぶようになった。



初めは鴨川べりの先端だけに4・5軒ばかりの家が建ち、高瀬川のある西側には家がまったくなかったので「先斗(さきばかり)」といったそうだ。ポルトガル語でポンタは先、ポント(英語ではポイント)は点を意味し、漢字では「先斗」と書く。そういったところから「先斗町」という名になったらしいのだが…。



この「先斗町」の読み方は、1682(天和2)年に出版された井原西鶴「好色一代男」の中に、既に「・・・ぽんと町の小宿にかへりぬ」と登場している。1670(寛永10)年の鴨川護岸工事から12年後のことであるから「ぽんと町」の呼び名が定着するのにそれほど時間がかからなかったということか。



西鶴の小説では、先斗町は宿屋街として描かれている。町が開かれた当初は、水運盛んな高瀬川の旅客や船頭を相手にする宿屋が建ち並んでいたようである。先斗町が花街になったのは、ずっとのちの1813(文化10)年からである。



「ぽんと町」という変わった読み方や、外国語をいちはやく町名に取り入れるあたり、京の花街らしいと理解しがちだが、実はそうではない。新しくできた普通の町に「ぽんと町」とはなんとも大胆なネーミングをしたものであると理解したほうがすっきりする。



先斗町の15番路地には、お参りをすると「おおきに、おおきに」と応えてくれる、音声つきの大明神さんが祀られている。その名を「十五大明神」といい、千社札がびっしりと貼られている。1978(昭和53)年に先斗町で火事があったとき、この15番地路地で火が鎮まったのは、ここにいた信楽焼きのおタヌキさんのおかげというのでそのおタヌキさんを祀ったというのだが…。



夜には、ほろ酔い加減の男性が行き交う。憧れは祇園? それとも先斗町? いずれにしても祇園と並ぶ遊興地、先斗町…今京都。


 

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今京都 おため 2009/07/16 12:00 am

ため
贈り物を受けたときに出す返礼の品。贈り物を持参した人に「ちょっと待っておくれやす。オタメ入れさせてもらいますよって」といい、オタメガミを進物の盆の上に載せて渡した。オタメガミは半紙を二枚四つ折りにしたもの。かつて京都御所ではオトビ・トビと言った。宮廷の公式日記『お湯殿(ゆどの)の上(うえ)の日記』にも記される。オウツリともいう。オツリと同じく釣り合いを保つの意味からである。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
★関連記事はここ(←クリック)

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うひとつの五山 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月22日掲載)
先日に続いて、もうひとつ大文字のお話。それは「雪大文字」。五山の楽しみ方は夏の夜の炎に浮かび上がる文字だけではない。冬の朝、里に薄っすらと雪が積もった日には、「大」の字がくっきりと白く雪で浮かび上がる。それは日差しを浴びると消えてしまいそうな、朝のひとときの美しさ。人々はそれを「雪大文字」と呼んで「雪大文字を見た日はええことがおすえ」と言い合ったという。残念なことに「雪大文字」は最近撮れていない。地球温暖化による影響からか、京都は雪が減った。少し積もったと思っても、写真が撮れる光の当たり具合になるまでは溶けてしまう。



調べて見ると大文字にまつわるおまじないは「雪大文字」以外にもたくさんある。
「お盆やお椀に水を入れて、『大』の字を映して飲むと、その年は一年中風邪を引かない」
「燃え盛る大文字の火影を、盃に映して飲み干すと、中風にならない」
「茄子に穴をあけて大文字を見ると、目を患わない」
「燃焼し尽くして炭になった送り火の燃え木は、家の魔除けになる」
「松が燃えた後の消し炭は、粉にして飲むと胃の薬になる」
「大文字の消し炭や灰は、中風や痔の薬になる」
などなど。また、送り火の翌朝は、燃え木を拾って除災招福を願おうと、早朝から山に登る人が後を絶たない。大文字のおまじないは、今も信じる人が多いのか、燃え木も消し炭も一夜のうちになくなってしまうという。少し前までは、送り火の点火時間が近づくと、潮が引くように街の灯が消えて、それもまた風情だった。最近は、点火時間が迫っても、街の灯が消える気配もなく、実際に消えていない。



