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今京都 えずくろしい 2009/09/17 12:00 am
えぞくろしい
くどくどしい。度を越して気味が悪い。「ごてごて口紅塗ってエズクロシイ」「エズクロシイ格好して、どこへ行くのや」 エズクルシイ・エゾクルシイともいう。「エズクロシイ化粧」し「毒々しい化粧」であり、「エズクロシイ話」は、しつこい繰り言。吐き気を催す、嘔吐するのエズクからの語。「隣のお嫁さんエズイタはるし、おめでたやろか」 エズクのエは吐き出す音から。ズクは「吐(つ)く」の意。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
木列(狐)坂(きつねざか) (旧フォトヴィレッジ 2007年5月13・14日掲載)

五山の送り火の一つ「妙」の山すそを横切る「狐坂」。自動車専用の高架橋が2006年4月に開通し、岩倉方面への交通はより便利になった。見通しのよい高架橋の下には、大きく曲がった急な坂道が歩行者・自転車専用道路として走る。整備された道路には、険しい峠道のイメージはない。地元には、かつて「木列(きつれ)坂」と呼ばれていた頃の話が伝わる。

その話とは…。
岩倉から嫁いできた働き者の「およし」が、病気の母親の看病のために、夜にササや下草が茂る真っ暗なこの峠道を不安な足取りで歩いていた。すると、ぼんやりとした灯火が招くように進んでいく。てっきり父親が迎えに来てくれたものと、灯火を追って歩くと、実家の裏で明かりは消えてしまった。「およし」は毎晩、畑仕事を終えた後に看病に通う。木列坂にさしかかると、小さい灯がおよしの足元を照らし、道先案内をしてくれる。

看病のかいがあって、母親の病気も日ごとよくなった。そうこうしている七日目の晩、「およし」がいつものように灯火をたよりに実家に着くと、火はスーッと尾をひいて山の方に飛んで行き、そのあとから一匹のキツネが走っていくのが見えたという。母親はすっかりよくなり「およし」はキツネに感謝して、木列坂の上り口に小さなほこらを作って毎日お参りしたという。

看病の娘を狐が道案内をしたというこの道は、昔は今以上にヘアピンカーブで、かなり急な坂道。ササが茂って道幅も狭く、大八車がやっと通れるぐらいだという。夕方は怖くてとても近づけなかったというくらいの道だったらしい。狐坂の名の通り、昭和一桁の頃は、夕方になると山で『ギャー』というような鳴き声が聞こえたという。この歩行者・自転車専用となっている道路は、1965(昭和40)年、国立京都国際会館の開館を機に整備され、主要道路として車の往来が激しかった。2006年4月に高架橋が開通するまでは、この道を大型バスが行きかう。この坂道は江戸時代の都名所図会には「木摺(きすれ)坂」の表記もあるという。


また、ここにはキツネに感謝して作った祠以外にも、坂を行き来する人々の喉を潤した「桜井水」も残っている…今京都。

くどくどしい。度を越して気味が悪い。「ごてごて口紅塗ってエズクロシイ」「エズクロシイ格好して、どこへ行くのや」 エズクルシイ・エゾクルシイともいう。「エズクロシイ化粧」し「毒々しい化粧」であり、「エズクロシイ話」は、しつこい繰り言。吐き気を催す、嘔吐するのエズクからの語。「隣のお嫁さんエズイタはるし、おめでたやろか」 エズクのエは吐き出す音から。ズクは「吐(つ)く」の意。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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木列(狐)坂(きつねざか) (旧フォトヴィレッジ 2007年5月13・14日掲載)

五山の送り火の一つ「妙」の山すそを横切る「狐坂」。自動車専用の高架橋が2006年4月に開通し、岩倉方面への交通はより便利になった。見通しのよい高架橋の下には、大きく曲がった急な坂道が歩行者・自転車専用道路として走る。整備された道路には、険しい峠道のイメージはない。地元には、かつて「木列(きつれ)坂」と呼ばれていた頃の話が伝わる。

その話とは…。
岩倉から嫁いできた働き者の「およし」が、病気の母親の看病のために、夜にササや下草が茂る真っ暗なこの峠道を不安な足取りで歩いていた。すると、ぼんやりとした灯火が招くように進んでいく。てっきり父親が迎えに来てくれたものと、灯火を追って歩くと、実家の裏で明かりは消えてしまった。「およし」は毎晩、畑仕事を終えた後に看病に通う。木列坂にさしかかると、小さい灯がおよしの足元を照らし、道先案内をしてくれる。

