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今京都 やつし 2009/11/17 12:00 am
やつし
おめかしをする人。「ええ着物着てヤツシやな」 ヤツスという動詞から。ヤツスはめかす、おしゃれをする、化粧する。「そないにヤツシテ誰に会いにいくのや」 ヤツレルと同じ語源。もとは姿をみすぼらしく変えることだった。目立たないように変装することが、歌舞伎で美しく化粧するの意味になり一般に広まった。メカシとも。「めかす」からで、もとは「色めかす」のメカスのように接尾辞に基づく。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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室町六角の鯉山 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月2日掲載)
呉服問屋が並ぶ京都市中京区の室町通。六角通〜蛸薬師通に挟まれた鯉山町は、名工の左甚五郎が彫刻を手がけた祇園祭の鯉山で知られる。鯉山の由来は中国の故事「登竜門」にちなむ。「黄河の激流でコイが滝を上り、竜になった」との伝えから、出世開運を願っているという。だが、他にも地元住民が好んで口にする昔話がある。その昔話とは…。

昔、室町六角に正直な男と曲がったことが大嫌いな大家がいた。ある日、大家が用事で大津へ行っての帰り、小判三枚を懐に琵琶湖の渡し船に乗ったが、過って小判を湖に落としてしまう。京に戻った大家は一部始終を正直者の男に打ち明ける。数日後、大津から川魚屋がやって来て、男はコイを買い求め、包丁を入れると、なんと腹から小判三枚が出てきた。男はすぐに大家の元へ。しかし、大家は「小判はコイを買うた者のものや」と受け取らない。男も「落とした小判に違いない」と譲らない。困り果てた二人がお役人に相談すると、お役人は「その小判でコイを彫ってもらい、祇園祭の山にしたら」と提案。二人は喜び、近くに住む左甚五郎に依頼。左甚五郎が見事なコイをこしらえたという。

20年ほど前から和装の不振などで鯉山町の人口は急減。子どもの姿は消え、この昔話が語られることもなくなった。しかし、今から10年程前に状況が変わる。大型マンションが完成し、人口増加とともに再び子どもの笑い声が町内に響き始めたのである。

町の人々は祇園祭や地蔵盆で子どもたちにこの昔話を語り聞かせる。鯉山にまつわる物語に、小さな瞳は輝き、親たちも「町内にそんな昔話があるなんて」と驚いているという。そんな家族たちが今では新しい町衆として祇園祭の担い手になり、春には町内で祇園祭の縁起物「茅(ち)の輪」作りが始まる。「人の絆の深さも鯉山も町内の誇り。両方を伝える昔話を途絶えることなく将来に語り継ぎたい」と新旧の町内人は口にする。この町はかつて「常楽寺一丁目」と呼ばれていたが、毎年祇園祭で鯉山を出す町として定着し、16世紀末期に正式に鯉山町となった。

鯉山を飾るタペストリーは「トロイ戦争」をモチーフにしたベルギー産で重要文化財に指定されているという。大型マンションが次々に建築されていく京都。「景観が変わる」と悲鳴に近い反対の声も多いが、その大型マンションに移り住む人々が町内の昔話を救ったというお話。この現象には言い表せない複雑なものがあるが、新旧の町内人が仲良く昔話を語り継いでいくことを強く願いたい…今京都。

おめかしをする人。「ええ着物着てヤツシやな」 ヤツスという動詞から。ヤツスはめかす、おしゃれをする、化粧する。「そないにヤツシテ誰に会いにいくのや」 ヤツレルと同じ語源。もとは姿をみすぼらしく変えることだった。目立たないように変装することが、歌舞伎で美しく化粧するの意味になり一般に広まった。メカシとも。「めかす」からで、もとは「色めかす」のメカスのように接尾辞に基づく。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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室町六角の鯉山 (旧フォトヴィレッジ 2007年11月2日掲載)
呉服問屋が並ぶ京都市中京区の室町通。六角通〜蛸薬師通に挟まれた鯉山町は、名工の左甚五郎が彫刻を手がけた祇園祭の鯉山で知られる。鯉山の由来は中国の故事「登竜門」にちなむ。「黄河の激流でコイが滝を上り、竜になった」との伝えから、出世開運を願っているという。だが、他にも地元住民が好んで口にする昔話がある。その昔話とは…。