この風情ある夏の壮大な炎のページェントをもっと楽しむために、「外灯や家の灯を消して、大文字五山送り火を拝むと、願いがかなう」なんておまじないを加えたい気もする。また五山送り火の「大」の字が「太」や「犬」になった時がある。当然、わざと「太」「犬」としたわけでなく、風で飛ばされた炎のイタズラ。「大」以外の文字となった時は何か不吉なことがあるかも知れないと心配したけれど、結局、良いことも悪いこともなかった。「大」以外の文字に化けることは無かった今年の五山送り火。このように五山は8月16日の夜のイベントだけでなく、日々の生活に溶け込んで京都の街を優しく見守っている。京都で暮す人々の心の支え、見上げればいつもそこにある存在。どのようにして始まったのか不明ではあるが、太古の時代から人々の暮らしとともに守られてきた。そして、まるで駅伝のたすきのように時代から時代へその文化が継承されているのは確かである。これこそ歴史都市京都の真髄かも知れない…今京都。


 

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今京都 おいえ 2009/07/14 12:00 am

いえ
座敷。「オイエ上がって遊んでばっかりいんと、外(かど)で遊んどいで」 オイエは「お上(うえ)」ということからで、使用人が言い始めた。この場合のイエは家の意味ではない。町家の家庭の主婦を大阪でオイエサンというのも「お上様(うえさま)」からで、東京のオカミサンと同種の命名法。座敷は昔は板張りで、しとね・円座などを敷いて座った。座を敷くから座敷であった。畳はもと敷物の総称でたたむことができた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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山送り火 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月21日掲載)
京都の夏の風物詩といえば、今週の17日に山鉾巡行が行われる祇園祭と8月16日に行われる五山の送り火。大文字の送り火を「大文字焼き」という人がいるが、京都人は「焼き」とは決して言わない、送り火。



この五山の送り火は、京都盆地と周囲の山々をひとつの舞台に見立てた壮大な炎のページェント。東に「大文字」、北に「妙法」「船形」、西に「左大文字」「鳥居形」と五つの火文字。このとてつもない演出法を、いったい誰が思いついたのか…この歴史都市京都においても、いつから始まったのか、どのようにして始まったのかが実は不明というから面白い。



この五山送り火を調べてみると、かつては市原に「い」、鳴滝に「一」、北嵯峨に「蛇蛇」、西山に「竹の先に鈴」、観空寺(かっこうじ)村に「長刀(なぎなた)」などと、さまざまな送り火があったということが判明。「い」「一」は明治に入って姿を消し、「竹に鈴」あるいは「竿に鈴」は大正初期にはまだあったという。こうして今に至り残っているのが五山というわけ。



送り火は精霊送りの意味をもつお盆行事のひとつ。お盆の行事が一般に広く行なわれるようになったのは、仏教が庶民の間に浸透した中世、室町時代以降だろうとされている。送り火のことが記録に初めて登場するのは、公家・舟橋秀賢(ふなはしひでかた)がきした「慶長日件録」という日記の1603(慶長8)年7月16日の記述。「晩に及び冷泉亭に行く、山々灯を焼く、見物に東河原に出でおわんぬ」というのが、鴨の河原からの送り火見物のようで、ここには「万灯籠見物」とも書かれている。戦国時代の京都には、大灯籠を作る風習があった。お盆には、意匠を凝らしたたくさんの灯籠を飾る万灯籠や、それを持って踊る灯籠踊りが流行。二間四方もある大灯籠を作って人々を驚かせたり、町内ごとに大灯籠を作って趣向を競ったりもした。この万灯籠が「山々灯を焼く」送り火になったのではないかとみられている。



いずれにしても、大文字五山送り火の起源が明らかでないのは、この行事が地元の人々によって支えられ、伝えられてきた証であるという。なぜなら、歴史の中の公式記録は時の権力者が残してきたもので、庶民の歴史は記録にとどめられることはなかったからである。今年も地元の人々やボランティアの方々のおかげで行われる京都五山送り火…今京都。


 

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今京都 ねき 2009/07/12 12:00 am


そば、近くのことをいう。「もうちょっとネキに寄ってんか」「車のネキで、うろちょろすんな」「根際(ねぎわ)」という語から、ネキとなった。根際は「草木の根の近辺」ということで、室町時代のことばを集めた日本語・ポルトガル語の『日葡辞書』に記載されている。ネキとよく似たハタも、そば・端の意味で用いるが、「ハタから口を出す」とはいうが、「ネキから」とはいわない。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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蔵物語(268)




 

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今京都 よろしおあがりやす 2009/07/11 12:00 am

