rrbのブログ - rrbさんのエントリ
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今京都 金科玉条 2008/10/13 12:00 am
きんかぎょくじょう…この上なく大切にし、絶対的なよりどころとする規則・法律。
◇ちょっと予備知識 → 「金」「玉」は共に大切なものの意。
「科」「条」は共に法律、決まりなどの条文のこと。
守ることに固執するという否定的な意味で使うこともある。
類義語に金科玉律(きんかぎょくりつ)・金律金科(きんりつきんか)がある。
町並み



地蔵物語(210)



◇ちょっと予備知識 → 「金」「玉」は共に大切なものの意。
「科」「条」は共に法律、決まりなどの条文のこと。
守ることに固執するという否定的な意味で使うこともある。
類義語に金科玉律(きんかぎょくりつ)・金律金科(きんりつきんか)がある。
町並み



地蔵物語(210)





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今京都 一進一退 2008/10/12 12:00 am
いっしんいったい…進んだりあと戻りしたりする。病状や情勢などが、よくなったり悪くなったりを繰り返し、進展がないこと。
◇ちょっと予備知識 → 「一進一退する」などと使う。
おもに状況が変わらないことにいらだちや不安を感じるときに使う。
町並み



地蔵物語(209)



◇ちょっと予備知識 → 「一進一退する」などと使う。
おもに状況が変わらないことにいらだちや不安を感じるときに使う。
町並み



地蔵物語(209)





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今京都 汗馬之労 2008/10/11 12:00 am
かんばのろう…駆けずり回って働くこと。物事の取りまとめなどに懸命に努力すること。
◇ちょっと予備知識 → もとは戦功を立てるために馬を走り回らせて汗をかかせることから。
「汗馬之労をとる」のように使う。
類義語に汗馬功労(かんばこうろう)・汗馬之功(かんばのこう)・
犬馬之労(けんばのろう)がある。
どうやら風邪の峠は越えたよう。風邪には寝るのが一番ね。
茶碗子の水
1780(安永9)年に刊行された当時のガイドブック「都名所図会」にも紹介されている。江戸中期の画家伊藤若冲(1716〜1800)がデザインした石仏群で知られる石峰寺の石段下に、「茶碗子(ちゃわんこ)の水」の添え書きとともに井戸がある。
伝えによれば、その昔、都に住む茶人が宇治川の水をくませて茶の湯に用いていた。ある時、いつものように宇治橋まで水をくみに行った使いの者が、この近くで水をこぼしてしまった。仕方なく、使いの者はこのわき水を持ち帰り、知らぬ顔をしていた。

だが、主人はいつもの水と違うことに気付いた。問いつめられ、使いの者は恐る恐る一部始終を話した。叱られるどころか、「宇治川の水に勝る」と褒められ、その後は宇治までの遠出の労が省けたという。晩年を石峰寺当寺で過ごした若冲さんも、この名水を味わったのではないかと思いをはせる。
わき水は地元の農家が長く、収穫した野菜を洗う水として使ってきた。地元では『清水』と呼んで、飲み水にも使っていたという。明治12(1879)年に旧東海道線の鉄道が開通するころまでは、伏見街道まで木管でつないで、往来する旅人や牛馬の飲み水にしていたともいわれている。

しかし、時代を超えて地域に親しまれてきたわき水も、枯れてしまった。20年ほど前の下水道工事で水量が半減し、周辺での宅地開発で地下水脈が絶たれたためではないかという。
井筒の横には、長さ20mほどの水路を渡した施設がある。そこに茶碗子の水を引いて野菜の泥を落としていた。わき水は一定の温度に保たれ、冬は温かく、夏冷たい。ここの水で洗った野菜は鮮度がいいと、市場でも評判がよかったのに…と地元の住民は残念がる。

今、人々に愛された名水を物語るのは、ステンレス製のふたに覆われた直径約1mの井筒だけだ。「茶碗子の水」がわいていた井戸は、住宅が広がる京都市伏見区深草野手町の路傍にひっそりとある。そばに地蔵堂が立っていたが、枯れた井戸を惜しむような雰囲気に見受けられた…今京都。


◇ちょっと予備知識 → もとは戦功を立てるために馬を走り回らせて汗をかかせることから。
「汗馬之労をとる」のように使う。
類義語に汗馬功労(かんばこうろう)・汗馬之功(かんばのこう)・
犬馬之労(けんばのろう)がある。
どうやら風邪の峠は越えたよう。風邪には寝るのが一番ね。
茶碗子の水
1780(安永9)年に刊行された当時のガイドブック「都名所図会」にも紹介されている。江戸中期の画家伊藤若冲(1716〜1800)がデザインした石仏群で知られる石峰寺の石段下に、「茶碗子(ちゃわんこ)の水」の添え書きとともに井戸がある。
伝えによれば、その昔、都に住む茶人が宇治川の水をくませて茶の湯に用いていた。ある時、いつものように宇治橋まで水をくみに行った使いの者が、この近くで水をこぼしてしまった。仕方なく、使いの者はこのわき水を持ち帰り、知らぬ顔をしていた。

