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今京都 張本人 2009/03/24 12:00 am
ちょうほんにん…事件を引き起こすもとになった人。悪事を企てた人。
◇ちょっと予備知識 → 「張本」は事件の発端や原因のこと。
類義語に首謀者(しゅぼうしゃ)がある。
観光で京都にやってくる一部の人々は古い木造建築はすべて町家だと思っているらしい。「町家」は京都ブームの目玉であるが、正しい京町家にはちゃんとした基準がある。まず、「町家」の基本は、歴史的には豊臣秀吉の頃にできた。残念ながら、現存している京都の町家は明治以降のものだ。さて、その特徴であるが、ひとつめは、必ず通りに面していることがあげられる。入り口まで庭があったりするのは「町家」ではない。そして、狭い間口と対照的に、奥行きは60mにも及ぶ。これが「うなぎの寝床」といわれるゆえんである。そして、ふたつめは、通りに入り口があるから、たいていの「町家」では表の間で商売を行い、奥に家族の生活空間がある。この入り口で商売、奥に家族の生活空間という構成も不可欠な要素。京都の町を散策する際、こういう知識を持っていると意外と楽しいものである。
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
ソーダ村…の情報を募集しています。詳細はここ(←クリック) よろしくお願いします。
たきび(童謡物語第9弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年12月4日掲載)
「たきび」
作詞:巽 聖歌 作曲:渡辺 茂
かきねの かきねの 曲がり角 たきびだ たきびだ 落ち葉たき
あたろうか あたろうよ 北風ぴいぷう 吹いている
さざんか さざんか 咲いた道 たきびだ たきびだ 落ち葉たき
あたろうか あたろうよ しもやけお手てが もうかゆい
こがらし こがらし 寒い道 たきびだ たきびだ 落ち葉たき
あたろうか あたろうよ 相談しながら 歩いてる
戦後から現代まで、ずっと音楽の教科書に選定され続けている童謡に「たきび」がある。
♪ たきびだ たきびだ 落ち葉たき
「落ち葉たき」とは何? と思う現代の子ども多いでは? 読んで字の如く、落ち葉を集めて火で焚くことなんだけれど、最近はこんな光景をトンと見なくなった。
♪ あたろうか あたろうよ
と、焚き火を経験したことがない子ども多いことだろう。都会の子だったら、なおさらである。
♪ しもやけお手てが もうかゆい
北国ならまだしも、しもやけになった手を急に暖めると血の巡りがよくなって、かゆくなるという実体験をした子ども少ないかも。それなのにこの歌はしっかりと生き抜いてきた。しかし、この童謡の歩んできた道は決して平坦ではなく、肩身の狭いものだった。何度も何度も「たきび」の火は消されそうになっていたという。

この歌の童謡碑は作詞者の巽聖歌の出身地、岩手県紫波郡紫波町の紫波運動公園の中にある。今も自然が残るこの地は「たきび」の故郷としてはもってこい。だが、東京都中野区上高田、西武新宿線、新井薬師前駅の南東300mほどの住宅街にある旧家の入り口にも『「たきび」のうた 発祥の地』という立て札が立っているという。
実は、聖歌はこの近所の現在の上高田4丁目に住んでいた。この立て札の立っている家は広い敷地に大きな庭木が何本も残り、長く続く竹垣は、まさに、
♪ かきねの かきねの 曲がり角
だという。そこには時間を置き忘れてきたような空間があり、武蔵野の面影が残されている。聖歌は、自分の家からほど近いこの垣根の細道を、毎日仕事の行き帰りの通り道にしていた。今は、けやきの木がそびえているらしいが、この詩を作った当時は本当に、
♪ さざんか さざんか
が植えられていただろうし、冬には庭で、
♪ たきびだ たきびだ 落ち葉たき
する様子を文字通り垣間見たに違いない。

そんな中から生まれた「たきび」に渡辺茂が曲をつけ「ラジオ少国民」という放送テキストに掲載されたのは、1941(昭和16)年の12月号。今でいえば幼児番組の「おかあさんといっしょ」の今月の中の一曲のようなもの。それにともなって12月9日からNHKラジオ「幼児の時間」という番組内で発表。しかし、12月8日に突如勃発したハワイ真珠湾攻撃、日米開戦のため、翌日10日の放送分で放送が急遽中止になる。戦況をこと細かに報告する番組編成となり、11日から「幼児の時間」は中止された。しかも軍から「たきび」の歌にクレームがついた。たきびは敵機の目印になり、攻撃の目標になるから、この歌の放送を禁じる。たきびをしている近くには、当然人がいるし、家もあるから、敵から攻撃されないとは限らない。おまけに物資不足の時代。落ち葉とて貴重な燃料だというのだ。
♪ あたろうか あたろうよ
などと、楽しみながら落ち葉たきをしている場合ではないということ。落ち葉を燃料にご飯やお風呂をたいたりすることだってできるというのである。そんなこんなで「たきび」の火は、生まれてすぐに消された。わずか二度だけしか放送されぬまま消えた。またしても戦争の影響。

戦争の影響で消された「たきび」の火。ところが「たきび」は戦争時代を経て、戦後、再び甦るのである。1949(昭和24)年8月1日からNHKは「うたのおばさん」の放送を開始。この番組の中の「うたのおけいこ」というコーナーで新しい童謡を続々と発表。「めだかの学校」「かわいいかくれんぼ」「ぞうさん」などが次々と作られていった。そんな中に「たきび」があった。消したはずの「たきび」の火種はまだくすぶっていたのである。たちまち子どもたちは「たきび」が大好きになった。さらに、1952(昭和27)年からは教科書にも選曲されるようになって「たきび」の火の勢いはよく燃え盛ったのである。そんな最中のこと、またもや「たきび」の火を消そうという動きが始まる。軍に代わってクレームを出したのは消防庁。理由は防火教育上よくない、街角でのたきびは奨励できないというのである。しかし「たきび」の歌は、既に子どもたちに浸透し定着していた。いくら消火するのが仕事の消防といえども「たきび」の歌を完全に消火することができなかったのである。困った消防庁は「それならば…」と条件をつける。今後、教科書や歌集にこの歌の詩や譜面を載せる際には、必ずその脇に水の入ったバケツや監視役の大人を挿入絵として描くように…と。

