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今京都 赤裸裸 2009/03/07 12:00 am
せきらら…包み隠しのないこと。ありのまま。
◇ちょっと予備知識 → 「赤」は、裸、むき出しのこと。何もみにつけていない丸裸ということから。
類義語に露骨(ろこつ)・暴露(ばくろ)・裸出(らしゅつ)がある。
対義語は隠蔽(いんぺい)・婉曲(えんきょく)。
里の秋(童謡物語第2弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年10月12日掲載)
「里の秋」
作詞:斉藤信夫 作曲:海沼 実
静かな 静かな 里の秋 お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただふたり 栗の実煮てます いろりばた
あかるい あかるい 星の空 鳴き鳴き夜鴨の わたる夜は
ああ父さんの あの笑顔 栗の実食べては 思い出す
さよなら さよなら 椰子の島 おふねにゆられて 帰られる
ああ父さんよ ごぶじでと 今夜も母さんと 祈ります
この「里の秋」、最初は故郷を思い出す秋の景色の童謡として作られたのではなく、背景には第二次世界大戦の暗く悲しいドラマが潜んでいる。この歌がはじめて放送で発表されたのは戦争が終わった年の1945(昭和20)年の12月24日。この日の午後1時、南方で戦っていた兵士の引き揚げ第一便が浦賀港に入港することを祝してNHKが特別番組を放送するという中での一回きりの放送だけに作られた。

1945(昭和20)年8月15日、敗戦。日本人は希望も夢も、そして食べるものもなく、焦土に立ちすくむ。9日前には広島に、6日前には長崎に原子爆弾が落とされ多くの尊い命が一瞬にしてはかなく消えた。そんな中で兵士の引き揚げ船が日本に着くというニュースは忘れかけていたひとつの明るさの象徴だった。大勢の出迎えの人々が浦賀港の埠頭をうめつくし、この感動の場面の放送の中で歌われた。

戦地から運良く帰ってきた人たち、船がつくたび迎えに行っても帰らぬ人たち…。
♪ おふねにゆられて 帰られる …
その頃はまだ、戦地から父や夫、兄弟、息子たちが帰っていない家族がたくさんいた。その中には結婚を約束した恋人を待つ人もいた。
♪ ああ父さんの あの笑顔 栗の実食べては 思い出す …
人々は、それぞれの境遇に照らし合わせながら、この歌を聞きおのおの涙を流した。そこは悲しみと喜び両方のドラマがいつも生まれたに違いない。童謡「里の秋」にはこういう背景があったといわれている。

この説が正しいかどうかはわからない。けれど、夫の戦死の報が届いて、やむなく他の人と結婚した後に夫が帰り着いたという例、父も母も身寄りも亡くした子が人身売買された例、食べる物すらなく代わりに自分の身体を売る夜の女に変貌していった人の例。これらは事実であり、その事実は全て戦争が生み出した悲劇といえる。
戦争は全てを狂わせ、全てを失わせる。戦争を知らない子供たちの世代になっても、こんな悲しい童謡を二度とふたたび、子供たちに歌わせないためにも、戦争がいかに無意味でつまらないものかを決して忘れてはいけないと思う。しかし、世界のどこかで今でも争いは絶えていない…今京都。 ※写真は京都府南丹市美山町の「茅葺きの里」(2007年撮影)で本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第1弾「七つの子」はここ(←クリック)

◇ちょっと予備知識 → 「赤」は、裸、むき出しのこと。何もみにつけていない丸裸ということから。
類義語に露骨(ろこつ)・暴露(ばくろ)・裸出(らしゅつ)がある。
対義語は隠蔽(いんぺい)・婉曲(えんきょく)。
里の秋(童謡物語第2弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年10月12日掲載)
「里の秋」
作詞:斉藤信夫 作曲:海沼 実
静かな 静かな 里の秋 お背戸に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただふたり 栗の実煮てます いろりばた
あかるい あかるい 星の空 鳴き鳴き夜鴨の わたる夜は
ああ父さんの あの笑顔 栗の実食べては 思い出す
さよなら さよなら 椰子の島 おふねにゆられて 帰られる
ああ父さんよ ごぶじでと 今夜も母さんと 祈ります
この「里の秋」、最初は故郷を思い出す秋の景色の童謡として作られたのではなく、背景には第二次世界大戦の暗く悲しいドラマが潜んでいる。この歌がはじめて放送で発表されたのは戦争が終わった年の1945(昭和20)年の12月24日。この日の午後1時、南方で戦っていた兵士の引き揚げ第一便が浦賀港に入港することを祝してNHKが特別番組を放送するという中での一回きりの放送だけに作られた。

