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今京都 うつる 2009/09/08 12:00 am
うつる
似合う。調和する。「その着物の柄は、ようウツッテますな」 物の姿がそっくり他の物に反映する、目に映ずるの意味から、よく似合うの意になった。年中行事の多彩な京都では、季節ごとに着物を新調する機会も多く、着物がウツルことを心掛けた。「京の着倒れ」というように、京都人は着物を買うのに金を惜しみなく使い、良い着物を多くそろえて持つことに生きがいを感じた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
千本釈迦堂 (旧フォトヴィレッジ 2007年4月29日掲載)
京都市上京区に通称「千本釈迦堂」がある。正式名は「大報恩寺」。この大報恩寺の本堂(釈迦堂)は、瑞応山と号する真言宗智山派の寺で、千本釈迦堂の名で知られている。承久3(1221)年、求法(ぐほう)上人義空(ぎくう)が、猫間中納言藤原光隆の臣、岸高から寄進を受けたこの地に小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起こりと言われている。当時は溝前町・老松町・柏清盛町の広大な敷地で、当初、倶舎・天台・真言三宗弘通(ぐずう)の道場。嘉禎元(1235)年堂塔伽藍を整え壮観を極めたが、応仁の乱をはじめ度々の災火のため堂宇を焼失してしまった。


その中で幾多の戦禍を奇跡的に逃れた本堂(釈迦堂)は、京都市街に現存する最古の本堂遺構で、国宝に指定されている。この千本釈迦堂には「夫のために命をなげうった計り知れない夫婦の愛の物語」が伝わる。本堂前に立つ江戸時代の石塔は「おかめ塚」と呼ばれ、夫婦や家庭の円満、建築の安全を願う人たちの信仰を集めている。隣で、おかめのブロンズ像(多福像)が穏やかにほほ笑んでいる。このブロンズ像は、「夫のために命をなげうった計り知れない夫婦の愛の物語」による。その物語は、度重なる戦火を逃れた国宝の本堂の建立が進む800年ほど前(鎌倉初期)に物語の舞台はさかのぼる。

本堂造営工事の現場を仕切るのは京の大工、長井飛騨守高次。その腕前を寺に買われた。高次はある日、信徒から寄進された貴重な柱1本を誤って寸法より短く切ってしまう。あちこち探しても、適当な材は手に入らない。その心痛の様子を見かねた妻「おかめ」が「切った木は戻らない。いっそ柱を全部短くして、斗組(とぐみ)を付けたら」と勧める。その言葉に「そうか、柱の上部に細長い材や四角い材を組み合わせて軒を支えよう」とひらめいた高次はやる気を取り戻し、軒や天井をより安定させる柱組みで本堂を仕上げ無事竣工させる。しかし、「おかめ」の心は晴れない。「妻の機転に救われたと世間に知れたら、夫の名声に傷がつく。」 女が夫の仕事に口をだしたこと、女の知恵で落成したことが分かっては夫の恥とばかりに上棟式を前に自害。嘆き悲しむ高次。亡き妻の顔や優しい心をお面に彫り込み、三本の扇子とともに棟札の上に掲げて、一緒に完成を祝い、冥福を祈った。という物語。

今日でも、上棟式の御幣に「おかめ」の面をつけて建築成就、厄難消滅、家業繁栄を祈る風習があるのはこの故事によるという。また、「おかめ」のお面は、かつては母親が嫁ぐ娘の荷物にそっと忍ばせた。今も新婚家庭に贈られる。

その「美人顔」に込められた徳とは…。張り出した額は、上ばかりを見て不満を言わずに感謝する徳。下がり目は、日々穏やかに暮らす徳。左右のほおより低い鼻は、両親を大事にする徳。そして、小さな口は多弁を慎む徳だという。ハネムーン直後の「成田離婚」に、定年間近の「熟年離婚」。昨今は、夫婦間の悲惨な殺人事件も世間を騒がせる。一寸先が分からない時代だけに穏やかなおかめと向き合い、心の鬼を変えなくてはならないのではないかと思う。