看病のかいがあって、母親の病気も日ごとよくなった。そうこうしている七日目の晩、「およし」がいつものように灯火をたよりに実家に着くと、火はスーッと尾をひいて山の方に飛んで行き、そのあとから一匹のキツネが走っていくのが見えたという。母親はすっかりよくなり「およし」はキツネに感謝して、木列坂の上り口に小さなほこらを作って毎日お参りしたという。

看病の娘を狐が道案内をしたというこの道は、昔は今以上にヘアピンカーブで、かなり急な坂道。ササが茂って道幅も狭く、大八車がやっと通れるぐらいだという。夕方は怖くてとても近づけなかったというくらいの道だったらしい。狐坂の名の通り、昭和一桁の頃は、夕方になると山で『ギャー』というような鳴き声が聞こえたという。この歩行者・自転車専用となっている道路は、1965(昭和40)年、国立京都国際会館の開館を機に整備され、主要道路として車の往来が激しかった。2006年4月に高架橋が開通するまでは、この道を大型バスが行きかう。この坂道は江戸時代の都名所図会には「木摺(きすれ)坂」の表記もあるという。


また、ここにはキツネに感謝して作った祠以外にも、坂を行き来する人々の喉を潤した「桜井水」も残っている…今京都。


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今京都 だいもんじ 2009/09/15 12:00 am
だいもんじ
大文字の送り火をダイモンジという。盂蘭盆の行事である。8月16日の夜、東山の大文字山に「大」の字がともる。このほか、周辺野山腹に「左大文字・妙法の字・鳥居形・船形」の火がともる。大文字の送り火を盆の酒に映して飲むと、病気にかからないという。送り火のカラケシ(消し炭)を水に溶かして飲み、カラケシを半紙に包んで玄関につるすと、魔よけになるとの言い伝えもある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
★関連記事はここ(←クリック)
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今京都
少し雰囲気を変えて、京都・嵐山鵜飼のシーンから。










「鵜」は、ペリカン目ウ科の鳥の総称で、海岸・湖沼などに群生する。羽は黒く、つやがあり、くちばしは細長く鋭い。潜水して魚を捕らえ、水面に浮上してから飲み込む。日本にはウミウ・カワウ・ヒメウなどがすむ。鵜飼いに用いるのは主にウミウ。ということだ。
鵜匠がたずなを引く鵜たちにもチームリーダーがいるという。そのリーダーの鵜が右を向くとチーム全体が右を向くらしい。鵜匠はチームリーダーの鵜を手なづけるだけでよいとか。京都・嵐山の鵜飼公開は、暑い京都の晩夏を惜しむかのように9月いっぱいまで実施される…今京都。

大文字の送り火をダイモンジという。盂蘭盆の行事である。8月16日の夜、東山の大文字山に「大」の字がともる。このほか、周辺野山腹に「左大文字・妙法の字・鳥居形・船形」の火がともる。大文字の送り火を盆の酒に映して飲むと、病気にかからないという。送り火のカラケシ(消し炭)を水に溶かして飲み、カラケシを半紙に包んで玄関につるすと、魔よけになるとの言い伝えもある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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今京都
少し雰囲気を変えて、京都・嵐山鵜飼のシーンから。










「鵜」は、ペリカン目ウ科の鳥の総称で、海岸・湖沼などに群生する。羽は黒く、つやがあり、くちばしは細長く鋭い。潜水して魚を捕らえ、水面に浮上してから飲み込む。日本にはウミウ・カワウ・ヒメウなどがすむ。鵜飼いに用いるのは主にウミウ。ということだ。
鵜匠がたずなを引く鵜たちにもチームリーダーがいるという。そのリーダーの鵜が右を向くとチーム全体が右を向くらしい。鵜匠はチームリーダーの鵜を手なづけるだけでよいとか。京都・嵐山の鵜飼公開は、暑い京都の晩夏を惜しむかのように9月いっぱいまで実施される…今京都。


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今京都 いらう 2009/09/13 12:00 am
いらう
触る。いじる。もてあそぶ。「汚い手でイラワンといて」「あんまりイラウと潰れるがな」 平安時代の「いろふ」が、江戸時代の初めに「いらふ」になった。井原西鶴の『西鶴織留』に「胸あけてかみさまに乳をいらはれ」とある。「いろふ」は、かかわりあう、干渉するの意味であった。イジクルは、手でいろいろとこね回すこと。
「いじる」に「繰る」を付けた。「あんまりイジクルと良い作品ができひん」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



地蔵物語(277)