なんとか歌は生き残ったが、時を経ると今度は「たきび」自体をする場所が少なくなってしまった。それでも「たきび」は子どもたちの心の中で燃え続けていた。そしていつの頃からか「たきびをしてみたい」という願望に変わっていった。今でも続いているかどうかは定かではないが、『「たきび」のうた発祥の地』では、毎年一回、中野区内の親子を集めて
♪ 落ち葉たき
をしながら、やきいもを作る行事があるという。さらに歌に歌われる「たきび」を体験させようと幼稚園や学校では社会学習として「たきび」を行っているところもあるという。しかし、どうも「たきび」はやはり肩身が狭いようだ。現代では、「ダイオキシンの問題」が勃発する。まったくもって生まれてから現代にいたるまでクレーム続きの歌。でも、それでも「たきび」の歌は、歌い続けられるだろう。いや、歌われ続けて欲しい、その火を絶やさずにいて欲しい。
♪ あたろうか あたろうよ
の会話形式の詩には、心洗われるような忘れさせたくない優しさが、満ち溢れている。

(ブレブレ゛けど雰囲気があったので…)
寒い冬、みんなで焚き火を囲むのもいい。ぷ〜んと香る焼き芋の匂い。(ん〜たまらん!) けれど、くれぐれも火の用心には細心の注意を!…今京都。 ※写真はEPSON R-D1sで撮った京都東山花灯路2009の光景で本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第8弾「黄金虫(こがねむし)」はここ(←クリック)

◇ちょっと予備知識 → 「張本」は事件の発端や原因のこと。
類義語に首謀者(しゅぼうしゃ)がある。
観光で京都にやってくる一部の人々は古い木造建築はすべて町家だと思っているらしい。「町家」は京都ブームの目玉であるが、正しい京町家にはちゃんとした基準がある。まず、「町家」の基本は、歴史的には豊臣秀吉の頃にできた。残念ながら、現存している京都の町家は明治以降のものだ。さて、その特徴であるが、ひとつめは、必ず通りに面していることがあげられる。入り口まで庭があったりするのは「町家」ではない。そして、狭い間口と対照的に、奥行きは60mにも及ぶ。これが「うなぎの寝床」といわれるゆえんである。そして、ふたつめは、通りに入り口があるから、たいていの「町家」では表の間で商売を行い、奥に家族の生活空間がある。この入り口で商売、奥に家族の生活空間という構成も不可欠な要素。京都の町を散策する際、こういう知識を持っていると意外と楽しいものである。
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
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たきび(童謡物語第9弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年12月4日掲載)
「たきび」
作詞:巽 聖歌 作曲:渡辺 茂
かきねの かきねの 曲がり角 たきびだ たきびだ 落ち葉たき
あたろうか あたろうよ 北風ぴいぷう 吹いている
さざんか さざんか 咲いた道 たきびだ たきびだ 落ち葉たき
あたろうか あたろうよ しもやけお手てが もうかゆい
こがらし こがらし 寒い道 たきびだ たきびだ 落ち葉たき
あたろうか あたろうよ 相談しながら 歩いてる
戦後から現代まで、ずっと音楽の教科書に選定され続けている童謡に「たきび」がある。
♪ たきびだ たきびだ 落ち葉たき
「落ち葉たき」とは何? と思う現代の子ども多いでは? 読んで字の如く、落ち葉を集めて火で焚くことなんだけれど、最近はこんな光景をトンと見なくなった。
♪ あたろうか あたろうよ
と、焚き火を経験したことがない子ども多いことだろう。都会の子だったら、なおさらである。
♪ しもやけお手てが もうかゆい
北国ならまだしも、しもやけになった手を急に暖めると血の巡りがよくなって、かゆくなるという実体験をした子ども少ないかも。それなのにこの歌はしっかりと生き抜いてきた。しかし、この童謡の歩んできた道は決して平坦ではなく、肩身の狭いものだった。何度も何度も「たきび」の火は消されそうになっていたという。

この歌の童謡碑は作詞者の巽聖歌の出身地、岩手県紫波郡紫波町の紫波運動公園の中にある。今も自然が残るこの地は「たきび」の故郷としてはもってこい。だが、東京都中野区上高田、西武新宿線、新井薬師前駅の南東300mほどの住宅街にある旧家の入り口にも『「たきび」のうた 発祥の地』という立て札が立っているという。
実は、聖歌はこの近所の現在の上高田4丁目に住んでいた。この立て札の立っている家は広い敷地に大きな庭木が何本も残り、長く続く竹垣は、まさに、
♪ かきねの かきねの 曲がり角
だという。そこには時間を置き忘れてきたような空間があり、武蔵野の面影が残されている。聖歌は、自分の家からほど近いこの垣根の細道を、毎日仕事の行き帰りの通り道にしていた。今は、けやきの木がそびえているらしいが、この詩を作った当時は本当に、
♪ さざんか さざんか
が植えられていただろうし、冬には庭で、
♪ たきびだ たきびだ 落ち葉たき
する様子を文字通り垣間見たに違いない。

そんな中から生まれた「たきび」に渡辺茂が曲をつけ「ラジオ少国民」という放送テキストに掲載されたのは、1941(昭和16)年の12月号。今でいえば幼児番組の「おかあさんといっしょ」の今月の中の一曲のようなもの。それにともなって12月9日からNHKラジオ「幼児の時間」という番組内で発表。しかし、12月8日に突如勃発したハワイ真珠湾攻撃、日米開戦のため、翌日10日の放送分で放送が急遽中止になる。戦況をこと細かに報告する番組編成となり、11日から「幼児の時間」は中止された。しかも軍から「たきび」の歌にクレームがついた。たきびは敵機の目印になり、攻撃の目標になるから、この歌の放送を禁じる。たきびをしている近くには、当然人がいるし、家もあるから、敵から攻撃されないとは限らない。おまけに物資不足の時代。落ち葉とて貴重な燃料だというのだ。
♪ あたろうか あたろうよ
などと、楽しみながら落ち葉たきをしている場合ではないということ。落ち葉を燃料にご飯やお風呂をたいたりすることだってできるというのである。そんなこんなで「たきび」の火は、生まれてすぐに消された。わずか二度だけしか放送されぬまま消えた。またしても戦争の影響。

戦争の影響で消された「たきび」の火。ところが「たきび」は戦争時代を経て、戦後、再び甦るのである。1949(昭和24)年8月1日からNHKは「うたのおばさん」の放送を開始。この番組の中の「うたのおけいこ」というコーナーで新しい童謡を続々と発表。「めだかの学校」「かわいいかくれんぼ」「ぞうさん」などが次々と作られていった。そんな中に「たきび」があった。消したはずの「たきび」の火種はまだくすぶっていたのである。たちまち子どもたちは「たきび」が大好きになった。さらに、1952(昭和27)年からは教科書にも選曲されるようになって「たきび」の火の勢いはよく燃え盛ったのである。そんな最中のこと、またもや「たきび」の火を消そうという動きが始まる。軍に代わってクレームを出したのは消防庁。理由は防火教育上よくない、街角でのたきびは奨励できないというのである。しかし「たきび」の歌は、既に子どもたちに浸透し定着していた。いくら消火するのが仕事の消防といえども「たきび」の歌を完全に消火することができなかったのである。困った消防庁は「それならば…」と条件をつける。今後、教科書や歌集にこの歌の詩や譜面を載せる際には、必ずその脇に水の入ったバケツや監視役の大人を挿入絵として描くように…と。