おかめブロンズ像に手を合わせる仲の良いお二人。いつまでも仲良く…ね
境内には「おかめ桜」がある。この桜3月下旬には咲き始める。残念ながら咲いているところは撮り損なった。地面すれすれに垂れ下がる枝は、着物の裾が流れるさまを映すという。本堂の西側にある観音堂は、明徳の乱において敗死した山名氏清(うじきよ)の菩提を弔うために足利義満が建てた北野経王堂願成就寺。北野経王堂願成就寺は、山名氏の強大化を懸念していた足利三代将軍義満が、1391(明徳2)年、氏清の弟・山名時義が領主を継いだ家中分裂に伴い山名時煕、山名氏幸の討伐令を下した。山名家一族の存続を危ぶんだ氏清は、山名義理、山名氏家らとともに令に叛いて兵をあげた。合戦は京都内野で行われ、有力守護大名によって編成された幕府軍の反攻に遭って、氏清は戦死した(明徳の乱)。

将軍義満は、その翌年、令に叛いたとはいえ、山名家の功労武勲を思い、氏清とその一族、また戦いに倒れた敵、味方兵士の追福のため、1100名の僧侶を集めて供養した。引き続き1401(応永8)年に北野社の社頭に、三十三間堂の倍半という大堂を建立し「北野経王堂願成就寺」と名付け10日間にわたって万部経会並びに経典書写などの仏事を行い供養した。この行事は「北野経会」と呼ばれる京の最大行事となり、代々の幕府によって踏襲された。この堂も江戸期に入り荒廃甚だしく遂に1671(寛文11)年に解体縮小されて小堂となった。このときに解体された遺構の木材が当寺に運ばれ縮小・復元されたのが、このお堂だという。このように数々の逸話がある、ここは千本釈迦堂…今京都。

似合う。調和する。「その着物の柄は、ようウツッテますな」 物の姿がそっくり他の物に反映する、目に映ずるの意味から、よく似合うの意になった。年中行事の多彩な京都では、季節ごとに着物を新調する機会も多く、着物がウツルことを心掛けた。「京の着倒れ」というように、京都人は着物を買うのに金を惜しみなく使い、良い着物を多くそろえて持つことに生きがいを感じた。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
千本釈迦堂 (旧フォトヴィレッジ 2007年4月29日掲載)
京都市上京区に通称「千本釈迦堂」がある。正式名は「大報恩寺」。この大報恩寺の本堂(釈迦堂)は、瑞応山と号する真言宗智山派の寺で、千本釈迦堂の名で知られている。承久3(1221)年、求法(ぐほう)上人義空(ぎくう)が、猫間中納言藤原光隆の臣、岸高から寄進を受けたこの地に小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起こりと言われている。当時は溝前町・老松町・柏清盛町の広大な敷地で、当初、倶舎・天台・真言三宗弘通(ぐずう)の道場。嘉禎元(1235)年堂塔伽藍を整え壮観を極めたが、応仁の乱をはじめ度々の災火のため堂宇を焼失してしまった。


その中で幾多の戦禍を奇跡的に逃れた本堂(釈迦堂)は、京都市街に現存する最古の本堂遺構で、国宝に指定されている。この千本釈迦堂には「夫のために命をなげうった計り知れない夫婦の愛の物語」が伝わる。本堂前に立つ江戸時代の石塔は「おかめ塚」と呼ばれ、夫婦や家庭の円満、建築の安全を願う人たちの信仰を集めている。隣で、おかめのブロンズ像(多福像)が穏やかにほほ笑んでいる。このブロンズ像は、「夫のために命をなげうった計り知れない夫婦の愛の物語」による。その物語は、度重なる戦火を逃れた国宝の本堂の建立が進む800年ほど前(鎌倉初期)に物語の舞台はさかのぼる。