だが、主人はいつもの水と違うことに気付いた。問いつめられ、使いの者は恐る恐る一部始終を話した。叱られるどころか、「宇治川の水に勝る」と褒められ、その後は宇治までの遠出の労が省けたという。晩年を石峰寺当寺で過ごした若冲さんも、この名水を味わったのではないかと思いをはせる。
わき水は地元の農家が長く、収穫した野菜を洗う水として使ってきた。地元では『清水』と呼んで、飲み水にも使っていたという。明治12(1879)年に旧東海道線の鉄道が開通するころまでは、伏見街道まで木管でつないで、往来する旅人や牛馬の飲み水にしていたともいわれている。

しかし、時代を超えて地域に親しまれてきたわき水も、枯れてしまった。20年ほど前の下水道工事で水量が半減し、周辺での宅地開発で地下水脈が絶たれたためではないかという。
井筒の横には、長さ20mほどの水路を渡した施設がある。そこに茶碗子の水を引いて野菜の泥を落としていた。わき水は一定の温度に保たれ、冬は温かく、夏冷たい。ここの水で洗った野菜は鮮度がいいと、市場でも評判がよかったのに…と地元の住民は残念がる。

今、人々に愛された名水を物語るのは、ステンレス製のふたに覆われた直径約1mの井筒だけだ。「茶碗子の水」がわいていた井戸は、住宅が広がる京都市伏見区深草野手町の路傍にひっそりとある。そばに地蔵堂が立っていたが、枯れた井戸を惜しむような雰囲気に見受けられた…今京都。




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今京都 欣求浄土 2008/10/10 12:00 am
ごんぐじょうど…死後、極楽浄土に往生することを心から願うこと。
◇ちょっと予備知識 → 仏教語。「欣求」は喜んで求めること。「浄土」は極楽浄土のこと。
「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土」と対にして使われることが多い。
類義語に安楽浄土(あんらくじょうど)・厭穢欣浄(おんえごんじょう)がある。
対義語は厭離穢土(おんりえど)。
風邪を引いたみたい。鼻水がズルズル、咳がコンコン。熱はまだない。しかし、身体が気だるい。皆さん、体調管理には十分注意してくださいね!
さざれ石

君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔(こけ)のむすまで
と、「君が代」にもでてくる「さざれ石」。漢字では「細石」と書く。この石がどこに実在するか、などと考えてもみなかった。だから、この石があの「君が代」に出てくる細石ですよ、といわれても戸惑ってしまう。

しかし、いっぽうで「君が代」に歌われた地がもし実在するとしたら、それはやはり京都ではないかとも思う。
確かにそこには「さざれ石」という石碑が建っていた。場所は「千代の古道(ふるみち)」と呼ばれる右京区山越の道の途中である。

千代の古道は、かつて平安貴族が都から広沢の地を経て、嵯峨御所(大覚寺)へ通う道だったそうで、古来多くの歌に詠まれている。その古道の北、通称さざれ石山の中腹西側に六畳敷の巨岩が横たわっている。平安初期、嵯峨天皇が嵯峨御所行幸の際、この地を休息の場所とし、さざれ石と名づけたのだという。山にはほかにも、大小幾多のさざれ石の露頭が見られるというが、今は入山できず、残念ながら確認することができない。

さざれ石は、伝承では成長する石とされている。京のさざれ石(学名チャート=珪質の堆積岩)はごつごつして硬く、獣角状の光沢を含む山石の地石のこと。古来、京の西山、つまり鳴滝から嵯峨、衣笠山一帯の山々は、さざれ石の産地として知られてきたという。また水成岩であるさざれ石は、このあたりがかつて水底であったことを示す岩でもあるそうだ。

「君が代」は『古今集』巻七にある「砂(いさご)長ジテ巖トナル頌(うた)」
わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで(よみ人知らず)
がもとになっている。これは中国に習って嵯峨天皇が朝廷で始めた算画(長寿を祝う宴)での祝い歌で、水中から拾った小石が成長したという中国唐代の逸話をふまえたものだといわれている。

すなわち嵯峨天皇のさざれ石伝説を読み解けば、長寿の祝い歌である「千代に八千代に」をもとに、「千代の古道」の掛詞として「さざれ石」と名づけた、ということになるだろうか。