昔、室町六角に正直な男と曲がったことが大嫌いな大家がいた。ある日、大家が用事で大津へ行っての帰り、小判三枚を懐に琵琶湖の渡し船に乗ったが、過って小判を湖に落としてしまう。京に戻った大家は一部始終を正直者の男に打ち明ける。数日後、大津から川魚屋がやって来て、男はコイを買い求め、包丁を入れると、なんと腹から小判三枚が出てきた。男はすぐに大家の元へ。しかし、大家は「小判はコイを買うた者のものや」と受け取らない。男も「落とした小判に違いない」と譲らない。困り果てた二人がお役人に相談すると、お役人は「その小判でコイを彫ってもらい、祇園祭の山にしたら」と提案。二人は喜び、近くに住む左甚五郎に依頼。左甚五郎が見事なコイをこしらえたという。

20年ほど前から和装の不振などで鯉山町の人口は急減。子どもの姿は消え、この昔話が語られることもなくなった。しかし、今から10年程前に状況が変わる。大型マンションが完成し、人口増加とともに再び子どもの笑い声が町内に響き始めたのである。

町の人々は祇園祭や地蔵盆で子どもたちにこの昔話を語り聞かせる。鯉山にまつわる物語に、小さな瞳は輝き、親たちも「町内にそんな昔話があるなんて」と驚いているという。そんな家族たちが今では新しい町衆として祇園祭の担い手になり、春には町内で祇園祭の縁起物「茅(ち)の輪」作りが始まる。「人の絆の深さも鯉山も町内の誇り。両方を伝える昔話を途絶えることなく将来に語り継ぎたい」と新旧の町内人は口にする。この町はかつて「常楽寺一丁目」と呼ばれていたが、毎年祇園祭で鯉山を出す町として定着し、16世紀末期に正式に鯉山町となった。

鯉山を飾るタペストリーは「トロイ戦争」をモチーフにしたベルギー産で重要文化財に指定されているという。大型マンションが次々に建築されていく京都。「景観が変わる」と悲鳴に近い反対の声も多いが、その大型マンションに移り住む人々が町内の昔話を救ったというお話。この現象には言い表せない複雑なものがあるが、新旧の町内人が仲良く昔話を語り継いでいくことを強く願いたい…今京都。


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今京都 ひね 2009/11/15 12:00 am
ひね
長く漬けた漬物。「ヒネみたいに元気ないな」 穀類などの古くて味が落ちていることにも言う。小さく老成した人、ひねくれ者、売れ残りの古い品物にも。ヒネは「経稲」の略か。おくての稲、前年以前に収穫の稲。古びたショウガは「ヒネ生姜」である。ヒネカボチャは、老成ぶったことを言う少年のことをあざけって使う。古くなって臭いがするのを「ヒネクサイ」と形容する。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



地蔵物語(283)


長く漬けた漬物。「ヒネみたいに元気ないな」 穀類などの古くて味が落ちていることにも言う。小さく老成した人、ひねくれ者、売れ残りの古い品物にも。ヒネは「経稲」の略か。おくての稲、前年以前に収穫の稲。古びたショウガは「ヒネ生姜」である。ヒネカボチャは、老成ぶったことを言う少年のことをあざけって使う。古くなって臭いがするのを「ヒネクサイ」と形容する。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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羅漢



地蔵物語(283)



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今京都 にぬき 2009/11/14 12:00 am
にぬき
ゆで卵のこと。「お弁当にニヌキ入れとくわ」 ニヌキは「煮抜く」の意味で、十分に煮た卵。上方からしだいに消えようとしている。「このパン、出来たてのヌクヌクや」のように、ヌクヌクは温かく湯気があがっているさまの擬態語。ヌクズシは茶わん寿司でヌクイ寿司の意。椎茸、湯葉、アナゴ、麩などを味付けにし、キクラゲに寿司を混ぜて作る。ムシズシということが多い。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
★ヌクイはここ(←クリック)
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仲源寺/めやみ地蔵 (旧フォトヴィレッジ 2007年10月30日掲載)
京都の街で美しい水辺の風景を演出する鴨川も、たびたび洪水で大きな被害を出した過去がある。治水対策が十分ではなかった当時、人々は洪水を起こす大雨が止むことをひたすら神仏に願った。四条大橋に近い仲源寺の地蔵菩薩にも、「雨止(あめやみ)信仰」の話が伝わる。現在の本尊・木造地蔵菩薩座像は室町時代の作とされ、境内には重要文化財の木造千住観世音菩薩座像も安置されている。