本堂造営工事の現場を仕切るのは京の大工、長井飛騨守高次。その腕前を寺に買われた。高次はある日、信徒から寄進された貴重な柱1本を誤って寸法より短く切ってしまう。あちこち探しても、適当な材は手に入らない。その心痛の様子を見かねた妻「おかめ」が「切った木は戻らない。いっそ柱を全部短くして、斗組(とぐみ)を付けたら」と勧める。その言葉に「そうか、柱の上部に細長い材や四角い材を組み合わせて軒を支えよう」とひらめいた高次はやる気を取り戻し、軒や天井をより安定させる柱組みで本堂を仕上げ無事竣工させる。しかし、「おかめ」の心は晴れない。「妻の機転に救われたと世間に知れたら、夫の名声に傷がつく。」 女が夫の仕事に口をだしたこと、女の知恵で落成したことが分かっては夫の恥とばかりに上棟式を前に自害。嘆き悲しむ高次。亡き妻の顔や優しい心をお面に彫り込み、三本の扇子とともに棟札の上に掲げて、一緒に完成を祝い、冥福を祈った。という物語。

今日でも、上棟式の御幣に「おかめ」の面をつけて建築成就、厄難消滅、家業繁栄を祈る風習があるのはこの故事によるという。また、「おかめ」のお面は、かつては母親が嫁ぐ娘の荷物にそっと忍ばせた。今も新婚家庭に贈られる。

その「美人顔」に込められた徳とは…。張り出した額は、上ばかりを見て不満を言わずに感謝する徳。下がり目は、日々穏やかに暮らす徳。左右のほおより低い鼻は、両親を大事にする徳。そして、小さな口は多弁を慎む徳だという。ハネムーン直後の「成田離婚」に、定年間近の「熟年離婚」。昨今は、夫婦間の悲惨な殺人事件も世間を騒がせる。一寸先が分からない時代だけに穏やかなおかめと向き合い、心の鬼を変えなくてはならないのではないかと思う。

おかめブロンズ像に手を合わせる仲の良いお二人。いつまでも仲良く…ね
境内には「おかめ桜」がある。この桜3月下旬には咲き始める。残念ながら咲いているところは撮り損なった。地面すれすれに垂れ下がる枝は、着物の裾が流れるさまを映すという。本堂の西側にある観音堂は、明徳の乱において敗死した山名氏清(うじきよ)の菩提を弔うために足利義満が建てた北野経王堂願成就寺。北野経王堂願成就寺は、山名氏の強大化を懸念していた足利三代将軍義満が、1391(明徳2)年、氏清の弟・山名時義が領主を継いだ家中分裂に伴い山名時煕、山名氏幸の討伐令を下した。山名家一族の存続を危ぶんだ氏清は、山名義理、山名氏家らとともに令に叛いて兵をあげた。合戦は京都内野で行われ、有力守護大名によって編成された幕府軍の反攻に遭って、氏清は戦死した(明徳の乱)。

将軍義満は、その翌年、令に叛いたとはいえ、山名家の功労武勲を思い、氏清とその一族、また戦いに倒れた敵、味方兵士の追福のため、1100名の僧侶を集めて供養した。引き続き1401(応永8)年に北野社の社頭に、三十三間堂の倍半という大堂を建立し「北野経王堂願成就寺」と名付け10日間にわたって万部経会並びに経典書写などの仏事を行い供養した。この行事は「北野経会」と呼ばれる京の最大行事となり、代々の幕府によって踏襲された。この堂も江戸期に入り荒廃甚だしく遂に1671(寛文11)年に解体縮小されて小堂となった。このときに解体された遺構の木材が当寺に運ばれ縮小・復元されたのが、このお堂だという。このように数々の逸話がある、ここは千本釈迦堂…今京都。