1945(昭和20)年8月15日、敗戦。日本人は希望も夢も、そして食べるものもなく、焦土に立ちすくむ。9日前には広島に、6日前には長崎に原子爆弾が落とされ多くの尊い命が一瞬にしてはかなく消えた。そんな中で兵士の引き揚げ船が日本に着くというニュースは忘れかけていたひとつの明るさの象徴だった。大勢の出迎えの人々が浦賀港の埠頭をうめつくし、この感動の場面の放送の中で歌われた。

戦地から運良く帰ってきた人たち、船がつくたび迎えに行っても帰らぬ人たち…。
♪ おふねにゆられて 帰られる …
その頃はまだ、戦地から父や夫、兄弟、息子たちが帰っていない家族がたくさんいた。その中には結婚を約束した恋人を待つ人もいた。
♪ ああ父さんの あの笑顔 栗の実食べては 思い出す …
人々は、それぞれの境遇に照らし合わせながら、この歌を聞きおのおの涙を流した。そこは悲しみと喜び両方のドラマがいつも生まれたに違いない。童謡「里の秋」にはこういう背景があったといわれている。

この説が正しいかどうかはわからない。けれど、夫の戦死の報が届いて、やむなく他の人と結婚した後に夫が帰り着いたという例、父も母も身寄りも亡くした子が人身売買された例、食べる物すらなく代わりに自分の身体を売る夜の女に変貌していった人の例。これらは事実であり、その事実は全て戦争が生み出した悲劇といえる。
戦争は全てを狂わせ、全てを失わせる。戦争を知らない子供たちの世代になっても、こんな悲しい童謡を二度とふたたび、子供たちに歌わせないためにも、戦争がいかに無意味でつまらないものかを決して忘れてはいけないと思う。しかし、世界のどこかで今でも争いは絶えていない…今京都。 ※写真は京都府南丹市美山町の「茅葺きの里」(2007年撮影)で本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第1弾「七つの子」はここ(←クリック)


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今京都 素寒貧 2009/03/05 12:00 am
すかんびん…非常に貧乏なこと。またその人。
◇ちょっと予備知識 → 持っていたものをなくしてしまったときにも使う。「寒貧」は甚だ貧しいこと。
「すっかんびん」ともいう。
類義語に無一文(むいちもん)・貧者(ひんじゃ)・極貧(ごくひん)がある。
対義語は金満家(きんまんか)・富者(ふしゃ)・富豪(ふごう)。
七つの子(童謡物語第1弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年10月11日掲載)
旧フォトヴィレッジの再掲の三つめは「童謡物語」。あまり多くは掲載していないが、せっかく調べたのだから再掲しておきたい。
「七つの子」
作詞:野口雨情 作曲:本居長世
からす なぜなくの からすは やまに かわいい ななつの こが あるからよ
かわい かわいと からすは なくの かわい かわいと なくんだよ
やまの ふるすへ いって みて ごらん まるい めを した いい こだよ
の「ななつのこ」が七羽の子か七歳の子かというお話。

結論的にはどちらでもなく、「七」は日本語特有の「たくさん」とか「いくつか」とか「ある程度」という意味で、一定の数ではないとされている。また野口雨情は「ななつのこ」を人間の七歳の子にだぶらせて書いたともいわれている。確かに人間の七歳の子供なら自分で食事を作って食べることもままならないだろう。
さらに、この歌には七五三の風習が隠されているともいわれている。昔は医学が発達していなかったため、抵抗力のない子供の死亡率は非常に高かった。神様の加護により三歳まで生きられた、五歳まで育った、七歳を無事に迎えられたという喜びとお礼参り、今後も元気に生きていけますようにという願いが七五三を生み、育んできた。