平安中期、仏師としても名高い僧の定朝が人々の安寧を願って木造の地蔵菩薩を彫った。都の人々の信仰を集めたが、平安末期には度重なる戦で地蔵を収めた堂は荒れ果て、草木が生い茂るまでになっていた。鎌倉時代の1228(安貞2)年秋、風雨が都を襲い、鴨川が氾濫。朝廷から「防鴨川使」に選ばれた中原為兼は民衆の救出に向かうが、橋は流され、家屋まで流れてきた。


ところが、不思議と人々は四条河原の茂みに流れ着き、命を救われた。茂みの中には、忘れ去られた地蔵の姿があった。「君主が徳を失い、人が義を忘れて利に走る時は、天道は怒って災いを下す。早く地蔵尊を念じ、人々を救うべし。」 為兼にお告げが下ると、たちまち水は引き、平常の鴨川の姿に戻ったという。地蔵は、為兼の名字(中原)に「人」と「水」を付けた仲源寺に安置され、「雨止地蔵」として信仰を再び集めるようになったという。さらに、この雨止地蔵には「後日談」があるという。


さて、その「後日談」とは、地蔵を熱心に信仰していた夫妻がいたが、その夫が目の病で失明するということから始まる。妻は地蔵に恨み言をいうと、その夜、夫の枕元に地蔵が現れ、寺の湧き水で目を洗うよう告げる。さっそく、お告げの通りにすると次第に目が見えるようになった。妻がお礼にお参りすると、地蔵の右目が朱色になり涙がつたっていた。このことから「雨止」から転じ、眼病に御利益がある「目疾(めやみ)地蔵」とも呼ばれるようになったという。


参拝者がくぐる寺の唐門には「雨奇晴好(うきせいこう)」の額がかかっている。晴天祈願に眼病平癒と、一見全く異なる御利益を授けてくれる地蔵尊。しかし、逆境に打ちひしがれるのではなく、晴雨とも元気に生き抜こうという前向きな考え方を今を生きる者たちに教えてくれているのかも知れない。そんな気がする…今京都。

ゆで卵のこと。「お弁当にニヌキ入れとくわ」 ニヌキは「煮抜く」の意味で、十分に煮た卵。上方からしだいに消えようとしている。「このパン、出来たてのヌクヌクや」のように、ヌクヌクは温かく湯気があがっているさまの擬態語。ヌクズシは茶わん寿司でヌクイ寿司の意。椎茸、湯葉、アナゴ、麩などを味付けにし、キクラゲに寿司を混ぜて作る。ムシズシということが多い。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
★ヌクイはここ(←クリック)
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仲源寺/めやみ地蔵 (旧フォトヴィレッジ 2007年10月30日掲載)
京都の街で美しい水辺の風景を演出する鴨川も、たびたび洪水で大きな被害を出した過去がある。治水対策が十分ではなかった当時、人々は洪水を起こす大雨が止むことをひたすら神仏に願った。四条大橋に近い仲源寺の地蔵菩薩にも、「雨止(あめやみ)信仰」の話が伝わる。現在の本尊・木造地蔵菩薩座像は室町時代の作とされ、境内には重要文化財の木造千住観世音菩薩座像も安置されている。


平安中期、仏師としても名高い僧の定朝が人々の安寧を願って木造の地蔵菩薩を彫った。都の人々の信仰を集めたが、平安末期には度重なる戦で地蔵を収めた堂は荒れ果て、草木が生い茂るまでになっていた。鎌倉時代の1228(安貞2)年秋、風雨が都を襲い、鴨川が氾濫。朝廷から「防鴨川使」に選ばれた中原為兼は民衆の救出に向かうが、橋は流され、家屋まで流れてきた。


ところが、不思議と人々は四条河原の茂みに流れ着き、命を救われた。茂みの中には、忘れ去られた地蔵の姿があった。「君主が徳を失い、人が義を忘れて利に走る時は、天道は怒って災いを下す。早く地蔵尊を念じ、人々を救うべし。」 為兼にお告げが下ると、たちまち水は引き、平常の鴨川の姿に戻ったという。地蔵は、為兼の名字(中原)に「人」と「水」を付けた仲源寺に安置され、「雨止地蔵」として信仰を再び集めるようになったという。さらに、この雨止地蔵には「後日談」があるという。