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今京都 やくたい 2009/09/06 12:00 am
やくたい
迷惑。無謀。「こないしてもらいまして、ヤクタイどすがな」 ヤクタイは「益体」の意。もと益体は、きちんと整い、役に立つことをいった。それが「そないにあわてて、ヤクタイモナイことや」のように「益体無し、無益な」の意味で用いた。形容動詞はヤクタイナ。一説に「薬袋(やくたい)も無し」からだという。医者は薬袋が無いと治療ができない。それで無茶・無謀の意味になったと。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



地蔵物語(276)


迷惑。無謀。「こないしてもらいまして、ヤクタイどすがな」 ヤクタイは「益体」の意。もと益体は、きちんと整い、役に立つことをいった。それが「そないにあわてて、ヤクタイモナイことや」のように「益体無し、無益な」の意味で用いた。形容動詞はヤクタイナ。一説に「薬袋(やくたい)も無し」からだという。医者は薬袋が無いと治療ができない。それで無茶・無謀の意味になったと。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



地蔵物語(276)



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今京都 ごりがん 2009/09/05 12:00 am
ごりがん
ゴリガンは無理やりに自分の主張を押し通そうとすること、強引に無理を押し通してごてる人、ごり押しの頑固者のこと。ゴリガンのゴリは、ごり押しの略で、ガンは頑固者の「頑」。淡水魚のゴリ(ハゼ科)は京の名産。ゴリを捕らえるのに、ムシロを鴨川の浅瀬に伏せ、ムシロの上に多くの小石と土を敷き、ひとりが川下からゴリを追い、小石に隠れたゴリをふたりでムシロを持ち上げて取った。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
子安観世音 (旧フォトヴィレッジ 2007年3月18日掲載)
地蔵物語のビッグ版ともいえるかも知れないけれど、今出川通を斜めに横切る志賀越道の入り口に立つ高さ約2mの巨大な石仏。北白川の顔として地元住民だけでなく、広く市民に親しまれている。この石仏は、鎌倉時代中期ごろの作とされ、いくつかのエピソードの中でも、豊臣秀吉を負かしたことで有名。

そのエピソードとは、ある日、秀吉に気に入られ聚楽第(じゅらくだい)に連れ去られた。しかし「白川に戻せ〜」と毎夜うなり声を上げ、元の地に戻された。というもの。文政13(1830)年の白川村の大火では、両手と首がちぎれ「首切れ地蔵」と呼ばれた。その後、村の入口に当たる現在地に移され、子授けや安全の願いをかなえ、子どもの成長を守る観音として信仰を集めた。

かたわらにある看板には、「みちばたの 川にはさまれ 東むき あさひをうける 子安観音」という御詠歌が記されている。かつて志賀越道の脇には幅1.5mほどの川が流れ、挟まれて立っていた。東を向き、朝日を受ける姿を詠んでいるという。

京の町で四季の花を売り歩く「白川女」が早朝村を出ていく際には必ず花を供え、商売繁盛と一日の無事を祈たっり、出産間近でも行商に出る女性が多く途中で陣痛に襲われないように願ったという。時代とともに白川女は減り、今では10人ほどしかいないらしい。衣装を着て頭上に花を載せ、大八車を引く古来のスタイルはほとんど見られず、花を供えることも減ったという。実は、この日、「白川女」と出会えるかと期待したけれど、やはり無理だった。

さらに、この石仏は、数年前に走行中のトラックにぶつけられる事故に遭っている。胴体と頭部は丸太を使って別々の石で組み合わせた弱い構造だったため頭が転げ落ちた。その際、額を中心に表面が損傷し今もその部分だけは白くなっており、接着してセメントで塗り固めた痕跡が今でもはっきりと分かるのが痛々しい。しかし、「この石仏の周りでこれまで子どもが巻き込まれた交通事故は一度もない」という。

近くの久保田町西部・西町東部・西町西部の3町が輪番で世話をしている。毎月1日と15日は花を取り替え、絶やすことはない。ほこらは1953年に地元住民が浄財を出し合い、作った。「拾遺都名所図会」にも描かれているという…今京都。

