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今京都 古今無双 2008/07/30 12:03 am
ここんむそう…昔から現在に至るまで、比肩するものがないこと。史上最高。未曾有。
◇ちょっと予備知識 → 「古今」は昔から今に至るまでのこと。
「無双」は匹敵するものがない、並ぶものがないこと。
類義語に古今無比(ここんむひ)・古今無頼(ここんぶらい)・古今独歩(ここんどっぽ)・
海内無双(かいだいむそう)がある。
石川五右衛門 vol.2 vol.1はここ
さて、太閤秀吉の活躍と同時代に悪名をとどろかせたのが運のつきというべきか…。秀吉は前田玄以に命じて五右衛門一味を捕らえ「釜ゆでの刑」という、刑罰史にも残るほどの残忍な処刑を実行した。

1594(文禄3)年のこと。三条大橋南の河原に大きな釜が据えられ、その中には湯がフツフツと煮えたぎっていた。そこに五右衛門ら、悪党総勢十人と五右衛門の幼い子一人が入れられた。五右衛門はわが子を救おうと、釜の中に仁王立ちになって、子どもを両手で高く抱え上げていたが、群衆が取り囲むなか、最後には力尽き果て、親子もろとも釜の底に沈んだという。

昔の風呂釜のスタイル「五右衛門風呂」とは、このときの釜の形に似ているところから名づけられたものである。

この日の三条河原の様子は、山科言継(やましなときつぐ)というお公家さんがつけていた日記「言継卿記」の1594(文禄3)年8月24日の項に、確かに「盗人十人子一人等、釜にて煮らるる…」と記されているという。

この記述が真実ならば、この「盗人」のひとりが石川五右衛門ということになる。しかし、何故十人なのか。ここでいう「盗人」とは大泥棒というより小銭稼ぎのスリのようなもので、その親分が五右衛門だったということなのか。
悪党としては名を馳せたというより、見せしめともいえる、あまりにも無残な処刑の記憶が、後世にまで芝居となって語り継がれたのではなかったのかという説もあるが、謎ばかりである。

五右衛門は捕らえられ、刑場に引かれていく途中、下京区寺町四条下ルにあった大雲院の前を通りかかり、同寺の高僧・貞安上人(じょうあんしょうにん)に諭されて感泣したという。それが縁で、いまも大雲院(現在は円山公園内)に五右衛門の墓がある。墓には院号のある戒名が刻まれているが、これは罪人では異例のことであるという。

石川五右衛門の墓石のかけらを懐に入れておくと、盗み癖が治るとの言い伝えがある。盗み癖に苦しみ、それを試す人がいるのか、五右衛門の墓石にはあちこちに削り取られた跡があるという…今京都。(続く)


◇ちょっと予備知識 → 「古今」は昔から今に至るまでのこと。
「無双」は匹敵するものがない、並ぶものがないこと。
類義語に古今無比(ここんむひ)・古今無頼(ここんぶらい)・古今独歩(ここんどっぽ)・
海内無双(かいだいむそう)がある。
石川五右衛門 vol.2 vol.1はここ
さて、太閤秀吉の活躍と同時代に悪名をとどろかせたのが運のつきというべきか…。秀吉は前田玄以に命じて五右衛門一味を捕らえ「釜ゆでの刑」という、刑罰史にも残るほどの残忍な処刑を実行した。

1594(文禄3)年のこと。三条大橋南の河原に大きな釜が据えられ、その中には湯がフツフツと煮えたぎっていた。そこに五右衛門ら、悪党総勢十人と五右衛門の幼い子一人が入れられた。五右衛門はわが子を救おうと、釜の中に仁王立ちになって、子どもを両手で高く抱え上げていたが、群衆が取り囲むなか、最後には力尽き果て、親子もろとも釜の底に沈んだという。

昔の風呂釜のスタイル「五右衛門風呂」とは、このときの釜の形に似ているところから名づけられたものである。

この日の三条河原の様子は、山科言継(やましなときつぐ)というお公家さんがつけていた日記「言継卿記」の1594(文禄3)年8月24日の項に、確かに「盗人十人子一人等、釜にて煮らるる…」と記されているという。