七歳の女児には帯解き式という風習があって、子供の着物にそれまでつけられていた紐を外し、着物を着るときに初めて帯を用いる儀式。つまり七歳を迎えると、抵抗力もついてよほどのことがない限りすくすくと育っていけるという特別の意味があり、子供から大人への扱いの第一歩でもあったという。そういう背景から「ななつのこ」になったという説が有力視されているそうだ。

この説が正しいかどうかわからない。けれど、病気になって慌てたり、弱虫過ぎる、腕白過ぎると心配したり、親にとって苦労のタネはつきないもの。七歳の子になってやっと胸をなでおろすのは、親から見て昔も今も変わりない七歳ではないだろうか、という童謡物語第1弾(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。

◇ちょっと予備知識 → 持っていたものをなくしてしまったときにも使う。「寒貧」は甚だ貧しいこと。
「すっかんびん」ともいう。
類義語に無一文(むいちもん)・貧者(ひんじゃ)・極貧(ごくひん)がある。
対義語は金満家(きんまんか)・富者(ふしゃ)・富豪(ふごう)。
七つの子(童謡物語第1弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年10月11日掲載)
旧フォトヴィレッジの再掲の三つめは「童謡物語」。あまり多くは掲載していないが、せっかく調べたのだから再掲しておきたい。
「七つの子」
作詞:野口雨情 作曲:本居長世
からす なぜなくの からすは やまに かわいい ななつの こが あるからよ
かわい かわいと からすは なくの かわい かわいと なくんだよ
やまの ふるすへ いって みて ごらん まるい めを した いい こだよ
の「ななつのこ」が七羽の子か七歳の子かというお話。

結論的にはどちらでもなく、「七」は日本語特有の「たくさん」とか「いくつか」とか「ある程度」という意味で、一定の数ではないとされている。また野口雨情は「ななつのこ」を人間の七歳の子にだぶらせて書いたともいわれている。確かに人間の七歳の子供なら自分で食事を作って食べることもままならないだろう。
さらに、この歌には七五三の風習が隠されているともいわれている。昔は医学が発達していなかったため、抵抗力のない子供の死亡率は非常に高かった。神様の加護により三歳まで生きられた、五歳まで育った、七歳を無事に迎えられたという喜びとお礼参り、今後も元気に生きていけますようにという願いが七五三を生み、育んできた。

七歳の女児には帯解き式という風習があって、子供の着物にそれまでつけられていた紐を外し、着物を着るときに初めて帯を用いる儀式。つまり七歳を迎えると、抵抗力もついてよほどのことがない限りすくすくと育っていけるという特別の意味があり、子供から大人への扱いの第一歩でもあったという。そういう背景から「ななつのこ」になったという説が有力視されているそうだ。

この説が正しいかどうかわからない。けれど、病気になって慌てたり、弱虫過ぎる、腕白過ぎると心配したり、親にとって苦労のタネはつきないもの。七歳の子になってやっと胸をなでおろすのは、親から見て昔も今も変わりない七歳ではないだろうか、という童謡物語第1弾(改訂・再掲)…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。


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今京都 真骨頂 2009/03/03 12:00 am
しんこっちょう…本来の姿。
◇ちょっと予備知識 → 「真」は偽りがないこと。まこと。「骨頂」は程度が甚だしいこと。この上なく悪いこと。
「骨張」とも書く。「骨長」と書くのは誤り。
類義語に真価(しんか)・真面目(しんめんもく)・本領(ほんりょう)がある。
対義語は虚飾(きょしょく)・虚栄(きょえい)。
うれしいひなまつり(童謡物語第14弾) vol.2(最終回) vol.1はここ(←クリック)
次に、この童謡ができたいきさつを見てみる。この詩を作ったのは、サトウハチロー。童謡作家として「ちいさい秋みつけた」などを書く一方で、歌謡作家としても大きな足跡を残した人だ。とくに終戦後、焦土の中の日本人に明るい希望を与えた「リンゴの歌」や、長崎の原爆をモチーフとした「長崎の鐘」などは人々に深い感銘を与えた。この「うれしいひなまつり」を書いたのは1935(昭和10)年だった。実はこの年の前年、ハチローは最初の夫人と離婚して、上の女の子二人と男の子の三人の子どもを引き取っていた。上の子がまだ小学生だったというから、まだまだ母親が恋しい年頃である。せめてものつぐないのつもりだったのだろう。立派なひな飾りの人形をプレゼントしたのである。子どもたちは大喜びし、人形を一日中ながめながら、寂しさをまぎらわせていた。子どもたちの様子を見て、ハチローは心の中で「すまない」と何度も頭を下げながら、この「うれしいひなまつり」を書き上げたという。