ゴリガンは無理やりに自分の主張を押し通そうとすること、強引に無理を押し通してごてる人、ごり押しの頑固者のこと。ゴリガンのゴリは、ごり押しの略で、ガンは頑固者の「頑」。淡水魚のゴリ(ハゼ科)は京の名産。ゴリを捕らえるのに、ムシロを鴨川の浅瀬に伏せ、ムシロの上に多くの小石と土を敷き、ひとりが川下からゴリを追い、小石に隠れたゴリをふたりでムシロを持ち上げて取った。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
子安観世音 (旧フォトヴィレッジ 2007年3月18日掲載)
地蔵物語のビッグ版ともいえるかも知れないけれど、今出川通を斜めに横切る志賀越道の入り口に立つ高さ約2mの巨大な石仏。北白川の顔として地元住民だけでなく、広く市民に親しまれている。この石仏は、鎌倉時代中期ごろの作とされ、いくつかのエピソードの中でも、豊臣秀吉を負かしたことで有名。

そのエピソードとは、ある日、秀吉に気に入られ聚楽第(じゅらくだい)に連れ去られた。しかし「白川に戻せ〜」と毎夜うなり声を上げ、元の地に戻された。というもの。文政13(1830)年の白川村の大火では、両手と首がちぎれ「首切れ地蔵」と呼ばれた。その後、村の入口に当たる現在地に移され、子授けや安全の願いをかなえ、子どもの成長を守る観音として信仰を集めた。

かたわらにある看板には、「みちばたの 川にはさまれ 東むき あさひをうける 子安観音」という御詠歌が記されている。かつて志賀越道の脇には幅1.5mほどの川が流れ、挟まれて立っていた。東を向き、朝日を受ける姿を詠んでいるという。

京の町で四季の花を売り歩く「白川女」が早朝村を出ていく際には必ず花を供え、商売繁盛と一日の無事を祈たっり、出産間近でも行商に出る女性が多く途中で陣痛に襲われないように願ったという。時代とともに白川女は減り、今では10人ほどしかいないらしい。衣装を着て頭上に花を載せ、大八車を引く古来のスタイルはほとんど見られず、花を供えることも減ったという。実は、この日、「白川女」と出会えるかと期待したけれど、やはり無理だった。

さらに、この石仏は、数年前に走行中のトラックにぶつけられる事故に遭っている。胴体と頭部は丸太を使って別々の石で組み合わせた弱い構造だったため頭が転げ落ちた。その際、額を中心に表面が損傷し今もその部分だけは白くなっており、接着してセメントで塗り固めた痕跡が今でもはっきりと分かるのが痛々しい。しかし、「この石仏の周りでこれまで子どもが巻き込まれた交通事故は一度もない」という。

近くの久保田町西部・西町東部・西町西部の3町が輪番で世話をしている。毎月1日と15日は花を取り替え、絶やすことはない。ほこらは1953年に地元住民が浄財を出し合い、作った。「拾遺都名所図会」にも描かれているという…今京都。


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今京都 てったい 2009/09/03 12:00 am
てったい
手伝い。大工や左官の助手。「このごろテッタイやってます」 テッタイサンとも。土木関係の雇い人夫のことも呼ぶ。江戸時代の文政4(1821)年刊『浪花方言』には「手伝。江戸の仕事師のこと、大工の手伝也」とある。手伝うをテッタウということから。テッタイは「手のトビ(提供)」ということで、テトウは助ける、労力を提供して報償を予期すること。「ちょっとテットテンか」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
一条戻橋(いちじょうもどりばし) (旧フォトヴィレッジ 2007年3月2日掲載)
西行き一方通行をひっきりなしに車が通る一条通堀川の戻橋。かつては出征する兵士が無事に帰還できるよう験を担いでここを渡った。婚礼や葬儀の一行は今も避けて通る。伝えられる不思議な話の数は京でも随一。その名は死者がよみがえった伝説に由来する。