なんとか歌は生き残ったが、時を経ると今度は「たきび」自体をする場所が少なくなってしまった。それでも「たきび」は子どもたちの心の中で燃え続けていた。そしていつの頃からか「たきびをしてみたい」という願望に変わっていった。今でも続いているかどうかは定かではないが、『「たきび」のうた発祥の地』では、毎年一回、中野区内の親子を集めて
♪ 落ち葉たき
をしながら、やきいもを作る行事があるという。さらに歌に歌われる「たきび」を体験させようと幼稚園や学校では社会学習として「たきび」を行っているところもあるという。しかし、どうも「たきび」はやはり肩身が狭いようだ。現代では、「ダイオキシンの問題」が勃発する。まったくもって生まれてから現代にいたるまでクレーム続きの歌。でも、それでも「たきび」の歌は、歌い続けられるだろう。いや、歌われ続けて欲しい、その火を絶やさずにいて欲しい。
♪ あたろうか あたろうよ
の会話形式の詩には、心洗われるような忘れさせたくない優しさが、満ち溢れている。

(ブレブレ゛けど雰囲気があったので…)
寒い冬、みんなで焚き火を囲むのもいい。ぷ〜んと香る焼き芋の匂い。(ん〜たまらん!) けれど、くれぐれも火の用心には細心の注意を!…今京都。 ※写真はEPSON R-D1sで撮った京都東山花灯路2009の光景で本文とは関係ないのであしからず。
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今京都 断末魔 2009/03/22 12:00 am
だんまつま…息を引き取る間際。また、臨終の苦しみのこと。
◇ちょっと予備知識 → 「末魔」は仏教で、触られると激痛を伴って死に至るとされる身体の部分。
「断末摩」とも書く。
類義語に今際(いまわ)・末期(まつご)・死期(しき)・往生際(おうじょうぎわ)がある。
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
ソーダ村…の情報を募集しています。詳細はここ(←クリック) よろしくお願いします。
羅漢

京都は年間を通して多くの観光客が訪れるが、市内中心部の道路は狭く自動車による移動には適さない。路面電車や路線バスなど公共交通を活用したほうがはるかに効率的である。渋滞の主な原因はマイカーと公共交通の混在。マイカーの流入で路線バスは遅くなり、時刻表どおりに運行できない。バスが時間どおりに来ないのでマイカーの使用が増え、さらに道路が混雑するという悪循環に陥ってしまう。多くの人がマイカーをやめると路線バスの遅れはなくなり、バスの増便も可能となってくる。便利なら公共交通の利用者も増える。また、渋滞は駐車場の問題でもある。観光バスは動いている間はまだよいが、観光客を降ろして待つ間、駐車スペースが必要となる。マイカーとともに駐車待ちの渋滞を引き起こす。

郊外の駐車場にマイカーを置き、公共交通で移動する「パークアンドライド」を京都は推進している。観光バスも「パークアンドライド」の対象としたいものだ。都市交通に関しては、歩行者、公共交通、自転車、自動車の順に考えるのが基本ルール。現在は自動車が優先的に考えられており、逆になっているのが実態。場所柄などをよく検討し、必要な規制なら設けなくてはならない。人々に訴えかけて意識を変える手法「モビリティ・マネジメント」の活用により、京都に車を流入させないように呼びかけるしかない。時間はかかるが社会的風潮させ作れれば、強制的な規制もしやすくなる。

(カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4)
以前に歩く(←クリック)で掲載した内容と類似するが、もうすぐ桜の季節。冬の間、少しはマシになっていたが、これからの季節は花見の観光客で渋滞、その渋滞の車から出る排気ガスで空気が汚れる。渋滞は人をイライラさせ、環境をも破壊する。渋滞はないほうがいいのは当たり前だよね、羅漢さん…今京都。
地蔵物語(249)

さて、諸刃の剣の情報がひとつ。2009(平成21)年3月28日から全国で高速道路料金の大幅値下げが始まる。値下げの影響で観光客が増える一方で、市内の車の流入も増えると予想される。京都市は「パークアンドライド」のPRを強化するというが、どこまで対応しきれるか、また、どれだけの人が従ってくれるか、問題だ。今回の大幅値下げは、地方圏の高速道路料金が土日祝日に限り上限1000円で乗り放題になるというもの。確かに観光客の増加は期待できるが、観光客が増えても渋滞が悪化すれば、歩行者と公共交通を優先する交通政策や地球温暖化防止の取り組みが後退しかねない。さらに、今更ながらに以前に掲載した寺社仏閣(←クリック)の内容が気になる。高速道路料金の大幅値下げは観光地にとってはまさに諸刃の剣だよね、お地蔵さん…今京都。

◇ちょっと予備知識 → 「末魔」は仏教で、触られると激痛を伴って死に至るとされる身体の部分。
「断末摩」とも書く。
類義語に今際(いまわ)・末期(まつご)・死期(しき)・往生際(おうじょうぎわ)がある。
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
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羅漢

京都は年間を通して多くの観光客が訪れるが、市内中心部の道路は狭く自動車による移動には適さない。路面電車や路線バスなど公共交通を活用したほうがはるかに効率的である。渋滞の主な原因はマイカーと公共交通の混在。マイカーの流入で路線バスは遅くなり、時刻表どおりに運行できない。バスが時間どおりに来ないのでマイカーの使用が増え、さらに道路が混雑するという悪循環に陥ってしまう。多くの人がマイカーをやめると路線バスの遅れはなくなり、バスの増便も可能となってくる。便利なら公共交通の利用者も増える。また、渋滞は駐車場の問題でもある。観光バスは動いている間はまだよいが、観光客を降ろして待つ間、駐車スペースが必要となる。マイカーとともに駐車待ちの渋滞を引き起こす。

郊外の駐車場にマイカーを置き、公共交通で移動する「パークアンドライド」を京都は推進している。観光バスも「パークアンドライド」の対象としたいものだ。都市交通に関しては、歩行者、公共交通、自転車、自動車の順に考えるのが基本ルール。現在は自動車が優先的に考えられており、逆になっているのが実態。場所柄などをよく検討し、必要な規制なら設けなくてはならない。人々に訴えかけて意識を変える手法「モビリティ・マネジメント」の活用により、京都に車を流入させないように呼びかけるしかない。時間はかかるが社会的風潮させ作れれば、強制的な規制もしやすくなる。