では、問題視している「いらした」は、字数の関係でたまたま起きた、単純なミスだったのだろうか。いや、そうではあるまい。ここには必ず隠された何かがあるはずだ。この「いらした」の本質は何なのだろう。兄などに嫁いで来た義理のお姉さんが、白い顔の官女に似ているというのか。はたまた他家に嫁いでいってしまった姉が、官女に似ているというのだろうか。「いらした」「いらっしゃる」は「来る」の尊敬語。「近くにいらした節には、どうぞ、お寄りください」といった具合に使われる類だ。しかしそれと同時に「行く」の尊敬語でもある。つまり「あちらの方面にお出かけの際は、是非富士山にいらしてください」などのときだ。どちらも身内の者にこういった使い方をするのは通常おかしい、ありえない。もし兄に嫁いで来た姉に尊敬語を使うとすれば、たとえば天皇家や華族など位の高い家から娶らなければならない。それならばつじつまがあう。しかし、その場合、いただくほうもそれなりの家柄でなくてはならくなる。それならば良家から嫁いできた新しい姉のことをいくら美しいといえども、人形などにたとえたりするだろうか? 恐らくしないだろう。

♪ お内裏様と おひな様 二人ならんで すまし顔
お内裏さまとは天皇のことで、お雛様は皇后の姿を型どっている。位の高い良家からお輿入れしたお姉さまなら、もし人形にたとえるのであっても、お雛様、つまりお姫様でなくてはならないだろう。宮仕えの官女では、それこそ失礼の極みとなりかねないはずだ。反対にお嫁に行くとなればどうだろう。良家に嫁ぐということになる。たとえば、「華族様の元に、お嫁にいらしたのです」。こういう使い方はしないでもない。
昔は、女は男があってこそ、という考え方が今の時代よりはるかに一般的だった。封建的な男尊女卑がまだまだ貫かれていた。良家に嫁ぐことになった娘や姉に対し、「あのお家にお嫁にいらっしゃる」というのは、嫁ぎ先をあがめ、今後の血のつながった姉だとしても自分の家の者ではなく、嫁ぎ先の人間になることから尊敬語を使うことがあった。ましてや、人形にたとえるのだから自分の本当の身内でなくてはならない。それならば皇后様と同格ではなく、官女と格下げしてたとえていることも、当然といえば当然である。サトウハチローはミスどころか、わざわざ「行く」の尊敬語を使ったはずなのである。しかも「お嫁にいらした姉様」とは実在した姉のことをモデルにしていたのではないかと思う。

ハチローは、幼いとき腰に大やけどを負って、いつつも家の中で遊んでいるような子どもだった。そんな彼をいつもかばい、励まし、やさしく面倒を見てくれたのが4歳年上の姉だった。姉は歌詩のとおり、白い顔した瓜ざねが尾の美人だったとされる。ハチローは、姉から読み書きを教わり、詩心を授けられた。ピアノを教えてくれたのも、心やさしき立派な男になれと説いてくれたのも姉だった。そんな誰よりも大好きな姉が嫁ぐことになった。ハチローは少し悲しかった。夜、家からこっそり抜け出して星を仰いでいるといつの間にか星が涙でうるんできた。
嫁ぐ少し前だった、姉が胸を患ったのは…。当時、肺結核は不治の病だった。周りに感染するからと、療養所に隔離されるのが常だった。姉の嫁入りは相手側から一方的に破棄された。ハチローはくやしかった。お嫁に行くことが決まったときの悲しみとはまた違う悲しみだった。「ボクが心の中で反対したから、お姉さんは病気になったのかもしれない」。ハチローは悔いていた。その夜お姉さんは息を引き取った。18歳だった。

(カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4)
♪ お嫁にいらした 姉様に
尊敬語の「いらした」を使うのなら、位の高い所に嫁がねばならない。いや姉さまは嫁ぐことなく逝ってしまったのだ。ひょっとしてこの表現は、黄泉の国へ嫁ぐ、いわば亡くなってしまったことをそのまま指しているのではないだろうか。そんな気がしてならない。亡くなった後は、浄土の国、すなわち神の国である。そう解釈すればお姉さんは若くして天に選ばれて神の元へいった。イヤ、神の元へ「いらした」のではないか。
今日は「ひな祭り」。ちょっと想いを馳せた「ひな祭り」にしてみてはどうだろうか…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第13弾「お猿のかごや」はここ (←クリック)

◇ちょっと予備知識 → 「真」は偽りがないこと。まこと。「骨頂」は程度が甚だしいこと。この上なく悪いこと。
「骨張」とも書く。「骨長」と書くのは誤り。
類義語に真価(しんか)・真面目(しんめんもく)・本領(ほんりょう)がある。
対義語は虚飾(きょしょく)・虚栄(きょえい)。
うれしいひなまつり(童謡物語第14弾) vol.2(最終回) vol.1はここ(←クリック)
次に、この童謡ができたいきさつを見てみる。この詩を作ったのは、サトウハチロー。童謡作家として「ちいさい秋みつけた」などを書く一方で、歌謡作家としても大きな足跡を残した人だ。とくに終戦後、焦土の中の日本人に明るい希望を与えた「リンゴの歌」や、長崎の原爆をモチーフとした「長崎の鐘」などは人々に深い感銘を与えた。この「うれしいひなまつり」を書いたのは1935(昭和10)年だった。実はこの年の前年、ハチローは最初の夫人と離婚して、上の女の子二人と男の子の三人の子どもを引き取っていた。上の子がまだ小学生だったというから、まだまだ母親が恋しい年頃である。せめてものつぐないのつもりだったのだろう。立派なひな飾りの人形をプレゼントしたのである。子どもたちは大喜びし、人形を一日中ながめながら、寂しさをまぎらわせていた。子どもたちの様子を見て、ハチローは心の中で「すまない」と何度も頭を下げながら、この「うれしいひなまつり」を書き上げたという。

では、問題視している「いらした」は、字数の関係でたまたま起きた、単純なミスだったのだろうか。いや、そうではあるまい。ここには必ず隠された何かがあるはずだ。この「いらした」の本質は何なのだろう。兄などに嫁いで来た義理のお姉さんが、白い顔の官女に似ているというのか。はたまた他家に嫁いでいってしまった姉が、官女に似ているというのだろうか。「いらした」「いらっしゃる」は「来る」の尊敬語。「近くにいらした節には、どうぞ、お寄りください」といった具合に使われる類だ。しかしそれと同時に「行く」の尊敬語でもある。つまり「あちらの方面にお出かけの際は、是非富士山にいらしてください」などのときだ。どちらも身内の者にこういった使い方をするのは通常おかしい、ありえない。もし兄に嫁いで来た姉に尊敬語を使うとすれば、たとえば天皇家や華族など位の高い家から娶らなければならない。それならばつじつまがあう。しかし、その場合、いただくほうもそれなりの家柄でなくてはならくなる。それならば良家から嫁いできた新しい姉のことをいくら美しいといえども、人形などにたとえたりするだろうか? 恐らくしないだろう。