平安中期の918年、文章博士の三善清行(みよしきよゆき)の葬列がこの橋にさしかかった時、修験道の修行から帰京した息子の浄蔵(じょうぞう)が父の棺と出会う。変わり果てた姿に浄蔵は「父の魂を戻してほしい」と一心に読経した。すると清行が息を吹き返し、親子は涙を流して喜んだ。以来、死者が戻る橋として現在の名がついた。

橋から約200m北の晴明神社とのかかわりも深い。浄蔵の時代から80年ほど後、陰陽師の安倍晴明は式神を屋敷そばの戻橋の下に潜ませ、予言や占いの際に操ったという。晴明の妻が式神が屋敷内にいるのを嫌がったため、橋の下の石棺に封じたとされる。都の内と外を隔てる地だったから霊的な物語が生まれやすかったのでは…と想像する。

堀川は、かつての内裏の東側外堀の役割を果たし、一条通は平安京の最も北の通りだった。都の鬼門である北東角に当たり、伝説が数多く生まれたとされる。晴明がここに住んだのも鬼門の守護のためだった。平安中期の伝承では、源頼光の家来、渡辺綱が戻橋で美女に化けた鬼と出会い、正体を見破って鬼の腕を切り落とした。鬼はその後、腕を取り返しに戻ってきたという。おどろおどろしい事件もあった。1591年、千利休がこの地に構えた屋敷で自害すると、その首は戻橋にさらされ、大徳寺にあった利休の木像で、首を踏みつけにしたとされる。

晴明神社境内に再現されているミニチュア版の「旧一條戻橋」
周辺で生まれ育った人々は「不気味な橋だったから子供にとっては面白い探検場所だったが、大人に『橋で遊んだ』と言うとえらい怒られた」と幼いころを語る。現在の橋は1995年に架け替えられた。大正時代から出征者を見送ってきた先代の橋は、親柱や木製欄干などを再利用したミニチュア版の「旧一條戻橋」として晴明神社境内に再現されている…今京都。

手伝い。大工や左官の助手。「このごろテッタイやってます」 テッタイサンとも。土木関係の雇い人夫のことも呼ぶ。江戸時代の文政4(1821)年刊『浪花方言』には「手伝。江戸の仕事師のこと、大工の手伝也」とある。手伝うをテッタウということから。テッタイは「手のトビ(提供)」ということで、テトウは助ける、労力を提供して報償を予期すること。「ちょっとテットテンか」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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一条戻橋(いちじょうもどりばし) (旧フォトヴィレッジ 2007年3月2日掲載)
西行き一方通行をひっきりなしに車が通る一条通堀川の戻橋。かつては出征する兵士が無事に帰還できるよう験を担いでここを渡った。婚礼や葬儀の一行は今も避けて通る。伝えられる不思議な話の数は京でも随一。その名は死者がよみがえった伝説に由来する。

平安中期の918年、文章博士の三善清行(みよしきよゆき)の葬列がこの橋にさしかかった時、修験道の修行から帰京した息子の浄蔵(じょうぞう)が父の棺と出会う。変わり果てた姿に浄蔵は「父の魂を戻してほしい」と一心に読経した。すると清行が息を吹き返し、親子は涙を流して喜んだ。以来、死者が戻る橋として現在の名がついた。

橋から約200m北の晴明神社とのかかわりも深い。浄蔵の時代から80年ほど後、陰陽師の安倍晴明は式神を屋敷そばの戻橋の下に潜ませ、予言や占いの際に操ったという。晴明の妻が式神が屋敷内にいるのを嫌がったため、橋の下の石棺に封じたとされる。都の内と外を隔てる地だったから霊的な物語が生まれやすかったのでは…と想像する。