(カメラ/EPSON R-D1s レンズ/NOKTON classic 35mm F1.4)
以前に歩く(←クリック)で掲載した内容と類似するが、もうすぐ桜の季節。冬の間、少しはマシになっていたが、これからの季節は花見の観光客で渋滞、その渋滞の車から出る排気ガスで空気が汚れる。渋滞は人をイライラさせ、環境をも破壊する。渋滞はないほうがいいのは当たり前だよね、羅漢さん…今京都。
地蔵物語(249)

さて、諸刃の剣の情報がひとつ。2009(平成21)年3月28日から全国で高速道路料金の大幅値下げが始まる。値下げの影響で観光客が増える一方で、市内の車の流入も増えると予想される。京都市は「パークアンドライド」のPRを強化するというが、どこまで対応しきれるか、また、どれだけの人が従ってくれるか、問題だ。今回の大幅値下げは、地方圏の高速道路料金が土日祝日に限り上限1000円で乗り放題になるというもの。確かに観光客の増加は期待できるが、観光客が増えても渋滞が悪化すれば、歩行者と公共交通を優先する交通政策や地球温暖化防止の取り組みが後退しかねない。さらに、今更ながらに以前に掲載した寺社仏閣(←クリック)の内容が気になる。高速道路料金の大幅値下げは観光地にとってはまさに諸刃の剣だよね、お地蔵さん…今京都。


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今京都 短兵急 2009/03/21 12:00 am
たんぺいきゅう…やにわに行動を起こすこと。出し抜けなさま。
◇ちょっと予備知識 → 短刀などの短い武器で、急襲をかけることから。「単兵急」と書くのは誤り。
類義語に突如(とつじょ)・唐突(とうとつ)・忽然(こつぜん)・卒然(そつぜん)・卒爾(そつじ)・
俄然(がぜん)がある。
春眠暁を覚えず 処処啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落ちること知る多少。孟浩然の詩、「春暁」。原文は、春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少 だったか…。春は朝が来たのも知らずつい寝過ごしてしまう あちらこちらで鳥のさえずりが聞こえる 昨日の夜は雨風の音がすごかった 花もいくらか散ってしまったことだろう ということ。
この時季は本当に眠い。少し油断すると睡魔に襲われる。まぁ、襲われるのも一興かと…。
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
ソーダ村…の情報を募集しています。詳細はここ(←クリック) よろしくお願いします。
黄金虫(童謡物語第8弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年11月21日掲載)
「黄金虫(こがねむし)」
作詞:野口雨情 作曲:中山晋平
黄金虫は 金持ちだ 金蔵たてた 蔵たてた 飴屋で水飴 買って来た
黄金虫は 金持ちだ 金蔵たてた 蔵たてた 子供に水飴 なめさせた
コガネムシの種類は世界で17000種にのぼるらしい。カブトムシまでが、コガネムシの一種だというから驚き。もともとコガネムシの種類というのは、植物の葉を食う害虫として厄介者扱いされていた。そんな中で通常「黄金虫」とよばれるものは体長2cmぐらい、緑色で金色に輝いて見えるものをさすということ。
♪ 黄金虫は 金持ち
だから、黄金虫というのではなく、黄金色だから黄金虫。

当時は童謡詩にかかわらず歌の詩といえば四行詩が主だったが、この詩は三行詩であり、そのうち二行めまでは、
♪ 黄金虫は 金持ちだ 金蔵たてた 蔵たてた
と、一番も二番も同じ歌詞で、最後の行だけが異なる。ちょっとしたポイントをつけただけだといえる。しかし、そこが反対にやけに素朴でかわいらしいのかもしれない。また、「黄金虫は金持ちだから、子供に大好きな飴を自由に食べさせることができていいなぁ…」といったような、当時の日本の貧困な世相をからませ、子供に対する親の愛情や、ないものねだりの感情、憧れが、ところどころに滲んでいる童謡でもある…としてしまうとこの話は終わってしまう。不思議の元は「飴屋」とか「水飴なめる」はどこか唐突すぎるということと、まして一番も二番も水飴である必要もないだろうと。ここに何か隠されているのではないか…と気になった。

この当時の飴屋は一種の大道芸人みたいなものとして扱われていた。祭りの屋台などで、飴売りの店を見かけることがある。現在でも七五三にはつきものの千歳飴。あれは飴屋が考案して「元気に大きくなれますように」という願いを神に捧げてもらったというふれこみのうえ、神社の境内で売り出したのがはじまりといわれている。つまり
♪ 飴屋で水飴 買って来た
には、当時、医療の発達が非常に遅れていたため七五三の風習は「やっとなんとか3歳まで生きてこられた」「5歳まで、7歳までありがとうございます」という気持ちの表れから誕生した風習。七五三のお詣りの後に、これからの無事を祈って飴を買ってやる、それは親から子への最大のプレゼントでもあった。金太郎飴などもそうである。飴を食べて金太郎のような元気な子供に成長して欲しいという親の願いだったわけである。

しかし、当時、まだまだ人々は貧しかった。明日の飯さえない暮らしをしていた。飴どころではない。買ってあげたいがそんな余裕はどこにもない。
♪ 黄金虫は 金持ちだ
金持ちの家の子供たちの口に入るのが関の山だった。この詩は当時の貧しい家の子供たちの様子と願望が入り混じっている。飴は買ってやれずとも、七五三まで生きてこれた子供は、まだマシ。貧しさゆえに子供を養いきれず、生まれたばかりの赤ん坊の口と鼻の上に濡れた紙や布を置いて窒息死させる「間引き」などというものが実際に行われていた時代。親だって好んでそんな行為に走るわけではない。貧しさゆえに食べるものがない、母親の乳すらでない。苦悩に悶えながら決断に迫られて、わが子に手をかけるしか方法がなかった。なかには金持ちの家の玄関先や、神社・寺などに置き去りにするケースもあった。少し年齢が大きくなった場合は、遊郭や角兵衛獅子など芸人の元に売られる例もあった。