♪ お内裏様と おひな様 二人ならんで すまし顔
お内裏さまとは天皇のことで、お雛様は皇后の姿を型どっている。位の高い良家からお輿入れしたお姉さまなら、もし人形にたとえるのであっても、お雛様、つまりお姫様でなくてはならないだろう。宮仕えの官女では、それこそ失礼の極みとなりかねないはずだ。反対にお嫁に行くとなればどうだろう。良家に嫁ぐということになる。たとえば、「華族様の元に、お嫁にいらしたのです」。こういう使い方はしないでもない。
昔は、女は男があってこそ、という考え方が今の時代よりはるかに一般的だった。封建的な男尊女卑がまだまだ貫かれていた。良家に嫁ぐことになった娘や姉に対し、「あのお家にお嫁にいらっしゃる」というのは、嫁ぎ先をあがめ、今後の血のつながった姉だとしても自分の家の者ではなく、嫁ぎ先の人間になることから尊敬語を使うことがあった。ましてや、人形にたとえるのだから自分の本当の身内でなくてはならない。それならば皇后様と同格ではなく、官女と格下げしてたとえていることも、当然といえば当然である。サトウハチローはミスどころか、わざわざ「行く」の尊敬語を使ったはずなのである。しかも「お嫁にいらした姉様」とは実在した姉のことをモデルにしていたのではないかと思う。

ハチローは、幼いとき腰に大やけどを負って、いつつも家の中で遊んでいるような子どもだった。そんな彼をいつもかばい、励まし、やさしく面倒を見てくれたのが4歳年上の姉だった。姉は歌詩のとおり、白い顔した瓜ざねが尾の美人だったとされる。ハチローは、姉から読み書きを教わり、詩心を授けられた。ピアノを教えてくれたのも、心やさしき立派な男になれと説いてくれたのも姉だった。そんな誰よりも大好きな姉が嫁ぐことになった。ハチローは少し悲しかった。夜、家からこっそり抜け出して星を仰いでいるといつの間にか星が涙でうるんできた。
嫁ぐ少し前だった、姉が胸を患ったのは…。当時、肺結核は不治の病だった。周りに感染するからと、療養所に隔離されるのが常だった。姉の嫁入りは相手側から一方的に破棄された。ハチローはくやしかった。お嫁に行くことが決まったときの悲しみとはまた違う悲しみだった。「ボクが心の中で反対したから、お姉さんは病気になったのかもしれない」。ハチローは悔いていた。その夜お姉さんは息を引き取った。18歳だった。

(カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4)
♪ お嫁にいらした 姉様に
尊敬語の「いらした」を使うのなら、位の高い所に嫁がねばならない。いや姉さまは嫁ぐことなく逝ってしまったのだ。ひょっとしてこの表現は、黄泉の国へ嫁ぐ、いわば亡くなってしまったことをそのまま指しているのではないだろうか。そんな気がしてならない。亡くなった後は、浄土の国、すなわち神の国である。そう解釈すればお姉さんは若くして天に選ばれて神の元へいった。イヤ、神の元へ「いらした」のではないか。
今日は「ひな祭り」。ちょっと想いを馳せた「ひな祭り」にしてみてはどうだろうか…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
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今京都 正念場 2009/03/01 12:00 am
しょうねんば…のっぴきならない大事な場面。ここぞという肝心なとき。物事の最も重要な局面。見せ場。
◇ちょっと予備知識 → もとは歌舞伎で、主役が演じる最も重要な場面のこと。
類義語に性根場(しょうねば)・土壇場(どたんば)がある。
弥生。3月ですね。桜、3月、散歩道。天気の良い日はカメラを持って散歩したいですね。
羅漢

(カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4)
最近、旧ヴィレッジのとっておきたい記事の再掲が中心だったが、昨日、久々に童謡物語を掲載した。羅漢さんも日曜日の定番になってきた。これも嬉しいことだ。今日は集合写真で。だけど、なんかバラバラね…今京都。
地蔵物語(246)

地蔵物語も結構続いている。そろそろ新しいエリアに撮りに行かなくてはと思う…今京都。

◇ちょっと予備知識 → もとは歌舞伎で、主役が演じる最も重要な場面のこと。
類義語に性根場(しょうねば)・土壇場(どたんば)がある。
弥生。3月ですね。桜、3月、散歩道。天気の良い日はカメラを持って散歩したいですね。
羅漢

(カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4)
最近、旧ヴィレッジのとっておきたい記事の再掲が中心だったが、昨日、久々に童謡物語を掲載した。羅漢さんも日曜日の定番になってきた。これも嬉しいことだ。今日は集合写真で。だけど、なんかバラバラね…今京都。
地蔵物語(246)

地蔵物語も結構続いている。そろそろ新しいエリアに撮りに行かなくてはと思う…今京都。


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今京都 四天王 2009/02/28 12:00 am
してんのう…ある部門において、特に優れている四人。また、家臣や部下の中で最も優秀な四人。
◇ちょっと予備知識 → 仏教語で、帝釈天に仕えて仏法を守る四神の総称。
類義語に三羽烏(さんばがらす)がある。
うれしいひなまつり(童謡物語第14弾) vol.1
サトウハチロー作詞・河村光陽作曲
あかりをつけましょ ぼんぼりに お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓 今日はたのしい ひな祭り
お内裏様と おひな様 二人ならんで すまし顔
お嫁にいらした 姉様に よく似た官女(かんじょ)の 白い顔
金のびょうぶに うつる灯を かすかにゆする 春の風
すこし白酒 めされたか あかいお顔の 右大臣
着物をきかえて 帯しめて 今日はわたしも はれ姿
春のやよいの このよき日 なによりうれしい ひな祭り
3月3日は桃の節句。女の子の成長を祝うひな祭り。日本的行事のこの日、今でも必ず歌われている童謡が「うれしいひなまつり」。お琴の演奏曲としても知られ、海外でも日本の代表的な曲として有名な歌。でも諸外国では「うれしい」はずが、なぜか「悲しいみなしごの歌」という題名になっている。確かに「うれしい」というよりは、「悲しい」と思える曲であり、歌詞でもある。
2番に出てくる
♪ お嫁にいらした 姉様に
なぜ身内に対して、敬語の「いらした」が使われているのか。それにこの「いらした」をよくよく考えると、「いらした」は「行く」の尊敬語でもあり「来る」の尊敬語でもあるから、白い顔の官女に似ているお姉さんは、果たして他家に嫁いでいったのだろうか、それともこの家に嫁いで来たのだろうか。「いらした」ならどちらでもとれてしまう。

歌の謎解きの前に、ひな祭りのルーツを探ってみる。現在のひな祭りといえば、ひな人形を飾り、白酒、甘酒を召し、ひし餅にはまぐりのお吸い物などを食べてお祝いしている。しかし、実はこのひな祭りというもの、裸になって水浴びをする風習からはじまった。これは昔、まだ風呂がない時代のこと。春の終わりに川や海の水につかって冬の間の汚れた垢を落とす習慣があった。身体をキレイにすることにより、罪穢れも清められるとされていた。

3月3日に水浴びでは、いくら垢がたまっていても寒すぎないか。イヤ、旧暦の3月3日は今の4月の終わりから5月の初め、つまりゴールデンウィーク時期ということになるからまぁ大丈夫か。
家族や親戚縁者が集い、水浴びをした後に、その年の健康や幸福を祈りながら、貝を拾ったり、花をめでたり、ごちそうや酒を飲む行事がひらかれていた。そして、それらが潮干狩りや花見などになっていった。
平安王朝時代になると、水浴びの風習がすたれ、代わりに人形に穢れをつけて水に流すようになった。「流しびいな」とよばれるものである。

「びいな」とは、紙などで作った人形のこと。後に「ひな」となり、「ひな人形」となる。それとともに、貴族の間では、贅沢な人形を飾る「ひいな遊び」が流行りだす。これが公家から武家、さらに江戸時代になると庶民の間でも人形が飾られるようになっていった。だからもともとは女の子に限らず、誰もが行う水浴びの習慣が、いつの間にか人形を飾ることにより、女の子をいとおしんで育てようという心を教えた祭りに変貌を遂げたのだった。それと同時に中国の行事にならって、徳川幕府がいわゆる「五節句」を定めた。1月7日を人日(じんじつ)とよばれる「七草の節句」、5月5日が端午、「菖蒲の節句」、さらに7月7日が七夕(しちせき)の「七夕祭」で、9月9日は重陽(ちょうよう)こと「菊の節句」とした。そして3月3日が上巳(じょうし)、「桃の節句」となったのである…今京都。(次回 2009年3月3日に続く) ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第13弾「お猿のかごや」はここ (←クリック)