堀川は、かつての内裏の東側外堀の役割を果たし、一条通は平安京の最も北の通りだった。都の鬼門である北東角に当たり、伝説が数多く生まれたとされる。晴明がここに住んだのも鬼門の守護のためだった。平安中期の伝承では、源頼光の家来、渡辺綱が戻橋で美女に化けた鬼と出会い、正体を見破って鬼の腕を切り落とした。鬼はその後、腕を取り返しに戻ってきたという。おどろおどろしい事件もあった。1591年、千利休がこの地に構えた屋敷で自害すると、その首は戻橋にさらされ、大徳寺にあった利休の木像で、首を踏みつけにしたとされる。

晴明神社境内に再現されているミニチュア版の「旧一條戻橋」
周辺で生まれ育った人々は「不気味な橋だったから子供にとっては面白い探検場所だったが、大人に『橋で遊んだ』と言うとえらい怒られた」と幼いころを語る。現在の橋は1995年に架け替えられた。大正時代から出征者を見送ってきた先代の橋は、親柱や木製欄干などを再利用したミニチュア版の「旧一條戻橋」として晴明神社境内に再現されている…今京都。


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今京都 ひざぼん 2009/09/01 12:00 am
ひざぼん
「ヒザボン擦りむいて痛い」 ひざ頭のこと。「膝坊主」を略した「膝坊」から。ヒザボシとも言う。「膝法師」に由来する。ひざ頭が法師の頭の形に似ていることによる。「ヒザボン談合」という諺がある。大変困っているときには、膝も相談相手になるという意味である。「膝とも談合」とも。誰にでも相談してみれば、それだけの効果があるというもの。談合を、昔はダンコウと発音した。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
長月。今日から9月。暦の上では「秋」だ。「秋」という言葉は、実り豊かなイメージの奥に凋落(ちょうらく)の響きを宿す。「秋扇(しゅうせん)」といえば、夏には重宝された扇が、秋風とともに打ち捨てられて顧みられなくなる悲哀をいう。まだまだ残暑の厳しい日もあるだろうが、秋を出迎えに、どこかへ行ってみたいものだ。
薬祖神祠(やくそじんし) (旧フォトヴィレッジ 2007年2月23日掲載)
薬問屋が並ぶ二条通の一角にある祠(ほこら)「薬祖神祠」。ここには、なんと日本・中国・ギリシャの神が合祀(ごうし)されているという。大巳貴命(おおなむちのみこと)(大国主命(おおくにぬしのみこと))と小彦名命(すくなひこなのみこと)、中国の医薬の神様「神農」、西洋医学の父とされるギリシャの哲学者「ヒポクラテス」だという。京都では「一条戻り橋、二条きぐすり屋…」といわれるように、二条通は1600年ごろから薬の町として栄えた。

11月に行われる「薬祖神祭」は江戸後期に「薬師講」として始まったとされ、二条の薬業仲間が集まり酒を酌み交わした時に神農像などを祭ったという。この祭りは「二条の神農さん」と呼ばれ、京都の年中行事の一つに数えられるほど盛大だった。1864年の蛤(はまぐり)御門の変で、二条の薬業街が焼失した時でさえも「神農尊の御神事滞りなく相済まし申候」との記録があり、祭りは例年通り行われたという。明治維新の後、一時中断されていたが、1880年に復興した。当時、欧州からも薬を輸入するようになっていたため、西洋の神様も必要とヒポクラテスを祖神に加え、1906年に現在の地に祠を移した。現在保管している神農像は、宇治市の黄檗山万福寺の隠元が持ち込んだものとされ、1858年のコレラ流行の時も、悪疫をはらったと伝わる。