さて、その「後日談」とは、地蔵を熱心に信仰していた夫妻がいたが、その夫が目の病で失明するということから始まる。妻は地蔵に恨み言をいうと、その夜、夫の枕元に地蔵が現れ、寺の湧き水で目を洗うよう告げる。さっそく、お告げの通りにすると次第に目が見えるようになった。妻がお礼にお参りすると、地蔵の右目が朱色になり涙がつたっていた。このことから「雨止」から転じ、眼病に御利益がある「目疾(めやみ)地蔵」とも呼ばれるようになったという。


参拝者がくぐる寺の唐門には「雨奇晴好(うきせいこう)」の額がかかっている。晴天祈願に眼病平癒と、一見全く異なる御利益を授けてくれる地蔵尊。しかし、逆境に打ちひしがれるのではなく、晴雨とも元気に生き抜こうという前向きな考え方を今を生きる者たちに教えてくれているのかも知れない。そんな気がする…今京都。


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今京都 ちゃり 2009/11/12 12:00 am
ちゃり
おどけ。「チャリばっかりせんと、まじめにしなはい」 滑稽なことをする人にも使う。動詞はチャル。江戸時代の宝永年間ごろから使用。「戯る」に基づく。「なんでそんなにチャッテルのや」 チャリスルとも。鬼ごっこやかくれんぼの遊びで、仮に仲間に入れておく小さい子どもをチャリンボと言った。チャリに坊をつけた。「あの子にチャリンボで入ってもらおうよ」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
上賀茂神社/あふい(葵)伝承 (旧フォトヴィレッジ 2007年10月26日掲載)
平成6年12月に世界遺産に登録されており、葵祭とかでも有名な京都・上賀茂神社へ行ってきた。「今京都」では観光所・有名所を取り上げるのが目的ではないのだけれど、あえてここを訪れたのはある目的がある。その目的とは「葵が母子の縁結ぶ」というお話を訪ねてみたくなったからだ。


賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を祭神とする上賀茂神社。正式な名前は「賀茂別雷神社」なのだが「上賀茂神社」のほうが有名。この境内には、神事に赴く神職が本殿に入る前に必ず一礼していく場所があるという。


大神の母・玉依比売命(たまよりひめのみこと)をまつる片山御子神社(片岡社)だ。山城国風土記逸文などの古文書には、上賀茂神社のシンボルになっている葵(あおい)が、母子の縁を結んだ植物として登場する。玉依比売命は、上賀茂一帯を治めていた賀茂県主(あがたぬし)族の祖神、賀茂建角身命(たけつのみのみこと)の娘に当たる。ある日、玉依比売が賀茂川で川遊びをしていると、朱塗りの矢が流れてきた。拾い上げて持ち帰ると、矢に神の力を感得して身ごもり、男の子を産んだ。建角身命はあらゆる神々を招いて宴を開いた席上、「父親と思う者にこの酒を飲ましめよ」と男子に杯を渡す。すると、男子は「われは天神の御子なり」と叫んで杯を上に向かって投げ、そのまま天に昇って賀茂別雷命となったという。


天に昇って賀茂別雷命となってしまった男子へ玉依比売(たまよりひめ)は嘆き悲しみ思いを募らせる。ある夜、夢の中に男子が立ち「葵楓(あおいかつら)の蔓(かずら)をつくり、飾って待てば現れる」と告げる。その通りに祭事を営むと、社殿の北北西にある神山に賀茂別雷命が降臨したという。葵の語源の「あふひ」は、わが子に会いたいと願い、葵を飾った玉依比売命の神話に由来している。毎年5月15日の葵祭(賀茂祭)に参加する人々が、カツラの枝にフタバアオイを差した飾りを身につけているのも、この神話に基づいているという。


かつては、境内を緑豊かに覆っていたフタバアオイも、時代とともに数が激減。この「母子の縁を結んだフタバアオイ」の緑をもう一度取り戻そうと、地元の小学生や地域住民たちが「葵プロジェクト」と名付け、フタバアオイの株を増やす取り組みを始めた。文化や伝統の継承は、先人たちの大変な努力で守られてきたのはいうまでもない。今の時代こそ、母が子、子が母を大切にする思いを伝えていきたいという思いを込めて「葵プロジェクト」は進められていくことを願いたい…今京都。