◇ちょっと予備知識 → 仏教語で、帝釈天に仕えて仏法を守る四神の総称。
類義語に三羽烏(さんばがらす)がある。
うれしいひなまつり(童謡物語第14弾) vol.1
サトウハチロー作詞・河村光陽作曲
あかりをつけましょ ぼんぼりに お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓 今日はたのしい ひな祭り
お内裏様と おひな様 二人ならんで すまし顔
お嫁にいらした 姉様に よく似た官女(かんじょ)の 白い顔
金のびょうぶに うつる灯を かすかにゆする 春の風
すこし白酒 めされたか あかいお顔の 右大臣
着物をきかえて 帯しめて 今日はわたしも はれ姿
春のやよいの このよき日 なによりうれしい ひな祭り
3月3日は桃の節句。女の子の成長を祝うひな祭り。日本的行事のこの日、今でも必ず歌われている童謡が「うれしいひなまつり」。お琴の演奏曲としても知られ、海外でも日本の代表的な曲として有名な歌。でも諸外国では「うれしい」はずが、なぜか「悲しいみなしごの歌」という題名になっている。確かに「うれしい」というよりは、「悲しい」と思える曲であり、歌詞でもある。
2番に出てくる
♪ お嫁にいらした 姉様に
なぜ身内に対して、敬語の「いらした」が使われているのか。それにこの「いらした」をよくよく考えると、「いらした」は「行く」の尊敬語でもあり「来る」の尊敬語でもあるから、白い顔の官女に似ているお姉さんは、果たして他家に嫁いでいったのだろうか、それともこの家に嫁いで来たのだろうか。「いらした」ならどちらでもとれてしまう。

歌の謎解きの前に、ひな祭りのルーツを探ってみる。現在のひな祭りといえば、ひな人形を飾り、白酒、甘酒を召し、ひし餅にはまぐりのお吸い物などを食べてお祝いしている。しかし、実はこのひな祭りというもの、裸になって水浴びをする風習からはじまった。これは昔、まだ風呂がない時代のこと。春の終わりに川や海の水につかって冬の間の汚れた垢を落とす習慣があった。身体をキレイにすることにより、罪穢れも清められるとされていた。

3月3日に水浴びでは、いくら垢がたまっていても寒すぎないか。イヤ、旧暦の3月3日は今の4月の終わりから5月の初め、つまりゴールデンウィーク時期ということになるからまぁ大丈夫か。
家族や親戚縁者が集い、水浴びをした後に、その年の健康や幸福を祈りながら、貝を拾ったり、花をめでたり、ごちそうや酒を飲む行事がひらかれていた。そして、それらが潮干狩りや花見などになっていった。
平安王朝時代になると、水浴びの風習がすたれ、代わりに人形に穢れをつけて水に流すようになった。「流しびいな」とよばれるものである。

「びいな」とは、紙などで作った人形のこと。後に「ひな」となり、「ひな人形」となる。それとともに、貴族の間では、贅沢な人形を飾る「ひいな遊び」が流行りだす。これが公家から武家、さらに江戸時代になると庶民の間でも人形が飾られるようになっていった。だからもともとは女の子に限らず、誰もが行う水浴びの習慣が、いつの間にか人形を飾ることにより、女の子をいとおしんで育てようという心を教えた祭りに変貌を遂げたのだった。それと同時に中国の行事にならって、徳川幕府がいわゆる「五節句」を定めた。1月7日を人日(じんじつ)とよばれる「七草の節句」、5月5日が端午、「菖蒲の節句」、さらに7月7日が七夕(しちせき)の「七夕祭」で、9月9日は重陽(ちょうよう)こと「菊の節句」とした。そして3月3日が上巳(じょうし)、「桃の節句」となったのである…今京都。(次回 2009年3月3日に続く) ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
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