東洞院通から衣棚通まで夜店が並び、ひしめき合うほどの人出だった「神農さん」も、今では夜店がなくなるくらいに衰退したとのこと。衰退した背景は50軒以上あった薬問屋も20年ほど前から大手企業に吸収合併され、10軒ほどに減ったというもの。祠の向かって左隣にあるのは江戸時代からの薬問屋で今でも現役。10軒ほどのうちの1軒なんだけれど、その歴史に驚く。「薬は健康管理にはなくてはならないもの。市民にもご利益は大きい」ので薬祖神祠を核にした町の活性化を期待しているというが、さて結果はいかに…。
さて、薬祖神祭は、明治天皇の誕生日にちなんで11月2、3日だったが、現在は第1金曜に改められた。神主を招いて神事を行い、神楽を奉納。参拝者には薬効のある笹の葉を配布。笹にはお守り袋と陶製のトラが取り付けられてある、とのことだ…今京都。

「ヒザボン擦りむいて痛い」 ひざ頭のこと。「膝坊主」を略した「膝坊」から。ヒザボシとも言う。「膝法師」に由来する。ひざ頭が法師の頭の形に似ていることによる。「ヒザボン談合」という諺がある。大変困っているときには、膝も相談相手になるという意味である。「膝とも談合」とも。誰にでも相談してみれば、それだけの効果があるというもの。談合を、昔はダンコウと発音した。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
長月。今日から9月。暦の上では「秋」だ。「秋」という言葉は、実り豊かなイメージの奥に凋落(ちょうらく)の響きを宿す。「秋扇(しゅうせん)」といえば、夏には重宝された扇が、秋風とともに打ち捨てられて顧みられなくなる悲哀をいう。まだまだ残暑の厳しい日もあるだろうが、秋を出迎えに、どこかへ行ってみたいものだ。
薬祖神祠(やくそじんし) (旧フォトヴィレッジ 2007年2月23日掲載)
薬問屋が並ぶ二条通の一角にある祠(ほこら)「薬祖神祠」。ここには、なんと日本・中国・ギリシャの神が合祀(ごうし)されているという。大巳貴命(おおなむちのみこと)(大国主命(おおくにぬしのみこと))と小彦名命(すくなひこなのみこと)、中国の医薬の神様「神農」、西洋医学の父とされるギリシャの哲学者「ヒポクラテス」だという。京都では「一条戻り橋、二条きぐすり屋…」といわれるように、二条通は1600年ごろから薬の町として栄えた。

11月に行われる「薬祖神祭」は江戸後期に「薬師講」として始まったとされ、二条の薬業仲間が集まり酒を酌み交わした時に神農像などを祭ったという。この祭りは「二条の神農さん」と呼ばれ、京都の年中行事の一つに数えられるほど盛大だった。1864年の蛤(はまぐり)御門の変で、二条の薬業街が焼失した時でさえも「神農尊の御神事滞りなく相済まし申候」との記録があり、祭りは例年通り行われたという。明治維新の後、一時中断されていたが、1880年に復興した。当時、欧州からも薬を輸入するようになっていたため、西洋の神様も必要とヒポクラテスを祖神に加え、1906年に現在の地に祠を移した。現在保管している神農像は、宇治市の黄檗山万福寺の隠元が持ち込んだものとされ、1858年のコレラ流行の時も、悪疫をはらったと伝わる。

東洞院通から衣棚通まで夜店が並び、ひしめき合うほどの人出だった「神農さん」も、今では夜店がなくなるくらいに衰退したとのこと。衰退した背景は50軒以上あった薬問屋も20年ほど前から大手企業に吸収合併され、10軒ほどに減ったというもの。祠の向かって左隣にあるのは江戸時代からの薬問屋で今でも現役。10軒ほどのうちの1軒なんだけれど、その歴史に驚く。「薬は健康管理にはなくてはならないもの。市民にもご利益は大きい」ので薬祖神祠を核にした町の活性化を期待しているというが、さて結果はいかに…。
さて、薬祖神祭は、明治天皇の誕生日にちなんで11月2、3日だったが、現在は第1金曜に改められた。神主を招いて神事を行い、神楽を奉納。参拝者には薬効のある笹の葉を配布。笹にはお守り袋と陶製のトラが取り付けられてある、とのことだ…今京都。