苦しさやしごきに耐え切れず涙した子供たちも多かった。「こんなことならいっそ死んでしまったほうがよかった」…そんな思いが脳裏をよぎる。そんなかわいそうな身の上に同情して自分の家に引き取って育ててくれたり、自分の家の奉公人として雇ってくれる財閥や商家なども中にはあった。つまり金持ちが
♪ 飴屋で水飴 買って来た
ということである。飴屋とは、大道芸人などの元締めの親分や遊郭の主人たち、水飴とは過酷な運命にあえぐ子供たちをさしている。
♪ 子供に水飴 なめさせた
だか、そのあとには、ふたたび過酷な運命を辿る子供がいた。まさに飴とムチ。芸人として町村を雨の日も風の日もあてもなく渡り歩く辛さを考えれば、まだまだ幸せだったのかも知れない。毎日違う男たちを相手に身をささぐ廓暮らしにくらべれば、ましな生活だったのかもしれない。この詩にはこういう時代の背景が込められていた…。
金持ちの家には黄金虫が棲みついていると昔は信じられていた。さて、その黄金虫の正体は何だったか? それがこの童謡の最大のポイント。えっ!? 「黄金虫だから黄金虫に決まっているだろう」って!? それが…。

黄金虫の正体は、なんとチャバネゴキブリのことだったというから驚き。雨情が生まれた茨城県や北関東では、体の色からチャバネゴキブリのことを黄金虫と呼んでいたそうだ(本当だろうか?)。ゴキブリが家に棲みつくと金持ちになるというわけでなく、金持ちの家には食べ物もたくさんあり、暖かく棲み心地がいいからゴギブリが集まってくるということ。不衛生などという考えは、当時は全くなかった。とある県には、ゴキブリが多くいる家はお金がたまり、玄関先に「油虫売ります」などという貼り紙までされていたというからびっくり。さらに、金持ちになりたくて、ない金をはたいて黄金虫(ゴキブリ)を買った貧乏人。しかし、貧乏すぎて黄金虫(ゴキブリ)のエサすらなく逃げ出され、結局金持ちになれなかったというオチまで存在するというから摩訶不思議。

しかし、何故、ゴキブリが金持ちの印になってしまったのか…それはゴキブリのメスの卵巣が一見すると印籠の形に似ているからだといわれている。
♪ 黄金虫は 金持ちだ
「金」とは印籠のことだったのである。ゴキブリは外敵がいないことから、繁殖力が高いといわれている。まさか現在のように嫌われ者として扱われるなんて、当時の人は考えもしなかった。ゴキブリ自身もそうであろう。ゴキブリを毛嫌いするようになったのは「自分の家は中流家庭以上」と考えるようになった、たかだか数十年ほど前からだといわれている。まぁ…それだけ人々の暮らしが裕福になったのはいいことだけれど…。それまでは、金持ちの証、金持ちの使いとして大事にされていた。今の時代では信じがたいが…。

童謡物語としてはもう終わっているのだけれど、黄金虫の意外な正体…ゴキブリについて、ちょっと触れてみる。もしかしたら、ゴキブリに対する考えが変わるかも。
ゴキブリは人間の嫌われ者。けれど生物としては大先輩。なにしろ恐竜さえ棲んでいなかった3億年も前に出現して、それ以来、その姿もあまり変わらずに生き延びてきたというからスゴイ。現在、日本には約50種類のゴキブリがいるといわれており、その多くは森や林で暮らしている。もともとゴキブリは森林の朽ちた木の皮の中や、落ち葉の下で暮らす昆虫だ。それが、いつの間にか食べ物が豊富で冬でも暖かい人家に棲むゴキブリが出てきた。日本で人家を棲み家とするゴキブリは、ヤマトゴキブリ、クロゴキブリ、チャバネゴキブリ、ワモンゴキブリなどで、ヤマトゴキブリ以外は江戸時代から明治にかけて船荷などで外国…特に暖かい南の国から入ってきた種類だという。

しかし、生活環境に適応し、よりよい暮らしをしようと本能のままに人家に出現したゴキブリ。それが人類に嫌われるキッカケになったのだから、なんともいいようがない。ゴキブリが悪いのか、人類が悪いのか…!? そもそもゴキブリを嫌うほど人類の意識(文化)が変化したのが悪いのでは…と思うけれど。人類の危機が叫ばれている現代、「ゴキブリの生き延びる秘訣を探り、人類にも応用する必要があるのでは…」という考え方もある。しかし、どうも好きになれない。あなたなら、どうする?…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
★前回の童謡物語第7弾「しゃぼん玉」はここ(←クリック)

◇ちょっと予備知識 → 短刀などの短い武器で、急襲をかけることから。「単兵急」と書くのは誤り。
類義語に突如(とつじょ)・唐突(とうとつ)・忽然(こつぜん)・卒然(そつぜん)・卒爾(そつじ)・
俄然(がぜん)がある。
春眠暁を覚えず 処処啼鳥を聞く 夜来風雨の声 花落ちること知る多少。孟浩然の詩、「春暁」。原文は、春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少 だったか…。春は朝が来たのも知らずつい寝過ごしてしまう あちらこちらで鳥のさえずりが聞こえる 昨日の夜は雨風の音がすごかった 花もいくらか散ってしまったことだろう ということ。
この時季は本当に眠い。少し油断すると睡魔に襲われる。まぁ、襲われるのも一興かと…。
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黄金虫(童謡物語第8弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年11月21日掲載)
「黄金虫(こがねむし)」
作詞:野口雨情 作曲:中山晋平
黄金虫は 金持ちだ 金蔵たてた 蔵たてた 飴屋で水飴 買って来た
黄金虫は 金持ちだ 金蔵たてた 蔵たてた 子供に水飴 なめさせた
コガネムシの種類は世界で17000種にのぼるらしい。カブトムシまでが、コガネムシの一種だというから驚き。もともとコガネムシの種類というのは、植物の葉を食う害虫として厄介者扱いされていた。そんな中で通常「黄金虫」とよばれるものは体長2cmぐらい、緑色で金色に輝いて見えるものをさすということ。
♪ 黄金虫は 金持ち
だから、黄金虫というのではなく、黄金色だから黄金虫。

当時は童謡詩にかかわらず歌の詩といえば四行詩が主だったが、この詩は三行詩であり、そのうち二行めまでは、
♪ 黄金虫は 金持ちだ 金蔵たてた 蔵たてた
と、一番も二番も同じ歌詞で、最後の行だけが異なる。ちょっとしたポイントをつけただけだといえる。しかし、そこが反対にやけに素朴でかわいらしいのかもしれない。また、「黄金虫は金持ちだから、子供に大好きな飴を自由に食べさせることができていいなぁ…」といったような、当時の日本の貧困な世相をからませ、子供に対する親の愛情や、ないものねだりの感情、憧れが、ところどころに滲んでいる童謡でもある…としてしまうとこの話は終わってしまう。不思議の元は「飴屋」とか「水飴なめる」はどこか唐突すぎるということと、まして一番も二番も水飴である必要もないだろうと。ここに何か隠されているのではないか…と気になった。