触る。いじる。もてあそぶ。「汚い手でイラワンといて」「あんまりイラウと潰れるがな」 平安時代の「いろふ」が、江戸時代の初めに「いらふ」になった。井原西鶴の『西鶴織留』に「胸あけてかみさまに乳をいらはれ」とある。「いろふ」は、かかわりあう、干渉するの意味であった。イジクルは、手でいろいろとこね回すこと。
「いじる」に「繰る」を付けた。「あんまりイジクルと良い作品ができひん」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



地蔵物語(277)



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今京都 せんだい 2009/09/12 12:00 am
せんだい
「遠慮せんと、セイダイ食べてんか」「セイダイ気張って働いてんか」 精出して、うんと、せいぜいの意。精いっぱい、やっとを表わす精際(せいさい)から。かつて「セイサイ五百円ほどや」と言った。「せいぜい」ということから「十分、たくさん」の意になった。「力の限り、一生懸命に」の意味で、センギイッキという。「センギイッキ走ったさかい、しんどいのや」「詮議(せんぎ)を一気にする」ことによる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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今京都
今日は少し過去の再掲を中断して、お月様。




♪ 月はおぼろに東山 霞(かす)む夜毎(よごと)のかがり火に 夢もいざよう紅桜
しのぶ思いを振袖(ふりそで)に 祗園恋しや だらりの帯よ ♪
舞妓の舞いで歌われた流行歌のひとつ、祇園小唄。京都嵐山で、遠くに見える東山からお月さまが…今京都。

「遠慮せんと、セイダイ食べてんか」「セイダイ気張って働いてんか」 精出して、うんと、せいぜいの意。精いっぱい、やっとを表わす精際(せいさい)から。かつて「セイサイ五百円ほどや」と言った。「せいぜい」ということから「十分、たくさん」の意になった。「力の限り、一生懸命に」の意味で、センギイッキという。「センギイッキ走ったさかい、しんどいのや」「詮議(せんぎ)を一気にする」ことによる。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
今京都
今日は少し過去の再掲を中断して、お月様。




♪ 月はおぼろに東山 霞(かす)む夜毎(よごと)のかがり火に 夢もいざよう紅桜
しのぶ思いを振袖(ふりそで)に 祗園恋しや だらりの帯よ ♪
舞妓の舞いで歌われた流行歌のひとつ、祇園小唄。京都嵐山で、遠くに見える東山からお月さまが…今京都。


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今京都 いぬやらい 2009/09/10 12:00 am
いぬやらい
犬矢来は、通りに面した町家のベンガラ格子の前に、割った竹を曲げ囲いにしたもの。犬走りの矢来ということから。犬走りは犬が小股でちょこちょこ走る所。竹を組んで作った仮の囲いが矢来。ベンガラ格子は、室内の明るさを保ちながら、表通りからは室内が見えにくい。顔を近づけると、覗き見ることができるが、犬矢来のために近づけない。ベンガラ(紅殻)はインドのベンガル地方産の塗料。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
★関連記事はここ(←クリック)
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八坂神社御供社(やさかじんじゃごくうしゃ) (旧フォトヴィレッジ 2007年4月8日掲載)
京都市中京区の京都三条会商店街の一角の三条通黒門の北西角に小さな社が静かに立っている。八坂神社御供社だ。八坂神社といえば四条通りの東詰めにあり、祇園祭には欠かせない社なんだけれど、何故ここにあるのか、由来を知る人は意外に少ない。

歴史は貞観11(869)年にさかのぼる。その年に、平安京を原因不明の疫病が襲う。朝廷も民衆も恐怖に陥る。疫病は疫神や怨霊の仕業と考えられ、これを鎮める御霊会が行われたことによる。御霊会は、平安京内の広大な庭園だった神泉苑の池のほとりで営まれた。当時の国の数と同じ66本の鉾を立て、同時に祇園社(現在の八坂神社)からスサノオノミコトなど三基の神輿を迎えた。後に神泉苑の東南端の地に社が置かれ、これが御供社につながるという。

江戸初期に徳川家康が二条城を築城した際に神泉苑は大幅に縮小したが、建物も行事も大切に継承されてきた。1906(明治39)年に八坂神社の末社となり現在に至るという。毎年7月24日の祇園祭「還幸祭」では、祭りの前日に御供社の前に池の水辺を表す芝生を敷き、「オハケ」という3本の御幣(神様が宿る場所の目印)を立てる。ここで神饌(しんせん)を供えることが、この社の呼び名の由来となっているという。さらに還幸祭の神輿は今も御供社を経て八坂神社まで担がれるという。