おどけ。「チャリばっかりせんと、まじめにしなはい」 滑稽なことをする人にも使う。動詞はチャル。江戸時代の宝永年間ごろから使用。「戯る」に基づく。「なんでそんなにチャッテルのや」 チャリスルとも。鬼ごっこやかくれんぼの遊びで、仮に仲間に入れておく小さい子どもをチャリンボと言った。チャリに坊をつけた。「あの子にチャリンボで入ってもらおうよ」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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上賀茂神社/あふい(葵)伝承 (旧フォトヴィレッジ 2007年10月26日掲載)
平成6年12月に世界遺産に登録されており、葵祭とかでも有名な京都・上賀茂神社へ行ってきた。「今京都」では観光所・有名所を取り上げるのが目的ではないのだけれど、あえてここを訪れたのはある目的がある。その目的とは「葵が母子の縁結ぶ」というお話を訪ねてみたくなったからだ。


賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を祭神とする上賀茂神社。正式な名前は「賀茂別雷神社」なのだが「上賀茂神社」のほうが有名。この境内には、神事に赴く神職が本殿に入る前に必ず一礼していく場所があるという。


大神の母・玉依比売命(たまよりひめのみこと)をまつる片山御子神社(片岡社)だ。山城国風土記逸文などの古文書には、上賀茂神社のシンボルになっている葵(あおい)が、母子の縁を結んだ植物として登場する。玉依比売命は、上賀茂一帯を治めていた賀茂県主(あがたぬし)族の祖神、賀茂建角身命(たけつのみのみこと)の娘に当たる。ある日、玉依比売が賀茂川で川遊びをしていると、朱塗りの矢が流れてきた。拾い上げて持ち帰ると、矢に神の力を感得して身ごもり、男の子を産んだ。建角身命はあらゆる神々を招いて宴を開いた席上、「父親と思う者にこの酒を飲ましめよ」と男子に杯を渡す。すると、男子は「われは天神の御子なり」と叫んで杯を上に向かって投げ、そのまま天に昇って賀茂別雷命となったという。


天に昇って賀茂別雷命となってしまった男子へ玉依比売(たまよりひめ)は嘆き悲しみ思いを募らせる。ある夜、夢の中に男子が立ち「葵楓(あおいかつら)の蔓(かずら)をつくり、飾って待てば現れる」と告げる。その通りに祭事を営むと、社殿の北北西にある神山に賀茂別雷命が降臨したという。葵の語源の「あふひ」は、わが子に会いたいと願い、葵を飾った玉依比売命の神話に由来している。毎年5月15日の葵祭(賀茂祭)に参加する人々が、カツラの枝にフタバアオイを差した飾りを身につけているのも、この神話に基づいているという。


かつては、境内を緑豊かに覆っていたフタバアオイも、時代とともに数が激減。この「母子の縁を結んだフタバアオイ」の緑をもう一度取り戻そうと、地元の小学生や地域住民たちが「葵プロジェクト」と名付け、フタバアオイの株を増やす取り組みを始めた。文化や伝統の継承は、先人たちの大変な努力で守られてきたのはいうまでもない。今の時代こそ、母が子、子が母を大切にする思いを伝えていきたいという思いを込めて「葵プロジェクト」は進められていくことを願いたい…今京都。


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今京都 さいた 2009/11/10 12:00 am
さいた
指した。差した。子どもが人当て遊び歌で、「誰さんの隣に誰がいる」と囃すと、目隠しした鬼が人の名前を当てる。当たれば「ようサイタ(指した)」と一同が答えた。当て外れると、「つるっと滑って橋の下」とまた囃す。「傘をサイテ行きなはい」のように「差して」をサイテとも言う。「お礼をサイダス(差し出す)」というところもある。かつては「傘サイセ行け」と、サイテをサイセとも言った。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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蛸薬師 (旧フォトヴィレッジ 2007年10月25日掲載)
買い物客や修学旅行生が行きかう京都の繁華街、新京極通の蛸薬師に蛸薬師堂がある。若者向け洋品店やゲームセンター、土産物店にまぎれるように、ひっそりとたたずんでいる。蛸薬師堂はもともと、今の約1km北西の二条室町(にじょうむろまち)の辺りにあった。寺の名前は永福寺。後深草天皇の建長年間(1249〜1256)の初め、善光という僧が住んでいた。