この記述が真実ならば、この「盗人」のひとりが石川五右衛門ということになる。しかし、何故十人なのか。ここでいう「盗人」とは大泥棒というより小銭稼ぎのスリのようなもので、その親分が五右衛門だったということなのか。
悪党としては名を馳せたというより、見せしめともいえる、あまりにも無残な処刑の記憶が、後世にまで芝居となって語り継がれたのではなかったのかという説もあるが、謎ばかりである。

五右衛門は捕らえられ、刑場に引かれていく途中、下京区寺町四条下ルにあった大雲院の前を通りかかり、同寺の高僧・貞安上人(じょうあんしょうにん)に諭されて感泣したという。それが縁で、いまも大雲院(現在は円山公園内)に五右衛門の墓がある。墓には院号のある戒名が刻まれているが、これは罪人では異例のことであるという。

石川五右衛門の墓石のかけらを懐に入れておくと、盗み癖が治るとの言い伝えがある。盗み癖に苦しみ、それを試す人がいるのか、五右衛門の墓石にはあちこちに削り取られた跡があるという…今京都。(続く)




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今京都 半信半疑 2008/07/29 12:07 am
はんしんはんぎ…物事を信じきれず、うそか本当か判断しかねること。半分は信じているが半分は疑っているということ。
◇ちょっと予備知識 → 「半信」を「半真」、「半疑」を「半偽」と書くのは誤り。
石川五右衛門 vol.1
洛東の名刹、南禅寺の壮大な三門に上がると「絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金…」と、つい見得を切りたくなる。それほどに有名なこの台詞は、天下の大泥棒、石川五右衛門のものであるが、不思議なことがある。

不思議なこととは、南禅寺の三門は1467(応仁元)年までに焼失しており、その後、復興されたのは江戸時代になってからの1628(寛永5)年という。石川五右衛門が生きた1557〜1594年には形をとどめていないのである。

五右衛門がこの三門を棲家にしていたとか、「絶景かな、絶景かな」の名台詞も、実は全て歌舞伎のために初代並木五瓶(なみきごへい)が書き下ろしたフィクションだというから驚きである。

その歌舞伎の題目は「楼門五三桐」。「楼門」は「ろうもん」ではなく「さんもん」、すなわち「三門」と読む。五三桐は「ごさんのきり」と読み、禅宗南禅寺の「五山」のことであり、太閤秀吉の家紋「五三桐」にも通じる。

芝居のストーリーは太閤秀吉と悪党石川五右衛門の対決めいて、秀吉が、三門の上で優雅に春を満喫する石川五右衛門の正体を見破る筋書きとなっている。フィクションとはいえ、天下人秀吉が直接対決するほどの大泥棒・石川五右衛門とは、いったいどんな悪漢だったのだろうと思う。

五右衛門は、一説には三好氏の臣・石川明石の子、あるいは遠州浜松に生まれ、のちに河内国石川邸の医家・山内古底の家に寓したと伝えられる…今京都。(続く)


◇ちょっと予備知識 → 「半信」を「半真」、「半疑」を「半偽」と書くのは誤り。
石川五右衛門 vol.1
洛東の名刹、南禅寺の壮大な三門に上がると「絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金…」と、つい見得を切りたくなる。それほどに有名なこの台詞は、天下の大泥棒、石川五右衛門のものであるが、不思議なことがある。

不思議なこととは、南禅寺の三門は1467(応仁元)年までに焼失しており、その後、復興されたのは江戸時代になってからの1628(寛永5)年という。石川五右衛門が生きた1557〜1594年には形をとどめていないのである。

五右衛門がこの三門を棲家にしていたとか、「絶景かな、絶景かな」の名台詞も、実は全て歌舞伎のために初代並木五瓶(なみきごへい)が書き下ろしたフィクションだというから驚きである。

その歌舞伎の題目は「楼門五三桐」。「楼門」は「ろうもん」ではなく「さんもん」、すなわち「三門」と読む。五三桐は「ごさんのきり」と読み、禅宗南禅寺の「五山」のことであり、太閤秀吉の家紋「五三桐」にも通じる。

芝居のストーリーは太閤秀吉と悪党石川五右衛門の対決めいて、秀吉が、三門の上で優雅に春を満喫する石川五右衛門の正体を見破る筋書きとなっている。フィクションとはいえ、天下人秀吉が直接対決するほどの大泥棒・石川五右衛門とは、いったいどんな悪漢だったのだろうと思う。

五右衛門は、一説には三好氏の臣・石川明石の子、あるいは遠州浜松に生まれ、のちに河内国石川邸の医家・山内古底の家に寓したと伝えられる…今京都。(続く)