ちなみに、岐阜県天然記念物のさざれ石(石灰質角礫岩)は、伊吹山の東の麓にあたる岐阜県春日村(現、揖斐川町)にある。また伊勢神宮にも、出雲大社にも、さざれ石は奉納されているそうだ。

しかし、そこまで足を運ばなくても、今回は行かなかったが、嵯峨天皇お好みのさざれ石は、龍安寺石庭の四石、金閣寺の鏡池湖護岸石、天龍寺や妙心寺の庭園景石、また蛇塚古墳にも用いられているという京都の文化のお話…今京都。 ※写真は護王神社に奉納されている岐阜県のさざれ石。


◇ちょっと予備知識 → 仏教語。「欣求」は喜んで求めること。「浄土」は極楽浄土のこと。
「厭離穢土(おんりえど)、欣求浄土」と対にして使われることが多い。
類義語に安楽浄土(あんらくじょうど)・厭穢欣浄(おんえごんじょう)がある。
対義語は厭離穢土(おんりえど)。
風邪を引いたみたい。鼻水がズルズル、咳がコンコン。熱はまだない。しかし、身体が気だるい。皆さん、体調管理には十分注意してくださいね!
さざれ石

君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌(いわお)となりて 苔(こけ)のむすまで
と、「君が代」にもでてくる「さざれ石」。漢字では「細石」と書く。この石がどこに実在するか、などと考えてもみなかった。だから、この石があの「君が代」に出てくる細石ですよ、といわれても戸惑ってしまう。

しかし、いっぽうで「君が代」に歌われた地がもし実在するとしたら、それはやはり京都ではないかとも思う。
確かにそこには「さざれ石」という石碑が建っていた。場所は「千代の古道(ふるみち)」と呼ばれる右京区山越の道の途中である。

千代の古道は、かつて平安貴族が都から広沢の地を経て、嵯峨御所(大覚寺)へ通う道だったそうで、古来多くの歌に詠まれている。その古道の北、通称さざれ石山の中腹西側に六畳敷の巨岩が横たわっている。平安初期、嵯峨天皇が嵯峨御所行幸の際、この地を休息の場所とし、さざれ石と名づけたのだという。山にはほかにも、大小幾多のさざれ石の露頭が見られるというが、今は入山できず、残念ながら確認することができない。

さざれ石は、伝承では成長する石とされている。京のさざれ石(学名チャート=珪質の堆積岩)はごつごつして硬く、獣角状の光沢を含む山石の地石のこと。古来、京の西山、つまり鳴滝から嵯峨、衣笠山一帯の山々は、さざれ石の産地として知られてきたという。また水成岩であるさざれ石は、このあたりがかつて水底であったことを示す岩でもあるそうだ。

「君が代」は『古今集』巻七にある「砂(いさご)長ジテ巖トナル頌(うた)」
わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで(よみ人知らず)
がもとになっている。これは中国に習って嵯峨天皇が朝廷で始めた算画(長寿を祝う宴)での祝い歌で、水中から拾った小石が成長したという中国唐代の逸話をふまえたものだといわれている。

すなわち嵯峨天皇のさざれ石伝説を読み解けば、長寿の祝い歌である「千代に八千代に」をもとに、「千代の古道」の掛詞として「さざれ石」と名づけた、ということになるだろうか。

ちなみに、岐阜県天然記念物のさざれ石(石灰質角礫岩)は、伊吹山の東の麓にあたる岐阜県春日村(現、揖斐川町)にある。また伊勢神宮にも、出雲大社にも、さざれ石は奉納されているそうだ。

しかし、そこまで足を運ばなくても、今回は行かなかったが、嵯峨天皇お好みのさざれ石は、龍安寺石庭の四石、金閣寺の鏡池湖護岸石、天龍寺や妙心寺の庭園景石、また蛇塚古墳にも用いられているという京都の文化のお話…今京都。 ※写真は護王神社に奉納されている岐阜県のさざれ石。




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今京都 千里同風 2008/10/09 12:00 am
せんりどうふう…世の中が平和で穏やかなこと。また、ある風俗が国の隅々まで行き渡っているさま。
◇ちょっと予備知識 → 千里も離れたところまで同じ風が吹くということから。
類義語に万里同風(ばんりどうふう)・同文同軌(どうぶんどうき)がある。
女子(おなご)はんは宝
京都では他の地域と違い、今でいうキャリアウーマンを昔から認めていた。商家にしても、お茶屋にしても、女将さんがきっちりと取り仕切っているからこそ、やっていける。外で仕事をする女性、店や家を守る女性、そのいずれの女性も京都では認めてきた。そして女性たちも、それに応えるかのように自分の役割をきちんと果たしてきた。