寺で看病していた母親にある日、「子どもの頃から好きだったタコを食べると病気が治るかもしれない」と懇願される。善光は困り果てる。と、いうのは僧侶は生き物を殺したり、食べてはいけないからだ。だが善光はタコを買い、経本を入れる箱に隠す。僧侶が生魚を買ったことに不審を抱いた人々は、寺の門前で箱の中を見せるように迫る。

「母の病気を治すためです。薬師如来様、どうかお助けください」。善光は一心に祈りながら、箱を開ける。するとタコは八軸の経巻になり、四方に光を放つ。経巻は再びタコに姿を変えて池に飛び込むと、今度は薬師如来に変じて善光の母を照らし病気を治す。それから、永福寺は蛸薬師堂と呼ばれるようになったという。

当時は、僧侶は生き物を食べないということが人々に浸透していた。だから魚屋の前にいた善光の姿が珍しく、現在のように誰もが当たり前に魚介類を食べる世の中では、この逸話はなかったと思う。蛸薬師堂は、豊臣秀吉の時代に現在の地へ移る。病気を治した蛸薬師様に病気平癒を祈る人々の参拝が絶えず、寺に通じる坊門通は、蛸薬師通と名を変えた。

新京極通から数歩入った境内は、とても狭いが驚くほどに静か。母を思って買ってはならないタコを買い、一生懸命に祈った善光さんの気持ちと、今の人々が大切な人を思って手を合わせる気持ちは時代が違ってもなんら変わりないと信じたい…今京都。

指した。差した。子どもが人当て遊び歌で、「誰さんの隣に誰がいる」と囃すと、目隠しした鬼が人の名前を当てる。当たれば「ようサイタ(指した)」と一同が答えた。当て外れると、「つるっと滑って橋の下」とまた囃す。「傘をサイテ行きなはい」のように「差して」をサイテとも言う。「お礼をサイダス(差し出す)」というところもある。かつては「傘サイセ行け」と、サイテをサイセとも言った。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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蛸薬師 (旧フォトヴィレッジ 2007年10月25日掲載)
買い物客や修学旅行生が行きかう京都の繁華街、新京極通の蛸薬師に蛸薬師堂がある。若者向け洋品店やゲームセンター、土産物店にまぎれるように、ひっそりとたたずんでいる。蛸薬師堂はもともと、今の約1km北西の二条室町(にじょうむろまち)の辺りにあった。寺の名前は永福寺。後深草天皇の建長年間(1249〜1256)の初め、善光という僧が住んでいた。

寺で看病していた母親にある日、「子どもの頃から好きだったタコを食べると病気が治るかもしれない」と懇願される。善光は困り果てる。と、いうのは僧侶は生き物を殺したり、食べてはいけないからだ。だが善光はタコを買い、経本を入れる箱に隠す。僧侶が生魚を買ったことに不審を抱いた人々は、寺の門前で箱の中を見せるように迫る。

「母の病気を治すためです。薬師如来様、どうかお助けください」。善光は一心に祈りながら、箱を開ける。するとタコは八軸の経巻になり、四方に光を放つ。経巻は再びタコに姿を変えて池に飛び込むと、今度は薬師如来に変じて善光の母を照らし病気を治す。それから、永福寺は蛸薬師堂と呼ばれるようになったという。

当時は、僧侶は生き物を食べないということが人々に浸透していた。だから魚屋の前にいた善光の姿が珍しく、現在のように誰もが当たり前に魚介類を食べる世の中では、この逸話はなかったと思う。蛸薬師堂は、豊臣秀吉の時代に現在の地へ移る。病気を治した蛸薬師様に病気平癒を祈る人々の参拝が絶えず、寺に通じる坊門通は、蛸薬師通と名を変えた。

新京極通から数歩入った境内は、とても狭いが驚くほどに静か。母を思って買ってはならないタコを買い、一生懸命に祈った善光さんの気持ちと、今の人々が大切な人を思って手を合わせる気持ちは時代が違ってもなんら変わりないと信じたい…今京都。