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今京都 紫電一閃 2008/07/28 12:09 am
しでんいっせん…刀がきらりとひらめくこと。そこから一瞬の変化。物事が急激に変化すること。
◇ちょっと予備知識 → 「紫電」は鋭い刀を振るとひらめく紫のいなずまのこと。「一閃」は、さっとひらめくこと。
類義語に光芒一閃(こうぼういっせん)・電光石火(でんこうせっか)がある。
町並み




地蔵物語(188)



◇ちょっと予備知識 → 「紫電」は鋭い刀を振るとひらめく紫のいなずまのこと。「一閃」は、さっとひらめくこと。
類義語に光芒一閃(こうぼういっせん)・電光石火(でんこうせっか)がある。
町並み




地蔵物語(188)





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今京都 器用貧乏 2008/07/27 10:10 am
きようびんぼう…なまじ器用なため万事にそつなくこなすが、一つのことに専念しないので大成しないこと。あれこれと手を出して結局どれも身につかないこと。
◇ちょっと予備知識 → 他人から便利がられて利用され、自分自身のことで大成てせきないことにも使う。
類義語に巧者貧乏(こうしゃびんぼう)・梧鼠之技(ごそのぎ)がある。
町並み




地蔵物語(187)



◇ちょっと予備知識 → 他人から便利がられて利用され、自分自身のことで大成てせきないことにも使う。
類義語に巧者貧乏(こうしゃびんぼう)・梧鼠之技(ごそのぎ)がある。
町並み




地蔵物語(187)





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今京都 一攫千金 2008/07/26 12:20 am
いっかくせんきん…一度に大金を手に入れること。大した苦労もなく巨万の富を得ること。濡れ手で粟。
◇ちょっと予備知識 → 「一攫」はひとつかみ。「一獲」と書くのは本来は誤り。「千金」は「万金」ともいう。
「一攫千金を狙う」などと使う。
類義語に一攫万金(いっかくまんきん)がある。
今でも日本の首都・京都
お百度参りというデモがあると聞いた。京都の人々は何百人と連れ立って「遷都反対」「天皇はんを京都から離すな」と、御所のまわりを歩き続けたという。クライマックスには、数千人もの群衆が御所の石薬師門に詰めかけて直訴デモを行ったということだ。

1867(慶応3)年10月の江戸幕府の大政奉還からかずか半年足らず。王政復古は日本の中心が江戸から再び京都に還ることを意味したし、鳥羽伏見の戦いで官軍の大勝利では「これで安心して暮らせる」と京都人は大喜びしたはずだった。江戸開城、京都所司代廃止、そして京都府が誕生した。

京の町はその4年前、蛤御門の変の砲撃戦で焼け野原になった。洛中大部分の家が焼かれ、人々はまだ路頭に迷っていた。「都がどこかに移るのではないか」「東京に遷都するそうだ」うわさが駆け巡る中、1868(慶応4)年7月、突然に江戸を東京と改め、都を東京に移す旨が発表された。

京都市民は動揺し、そして怒った。ここは千年の日本の都である。維新を達成するために戦火に耐え、犠牲を払ったのは京都人ではないか。それを見捨て、都まで奪うとは何ごとかと、さきの請願でデモが始まったというのである。
実際、京に住み慣れたお公家さんたちの間でも、東京遷都には猛烈な反対があった。それならばと大阪遷都、大和遷都などの妥協案も論議されたという。

慶応を明治に改元し、これより一世一元と制定したのは、この年の9月8日。その12日後には天皇が京都を出発することになる。天皇東幸においても、あれやこれやのいきさつがあったらしい。当時、幕府の反乱軍がまだ東海道にいるということで、大阪から船で東幸する安全策が計画された。
ところが、海上での天皇奪還計画も聞こえて、イギリスの軍艦に援助を願おう、いや天皇東幸に外国の手を借りるのは、と二転三転。結局はもとの陸路で1868(明治元)年9月20日、威儀を正した三千人の大行列が東海道を進んだ。

ところが天皇はその3ヶ月後、京都へ帰ってこられた。父孝明天皇の三周年祭と、天皇ご自身の結婚のためである。皇后は、東京遷都ののちも京都御所にお輿入れされ、天皇皇后揃って京都での生活を開始。と思ったのもつかの間の翌1869(明治2)年3月、天皇はおひとりで再び東京へ向かわれた。そして皇后の行列が京都を離れ、東京に到着されたのは半年以上のちの10月のことであった。