ちょっと極端な言い方かも知れないが、京都の歴史は女性がつくり、動かしてきたといっても過言ではないように思う。それぞれの家のしきたりや行事も、人様とのおつきあいも、料理も、こと細かに女性が守ってきたからこそ、今日まで伝承されてきたのだ。もし男性がこういったことを取り仕切っていたら、おそらく、こんなにきちんと伝えられなかったのではないか…といわれている。

祇園祭でも、鉾を動かすのは確かに男性の仕事だが、陰で女性はお客を向かえ、その家を守り、しきるという重要な仕事を担っており、それがあったればこそ、祭りが今日まで続いてきたのだといわれる。鉾がけがれるから鉾の上に女性を上げてはいけないなどといわれるが、とんでもない。大事な女性を高い鉾に上げては危険だからというのが真意であり、これが後世あやまって伝えられたのだというから驚きだ。

結婚式の仲人への挨拶は母親がいくとか、結婚祝などは女性が持参するほうがよいとか、また商売では開店時の一番最初のお客には女性に来てもらわないと店が繁盛しないなどといわれているが、これらは全て女性が動くということが「験がいい」と京都では考えられてきたからであるという。「京都らしい人」とか「京都の人は風情があってよろしいですね」などは、全て女性に対していわれることば。京都の男性の方は「もうちょっとしゃきっとせんと」と思われているかもしれない。

ある著名な学者は、日本は決して男尊女卑の国ではなかったといっている。家ひとつをとっても、母屋はあるが父屋などはないし、いろりがあった昔には「かか座」という主婦が座る場所が決まっており、その場所には他の誰も座らないものだったという。また、ご飯を分け与えるのは父親ではなく母親であり、その権限を持っていたのはスゴイことだと思う。京都が1200年の間、「京都」であり続けたのも、やはり食事ひとつもおろそかにせず毎日つくり続けてきた京の女子(おなご)はんがいてこそであるという京都の文化のお話…今京都。 ※決して殿方に喧嘩を売っているわけではないのであしからず。


◇ちょっと予備知識 → 千里も離れたところまで同じ風が吹くということから。
類義語に万里同風(ばんりどうふう)・同文同軌(どうぶんどうき)がある。
女子(おなご)はんは宝
京都では他の地域と違い、今でいうキャリアウーマンを昔から認めていた。商家にしても、お茶屋にしても、女将さんがきっちりと取り仕切っているからこそ、やっていける。外で仕事をする女性、店や家を守る女性、そのいずれの女性も京都では認めてきた。そして女性たちも、それに応えるかのように自分の役割をきちんと果たしてきた。

ちょっと極端な言い方かも知れないが、京都の歴史は女性がつくり、動かしてきたといっても過言ではないように思う。それぞれの家のしきたりや行事も、人様とのおつきあいも、料理も、こと細かに女性が守ってきたからこそ、今日まで伝承されてきたのだ。もし男性がこういったことを取り仕切っていたら、おそらく、こんなにきちんと伝えられなかったのではないか…といわれている。

祇園祭でも、鉾を動かすのは確かに男性の仕事だが、陰で女性はお客を向かえ、その家を守り、しきるという重要な仕事を担っており、それがあったればこそ、祭りが今日まで続いてきたのだといわれる。鉾がけがれるから鉾の上に女性を上げてはいけないなどといわれるが、とんでもない。大事な女性を高い鉾に上げては危険だからというのが真意であり、これが後世あやまって伝えられたのだというから驚きだ。

結婚式の仲人への挨拶は母親がいくとか、結婚祝などは女性が持参するほうがよいとか、また商売では開店時の一番最初のお客には女性に来てもらわないと店が繁盛しないなどといわれているが、これらは全て女性が動くということが「験がいい」と京都では考えられてきたからであるという。「京都らしい人」とか「京都の人は風情があってよろしいですね」などは、全て女性に対していわれることば。京都の男性の方は「もうちょっとしゃきっとせんと」と思われているかもしれない。

ある著名な学者は、日本は決して男尊女卑の国ではなかったといっている。家ひとつをとっても、母屋はあるが父屋などはないし、いろりがあった昔には「かか座」という主婦が座る場所が決まっており、その場所には他の誰も座らないものだったという。また、ご飯を分け与えるのは父親ではなく母親であり、その権限を持っていたのはスゴイことだと思う。京都が1200年の間、「京都」であり続けたのも、やはり食事ひとつもおろそかにせず毎日つくり続けてきた京の女子(おなご)はんがいてこそであるという京都の文化のお話…今京都。 ※決して殿方に喧嘩を売っているわけではないのであしからず。