ろしおあがりやす
ヨロシオアガリとも。どうぞ召し上がってください。食事をいただく人に向かっていう。「ごっつぉよばれますわ」「ヨロシオアガリヤス」 食後にもいう。「おーきに、ごっつぉはんどした」「ヨロシオアガリヤス」 この場合、「お粗末でした」の意味を含む。ヨロシをヨロシューとも。「よろしい」のもとは「寄らし」からで「寄る」の意味があった。室町時代にアガルは高位の人の食事が終わることにいった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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水(そすい) (旧フォトヴィレッジ 2007年9月6、7日掲載)
水路閣で触れた疎水について少し掲載してみよう。琵琶湖疎水は都が東京へと移り、人口も35万の都市から25万人へと激減し産業も衰退していく中で、京都復興の大事業として計画されたものだった。その初めての測量は1881(明治14)年4月に、起工式は4年後の1885(明治18)年6月に、竣工式は1890(明治23)年4月にと実に9年間にも及ぶ大工事だった。1872(明治5)年、旧暦の9月12日、新橋−横浜間に日本最初の鉄道が開業。この鉄道工事を含め当時の大工事の殆どが外国人技術者の設計や監督に頼っていた中にあって、この琵琶湖疎水工事は設計も工事も全て日本人の手による初の事業。滋賀県の大津市、三井寺近くから長等山をトンネルで抜け、山科盆地の山麓、幾つかのトンネルを流れ、日ノ岡山のトンネルを抜ける経路、中でも長等山の第一トンネル(2,436m)は当時、類をみない長大トンネルだった。





この大事業に際して当時の北垣国道知事は工部大学、今の東京大学を卒業したばかりの21才の青年技師を抜擢する。この琵琶湖疎水計画の元々の発案者は下京区の吉本源之助なる人物と云われている。この源之助が京都府に宛てた「新川通船之儀ニ付願」がその物語の始まり。源之助は友人の菊井重左衛門の東京から京へ来る度に悩まされる日ノ岡峠越えの難渋、それによる荷役運賃割の割り増しによる物価の高騰は、新川を開いて水運を充実させれば解決すると云う助言の元に先の願いを提出する。それまでにも高瀬川を開いた角倉了以が琵琶湖から高瀬川に新川を開く構想など、幾つかあったが、実現の可能性のある具体的な計画は、この願いによるものが初めてだったとのこと。





1881(明治14)年2月、北垣国道が京都府知事に就任。北垣知事は就任すると同じくして官営事業を全て廃止し、民間に払い下げるなど数々の改革を行った。京都府知事に就任した北垣は、琵琶湖疎水計画の実現を決断する。その時、北垣は琵琶湖疎水工事計画を題材とした卒業論文を仕上げている田邊(たなべ)朔朗の存在を知り、朔朗の情熱に満ちた話しぶりに北垣知事は21歳の青年技師に事業を任せることを即座に決断したといわれている。





こうして田邊朔朗を中心として疎水工事は始まる。未熟な土木技術、余り役に立たない機械類では、まだまだ人海戦術が主たる工法で、当然成功を危ぶむ声もあり、大金を投じての大事業に反対の声も大きかった。工事は難儀を極め、作業は重労働、一時は刑務所の囚人までも動員したといわれている。その囚人達の再犯率は非常に低かったということが、いかに過酷な重労働があったのかを示す一例だといわれている。計画途中で水力発電事業が計画に組み込まれるなどの変遷を経て、ダイナマイトとセメント以外の資財は外国製に頼らず、自前で調達しながらの難工事も1890(明治23)年9月、竣工式を迎える。当時の新聞は、「大文字の送り火が灯され、祇園祭の月鉾、鶏鉾、天神山、郭巨山が立ち並び、日の丸提灯行列が行われた」と伝えたという。





これにより琵琶湖より京都への水運が可能になり、九条山より蹴上にかけては、582mに36mの標高差があり勾配が15分の1の急であるためインクライン(傾斜鉄道)により三十石船をそのまま台車に載せて上下させた。また蹴上発電所で発電された電力は日本最初の路面電車開業へとつながり、各家に電灯が灯ることになる。今ではインクラインは廃止されているが、琵琶湖から山科を経て、南禅寺から鴨川への本流、そして南禅寺から哲学の道、北白川に至る分線は上水道、防火用水として、あるいはインクラインの桜並木、哲学の道を始めとする水辺に親しめる憩いの場、南禅寺水路閣は文化財として、竣工110年を迎える現在も機能している。京都の命の水ともなっている琵琶湖疎水のお話…今京都。


 

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