政府官庁が東京に移る実質的な東京遷都というのは、天皇が二度目に東京へ向かった1869(明治2)年3月から始まって、その年末にほぼ終わった。それと同時に版籍奉還が行われ、公家・大名が華族となって大半が東京に移った。京都には役人もいない、皇族・華族もいない、それにつれて、そういう人たちを相手にしていた商売も傾き、一部は東京に移った。

これが当時の東京遷都の様子なのだが、考えてみれば東京遷都も、遷都したという法令も、何もないまま「なしくずし」的遷都であったという。京都市民のDNAの中には「京都が日本の首都」ということが根強く残されたままになっており、「今でも日本の首都・京都」となっているのかもしれない、という京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。


◇ちょっと予備知識 → 「一攫」はひとつかみ。「一獲」と書くのは本来は誤り。「千金」は「万金」ともいう。
「一攫千金を狙う」などと使う。
類義語に一攫万金(いっかくまんきん)がある。
今でも日本の首都・京都
お百度参りというデモがあると聞いた。京都の人々は何百人と連れ立って「遷都反対」「天皇はんを京都から離すな」と、御所のまわりを歩き続けたという。クライマックスには、数千人もの群衆が御所の石薬師門に詰めかけて直訴デモを行ったということだ。

1867(慶応3)年10月の江戸幕府の大政奉還からかずか半年足らず。王政復古は日本の中心が江戸から再び京都に還ることを意味したし、鳥羽伏見の戦いで官軍の大勝利では「これで安心して暮らせる」と京都人は大喜びしたはずだった。江戸開城、京都所司代廃止、そして京都府が誕生した。

京の町はその4年前、蛤御門の変の砲撃戦で焼け野原になった。洛中大部分の家が焼かれ、人々はまだ路頭に迷っていた。「都がどこかに移るのではないか」「東京に遷都するそうだ」うわさが駆け巡る中、1868(慶応4)年7月、突然に江戸を東京と改め、都を東京に移す旨が発表された。

京都市民は動揺し、そして怒った。ここは千年の日本の都である。維新を達成するために戦火に耐え、犠牲を払ったのは京都人ではないか。それを見捨て、都まで奪うとは何ごとかと、さきの請願でデモが始まったというのである。
実際、京に住み慣れたお公家さんたちの間でも、東京遷都には猛烈な反対があった。それならばと大阪遷都、大和遷都などの妥協案も論議されたという。

慶応を明治に改元し、これより一世一元と制定したのは、この年の9月8日。その12日後には天皇が京都を出発することになる。天皇東幸においても、あれやこれやのいきさつがあったらしい。当時、幕府の反乱軍がまだ東海道にいるということで、大阪から船で東幸する安全策が計画された。
ところが、海上での天皇奪還計画も聞こえて、イギリスの軍艦に援助を願おう、いや天皇東幸に外国の手を借りるのは、と二転三転。結局はもとの陸路で1868(明治元)年9月20日、威儀を正した三千人の大行列が東海道を進んだ。

ところが天皇はその3ヶ月後、京都へ帰ってこられた。父孝明天皇の三周年祭と、天皇ご自身の結婚のためである。皇后は、東京遷都ののちも京都御所にお輿入れされ、天皇皇后揃って京都での生活を開始。と思ったのもつかの間の翌1869(明治2)年3月、天皇はおひとりで再び東京へ向かわれた。そして皇后の行列が京都を離れ、東京に到着されたのは半年以上のちの10月のことであった。

政府官庁が東京に移る実質的な東京遷都というのは、天皇が二度目に東京へ向かった1869(明治2)年3月から始まって、その年末にほぼ終わった。それと同時に版籍奉還が行われ、公家・大名が華族となって大半が東京に移った。京都には役人もいない、皇族・華族もいない、それにつれて、そういう人たちを相手にしていた商売も傾き、一部は東京に移った。

これが当時の東京遷都の様子なのだが、考えてみれば東京遷都も、遷都したという法令も、何もないまま「なしくずし」的遷都であったという。京都市民のDNAの中には「京都が日本の首都」ということが根強く残されたままになっており、「今でも日本の首都・京都」となっているのかもしれない、という京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。