この当時の飴屋は一種の大道芸人みたいなものとして扱われていた。祭りの屋台などで、飴売りの店を見かけることがある。現在でも七五三にはつきものの千歳飴。あれは飴屋が考案して「元気に大きくなれますように」という願いを神に捧げてもらったというふれこみのうえ、神社の境内で売り出したのがはじまりといわれている。つまり
♪ 飴屋で水飴 買って来た
には、当時、医療の発達が非常に遅れていたため七五三の風習は「やっとなんとか3歳まで生きてこられた」「5歳まで、7歳までありがとうございます」という気持ちの表れから誕生した風習。七五三のお詣りの後に、これからの無事を祈って飴を買ってやる、それは親から子への最大のプレゼントでもあった。金太郎飴などもそうである。飴を食べて金太郎のような元気な子供に成長して欲しいという親の願いだったわけである。

しかし、当時、まだまだ人々は貧しかった。明日の飯さえない暮らしをしていた。飴どころではない。買ってあげたいがそんな余裕はどこにもない。
♪ 黄金虫は 金持ちだ
金持ちの家の子供たちの口に入るのが関の山だった。この詩は当時の貧しい家の子供たちの様子と願望が入り混じっている。飴は買ってやれずとも、七五三まで生きてこれた子供は、まだマシ。貧しさゆえに子供を養いきれず、生まれたばかりの赤ん坊の口と鼻の上に濡れた紙や布を置いて窒息死させる「間引き」などというものが実際に行われていた時代。親だって好んでそんな行為に走るわけではない。貧しさゆえに食べるものがない、母親の乳すらでない。苦悩に悶えながら決断に迫られて、わが子に手をかけるしか方法がなかった。なかには金持ちの家の玄関先や、神社・寺などに置き去りにするケースもあった。少し年齢が大きくなった場合は、遊郭や角兵衛獅子など芸人の元に売られる例もあった。

苦しさやしごきに耐え切れず涙した子供たちも多かった。「こんなことならいっそ死んでしまったほうがよかった」…そんな思いが脳裏をよぎる。そんなかわいそうな身の上に同情して自分の家に引き取って育ててくれたり、自分の家の奉公人として雇ってくれる財閥や商家なども中にはあった。つまり金持ちが
♪ 飴屋で水飴 買って来た
ということである。飴屋とは、大道芸人などの元締めの親分や遊郭の主人たち、水飴とは過酷な運命にあえぐ子供たちをさしている。
♪ 子供に水飴 なめさせた
だか、そのあとには、ふたたび過酷な運命を辿る子供がいた。まさに飴とムチ。芸人として町村を雨の日も風の日もあてもなく渡り歩く辛さを考えれば、まだまだ幸せだったのかも知れない。毎日違う男たちを相手に身をささぐ廓暮らしにくらべれば、ましな生活だったのかもしれない。この詩にはこういう時代の背景が込められていた…。
金持ちの家には黄金虫が棲みついていると昔は信じられていた。さて、その黄金虫の正体は何だったか? それがこの童謡の最大のポイント。えっ!? 「黄金虫だから黄金虫に決まっているだろう」って!? それが…。

黄金虫の正体は、なんとチャバネゴキブリのことだったというから驚き。雨情が生まれた茨城県や北関東では、体の色からチャバネゴキブリのことを黄金虫と呼んでいたそうだ(本当だろうか?)。ゴキブリが家に棲みつくと金持ちになるというわけでなく、金持ちの家には食べ物もたくさんあり、暖かく棲み心地がいいからゴギブリが集まってくるということ。不衛生などという考えは、当時は全くなかった。とある県には、ゴキブリが多くいる家はお金がたまり、玄関先に「油虫売ります」などという貼り紙までされていたというからびっくり。さらに、金持ちになりたくて、ない金をはたいて黄金虫(ゴキブリ)を買った貧乏人。しかし、貧乏すぎて黄金虫(ゴキブリ)のエサすらなく逃げ出され、結局金持ちになれなかったというオチまで存在するというから摩訶不思議。

しかし、何故、ゴキブリが金持ちの印になってしまったのか…それはゴキブリのメスの卵巣が一見すると印籠の形に似ているからだといわれている。
♪ 黄金虫は 金持ちだ
「金」とは印籠のことだったのである。ゴキブリは外敵がいないことから、繁殖力が高いといわれている。まさか現在のように嫌われ者として扱われるなんて、当時の人は考えもしなかった。ゴキブリ自身もそうであろう。ゴキブリを毛嫌いするようになったのは「自分の家は中流家庭以上」と考えるようになった、たかだか数十年ほど前からだといわれている。まぁ…それだけ人々の暮らしが裕福になったのはいいことだけれど…。それまでは、金持ちの証、金持ちの使いとして大事にされていた。今の時代では信じがたいが…。

童謡物語としてはもう終わっているのだけれど、黄金虫の意外な正体…ゴキブリについて、ちょっと触れてみる。もしかしたら、ゴキブリに対する考えが変わるかも。
ゴキブリは人間の嫌われ者。けれど生物としては大先輩。なにしろ恐竜さえ棲んでいなかった3億年も前に出現して、それ以来、その姿もあまり変わらずに生き延びてきたというからスゴイ。現在、日本には約50種類のゴキブリがいるといわれており、その多くは森や林で暮らしている。もともとゴキブリは森林の朽ちた木の皮の中や、落ち葉の下で暮らす昆虫だ。それが、いつの間にか食べ物が豊富で冬でも暖かい人家に棲むゴキブリが出てきた。日本で人家を棲み家とするゴキブリは、ヤマトゴキブリ、クロゴキブリ、チャバネゴキブリ、ワモンゴキブリなどで、ヤマトゴキブリ以外は江戸時代から明治にかけて船荷などで外国…特に暖かい南の国から入ってきた種類だという。

しかし、生活環境に適応し、よりよい暮らしをしようと本能のままに人家に出現したゴキブリ。それが人類に嫌われるキッカケになったのだから、なんともいいようがない。ゴキブリが悪いのか、人類が悪いのか…!? そもそもゴキブリを嫌うほど人類の意識(文化)が変化したのが悪いのでは…と思うけれど。人類の危機が叫ばれている現代、「ゴキブリの生き延びる秘訣を探り、人類にも応用する必要があるのでは…」という考え方もある。しかし、どうも好きになれない。あなたなら、どうする?…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
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今京都 太平楽 2009/03/19 12:00 am
たいへいらく…好き放題に言うこと。のんきに構えていること。
◇ちょっと予備知識 → もとは雅楽の曲名からきたとされる。略して「太平」ともいう。
類義語に後生楽(ごしょうらく)・安閑(あんかん)・安逸(あんいつ)・気儘(きまま)がある。
京都・東山花灯路2009に駆け足で行った。「花灯路(はなとうろ)」という響きがとてもいい。18時〜21時30分までと短い時間だから、一回の訪問で全てを回るのは駆け足となる。随所で写真を撮っていると、何回も来ないと撮りきれない。期間は3月13日(金)〜3月22日(日)までの10日間。初めての花灯路だったが、なかなかいい。昨年末に開催された嵐山・花灯路には残念ながら行けなかった。その分も合わせて短い時間だったけれど楽しんだ。
寺社仏閣・石畳の道や石塀の路地などの約4.6kmの散策路にはイルミネーションよりも電球色の灯りが似合う。足元をほんのり照らしてくれるのは、京焼・清水焼、北山杉、京銘竹、漆塗りなど伝統工芸による6種類約2,400基の露地行灯。春まだ浅い東山一帯が、温かな灯りに包まれる催し物だと思う。やがて、「今京都」で写真を掲載するけれど、少しだけ掲載しておこう。