5月のお田植え祭、祇園祭の吉符入りなど、年間を通して絶え間ない祭りがあり、それを支えているのが地元の町衆でつくる三若神輿会(さんわかしんよかい)。還幸祭の三基の神輿のうちスサノオノミコトの神輿を担当している。現在は地元の12世帯が世襲で運営組織の役員などを務めているという。

祇園祭では山鉾巡行ばかりが注目されがちだけれど、神輿の巡行も祇園祭の立派な中心行事。最近では、商店街を中心に御供社の重要性を見直す動きが高まっているという。歴史を学ぶほど御供社の貴重さが見えてきて、次の世代にきちんと継承したいという思いが強くなってきている証ね。毎月の清掃活動を始め、還幸祭では昨年、初めて子供たちが堤灯行列で神輿を迎えたという。

政教分離が大原則の現代では考えられないが、当時は疫病を鎮めるために神様を頼った。出入り自由のこの小空間には今でも疫病封じの信仰が深く、途方もない歴史が詰まっているのに違いない。祇園祭では、四条御旅所(四条寺町東入ル)に一度神輿を安置した後、この地に神輿が移るため「またたびさん」との愛称でも呼ばれている…今京都。

犬矢来は、通りに面した町家のベンガラ格子の前に、割った竹を曲げ囲いにしたもの。犬走りの矢来ということから。犬走りは犬が小股でちょこちょこ走る所。竹を組んで作った仮の囲いが矢来。ベンガラ格子は、室内の明るさを保ちながら、表通りからは室内が見えにくい。顔を近づけると、覗き見ることができるが、犬矢来のために近づけない。ベンガラ(紅殻)はインドのベンガル地方産の塗料。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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八坂神社御供社(やさかじんじゃごくうしゃ) (旧フォトヴィレッジ 2007年4月8日掲載)
京都市中京区の京都三条会商店街の一角の三条通黒門の北西角に小さな社が静かに立っている。八坂神社御供社だ。八坂神社といえば四条通りの東詰めにあり、祇園祭には欠かせない社なんだけれど、何故ここにあるのか、由来を知る人は意外に少ない。

歴史は貞観11(869)年にさかのぼる。その年に、平安京を原因不明の疫病が襲う。朝廷も民衆も恐怖に陥る。疫病は疫神や怨霊の仕業と考えられ、これを鎮める御霊会が行われたことによる。御霊会は、平安京内の広大な庭園だった神泉苑の池のほとりで営まれた。当時の国の数と同じ66本の鉾を立て、同時に祇園社(現在の八坂神社)からスサノオノミコトなど三基の神輿を迎えた。後に神泉苑の東南端の地に社が置かれ、これが御供社につながるという。

江戸初期に徳川家康が二条城を築城した際に神泉苑は大幅に縮小したが、建物も行事も大切に継承されてきた。1906(明治39)年に八坂神社の末社となり現在に至るという。毎年7月24日の祇園祭「還幸祭」では、祭りの前日に御供社の前に池の水辺を表す芝生を敷き、「オハケ」という3本の御幣(神様が宿る場所の目印)を立てる。ここで神饌(しんせん)を供えることが、この社の呼び名の由来となっているという。さらに還幸祭の神輿は今も御供社を経て八坂神社まで担がれるという。

5月のお田植え祭、祇園祭の吉符入りなど、年間を通して絶え間ない祭りがあり、それを支えているのが地元の町衆でつくる三若神輿会(さんわかしんよかい)。還幸祭の三基の神輿のうちスサノオノミコトの神輿を担当している。現在は地元の12世帯が世襲で運営組織の役員などを務めているという。

祇園祭では山鉾巡行ばかりが注目されがちだけれど、神輿の巡行も祇園祭の立派な中心行事。最近では、商店街を中心に御供社の重要性を見直す動きが高まっているという。歴史を学ぶほど御供社の貴重さが見えてきて、次の世代にきちんと継承したいという思いが強くなってきている証ね。毎月の清掃活動を始め、還幸祭では昨年、初めて子供たちが堤灯行列で神輿を迎えたという。

政教分離が大原則の現代では考えられないが、当時は疫病を鎮めるために神様を頼った。出入り自由のこの小空間には今でも疫病封じの信仰が深く、途方もない歴史が詰まっているのに違いない。祇園祭では、四条御旅所(四条寺町東入ル)に一度神輿を安置した後、この地に神輿が移るため「またたびさん」との愛称でも呼ばれている…今京都。