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しゃぼん玉(童謡物語第7弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年11月10日掲載)
「しゃぼん玉」
作詞:野口雨情 作曲:中山晋平
しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ 屋根までとんで こわれてきえた
しゃぼん玉きえた とばずにきえた うまれてすぐに こわれてきえた
かぜ かぜ ふくな しゃぼん玉とばそ かぜ かぜ ふくな しゃぼん玉とばそ
お子はしゃぼん玉が好き。フワーっと大きくなって、風にのって飛んでゆくしゃぼん玉には、夢と希望がつまっているように見える。薄い石鹸水でできたしゃぼん玉…こわれずにとんで…という願いか。しかし、この歌はそんな夢と希望がつまっている歌ではなかった。

「しゃぼん玉」が野口雨情の手によって作られ最初に雑誌に載った年は資料によってまちまちである。
1920(大正9)年、1922(大正11)年、1923(大正12)年、1924(大正13)年という説がある。
♪ うまれてすぐに こわれてきえた
のが、その頃に亡くなった雨情の娘「恒子」のことを歌っているといわれている。しかし、その後の調査では、詩をしたためたのが娘「恒子」の亡くなる前だということが明らかにされている。では、雨情はこの詩に何を込めたのだろうか…。実は、雨情は「恒子」の前にも子供を失っている。初めての子の死。それも生まれてわずか一週間後の死。まさに
♪ うまれてすぐに こわれてきえた
なのである。1908(明治41)年3月23日、長女「みどり」は北海道小樽で生まれて、わずか八日目に亡くなった。現代とは違い、その当時は、まだまだ医学の発達が遅れており、抵抗力のない子供がすぐに亡くなることは、あまり珍しいことではなかった。しかし、初めて授かった子供の成長を見守ることなく突然失うのは、この上なく辛いことであったに違いない。

「みどり」の死後、次女、三女と次々と生まれているが、頭から長女の死が離れなかった。次女も三女もまだ幼い。
♪ うまれてすぐに
こわれないまでも、
♪ 屋根までとんで こわれて
消えることもありうるから、雨情は恐れていた。雨情には、どこかにいつも、生まれたばかりの子供を成長させてあげれなかったことへの負い目があったに違いない。まして、この歌を作った頃に、後に亡くなる「恒子」が生まれている。
♪ うまれてすぐに こわれて
消えないで欲しいという内面から湧き出る願いこそがこの詩を作らせたのではないかといわれている。しかし、雨情は彼の性格上そんな身内の不幸からだけでこの詩をつくったのではなかった。雨情がいつもかわいがっていた親戚の子供が死んだからとか、雨情が住んでいた東京の近所の子供の死を悼んでとか、色々な説があるのだが、純粋に雨情は不平等に人生を謳歌できぬまま死んでいく子供たちの運命を悲しんでいた。「どうして人生は平等ではないのか」と嘆き悲しみ、「平等であって欲しい」と願っていたという。

大正デモクラシーが叫ばれ、第一次世界大戦勃発の中、その頃の世情はまさに混沌としていた。1918(大正7)年から翌年にかけてはスペインで猛威を振るった流行性感冒「スペイン風邪」が世界的に大流行し、その波は日本にも押し寄せた。その影響でなんと15万人もの人々が死亡する。さらに戦争の影響で各地で起こる米騒動。戦争と貧困の中の犠牲者は、いつも弱い立場の子供だった。病で死ぬ子だけでなく、子供の数の多さに養いきれず涙をのんで親が自ら生児に手をかける、いわゆる間引きで死んでいった子供の数も少なくない。子供も哀れだが、親だって決して好き好んで人の道を踏み外した行為を選んでるのではない。しかし、そうでもしないと生きていけないのである。そんな世の中への反感と嘆き、そして安穏な暮らしを破壊するものへの抵抗こそが、雨情に「しゃぼん玉」を書かせたのではないか。
♪ かぜ かぜ ふくな
「あぁ、世間の冷たい風よ、どうぞ吹かないでおくれ。そうしてくれなければ、屋根まで飛ぶ前に命がまたひとつ消えてしまう。神よ仏よ、こんな冷たく恐ろしい風を止めてくれ…お願いだ…」そんな悲痛な思いが込められていたに違いない。しかし、無情にも風は吹くのをやめなかった…1923(大正12)年9月1日、関東大震災が起こる。

♪ しゃぼん玉きえた とばずにきえた
雨情の願いは、今度もまた届かなかった。この詩は、不特定多数の子供たちへの鎮魂歌なんだろう。だったら、この歌はスローテンポで語りかけるように歌ったほうがいいかもしれない。
♪ しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ
そう、スローテンポで、語りかけるように…今京都。 ※写真はしゃぼん玉遊びの光景。
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◇ちょっと予備知識 → もとは雅楽の曲名からきたとされる。略して「太平」ともいう。
類義語に後生楽(ごしょうらく)・安閑(あんかん)・安逸(あんいつ)・気儘(きまま)がある。
京都・東山花灯路2009に駆け足で行った。「花灯路(はなとうろ)」という響きがとてもいい。18時〜21時30分までと短い時間だから、一回の訪問で全てを回るのは駆け足となる。随所で写真を撮っていると、何回も来ないと撮りきれない。期間は3月13日(金)〜3月22日(日)までの10日間。初めての花灯路だったが、なかなかいい。昨年末に開催された嵐山・花灯路には残念ながら行けなかった。その分も合わせて短い時間だったけれど楽しんだ。
寺社仏閣・石畳の道や石塀の路地などの約4.6kmの散策路にはイルミネーションよりも電球色の灯りが似合う。足元をほんのり照らしてくれるのは、京焼・清水焼、北山杉、京銘竹、漆塗りなど伝統工芸による6種類約2,400基の露地行灯。春まだ浅い東山一帯が、温かな灯りに包まれる催し物だと思う。やがて、「今京都」で写真を掲載するけれど、少しだけ掲載しておこう。



しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
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しゃぼん玉(童謡物語第7弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年11月10日掲載)
「しゃぼん玉」
作詞:野口雨情 作曲:中山晋平
しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ 屋根までとんで こわれてきえた
しゃぼん玉きえた とばずにきえた うまれてすぐに こわれてきえた
かぜ かぜ ふくな しゃぼん玉とばそ かぜ かぜ ふくな しゃぼん玉とばそ
お子はしゃぼん玉が好き。フワーっと大きくなって、風にのって飛んでゆくしゃぼん玉には、夢と希望がつまっているように見える。薄い石鹸水でできたしゃぼん玉…こわれずにとんで…という願いか。しかし、この歌はそんな夢と希望がつまっている歌ではなかった。

「しゃぼん玉」が野口雨情の手によって作られ最初に雑誌に載った年は資料によってまちまちである。
1920(大正9)年、1922(大正11)年、1923(大正12)年、1924(大正13)年という説がある。
♪ うまれてすぐに こわれてきえた
のが、その頃に亡くなった雨情の娘「恒子」のことを歌っているといわれている。しかし、その後の調査では、詩をしたためたのが娘「恒子」の亡くなる前だということが明らかにされている。では、雨情はこの詩に何を込めたのだろうか…。実は、雨情は「恒子」の前にも子供を失っている。初めての子の死。それも生まれてわずか一週間後の死。まさに
♪ うまれてすぐに こわれてきえた
なのである。1908(明治41)年3月23日、長女「みどり」は北海道小樽で生まれて、わずか八日目に亡くなった。現代とは違い、その当時は、まだまだ医学の発達が遅れており、抵抗力のない子供がすぐに亡くなることは、あまり珍しいことではなかった。しかし、初めて授かった子供の成長を見守ることなく突然失うのは、この上なく辛いことであったに違いない。

「みどり」の死後、次女、三女と次々と生まれているが、頭から長女の死が離れなかった。次女も三女もまだ幼い。
♪ うまれてすぐに
こわれないまでも、
♪ 屋根までとんで こわれて
消えることもありうるから、雨情は恐れていた。雨情には、どこかにいつも、生まれたばかりの子供を成長させてあげれなかったことへの負い目があったに違いない。まして、この歌を作った頃に、後に亡くなる「恒子」が生まれている。
♪ うまれてすぐに こわれて
消えないで欲しいという内面から湧き出る願いこそがこの詩を作らせたのではないかといわれている。しかし、雨情は彼の性格上そんな身内の不幸からだけでこの詩をつくったのではなかった。雨情がいつもかわいがっていた親戚の子供が死んだからとか、雨情が住んでいた東京の近所の子供の死を悼んでとか、色々な説があるのだが、純粋に雨情は不平等に人生を謳歌できぬまま死んでいく子供たちの運命を悲しんでいた。「どうして人生は平等ではないのか」と嘆き悲しみ、「平等であって欲しい」と願っていたという。

大正デモクラシーが叫ばれ、第一次世界大戦勃発の中、その頃の世情はまさに混沌としていた。1918(大正7)年から翌年にかけてはスペインで猛威を振るった流行性感冒「スペイン風邪」が世界的に大流行し、その波は日本にも押し寄せた。その影響でなんと15万人もの人々が死亡する。さらに戦争の影響で各地で起こる米騒動。戦争と貧困の中の犠牲者は、いつも弱い立場の子供だった。病で死ぬ子だけでなく、子供の数の多さに養いきれず涙をのんで親が自ら生児に手をかける、いわゆる間引きで死んでいった子供の数も少なくない。子供も哀れだが、親だって決して好き好んで人の道を踏み外した行為を選んでるのではない。しかし、そうでもしないと生きていけないのである。そんな世の中への反感と嘆き、そして安穏な暮らしを破壊するものへの抵抗こそが、雨情に「しゃぼん玉」を書かせたのではないか。
♪ かぜ かぜ ふくな
「あぁ、世間の冷たい風よ、どうぞ吹かないでおくれ。そうしてくれなければ、屋根まで飛ぶ前に命がまたひとつ消えてしまう。神よ仏よ、こんな冷たく恐ろしい風を止めてくれ…お願いだ…」そんな悲痛な思いが込められていたに違いない。しかし、無情にも風は吹くのをやめなかった…1923(大正12)年9月1日、関東大震災が起こる。

♪ しゃぼん玉きえた とばずにきえた
雨情の願いは、今度もまた届かなかった。この詩は、不特定多数の子供たちへの鎮魂歌なんだろう。だったら、この歌はスローテンポで語りかけるように歌ったほうがいいかもしれない。
♪ しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ
そう、スローテンポで、語りかけるように…今京都。 ※写真はしゃぼん玉遊びの光景。
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今京都 大団円 2009/03/17 12:00 am
だいだんえん…小説や劇などで、めでたく解決する最後の場面。
◇ちょっと予備知識 → 「団円」は終わり、結末のこと。「団演」と書くのは誤り。
類義語に終曲(しゅうきょく)・終幕(しゅうまく)・有終(ゆうしゅう)がある。
対義語は初手(しょて)・冒頭(ぼうとう)・端緒(たんしょ)。
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ちいさい秋みつけた(童謡物語第6弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年11月1日掲載)
「ちいさい秋みつけた」
作詞:サトウハチロー 作曲:中田喜直
誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが 見つけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 見つけた
めかくし鬼さん 手のなるほうへ すましたお耳に かすかにしみた
よんでる口笛 もずの声 ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 見つけた
誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが 見つけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 見つけた
お部屋は北向き くもりのガラス うつろな目の色 とかしたミルク
わずかなすきから 秋の風 ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 見つけた
誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが 見つけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 見つけた
むかしのむかしの 風見の鳥の ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
はぜの葉赤くて 入り日色 ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 見つけた
この歌が最初に発表されたのは1955(昭和30)年11月3日。NHKで放送された特別番組「秋の祭典」でのことだったという。
♪ はぜの葉赤くて 入り日色
ハチローが1973(昭和48)年に亡くなるまで住んでいた東京都文京区の自宅には「はぜの木」が実際にあったらしい。はぜの木の秋の色づけは、まさに見事。そうなれば、はぜの木にもずが止まっても鳴いていることも、ごくごく自然なこと。また、北方に生息するもずは、秋になると南に渡る習慣があり、そのために縄張り争いが熾烈で、秋になるとほかから飛んできたもずに居場所を奪われないために雌雄がピーピーと甲高く鋭い声で鳴いて縄張りを誇示するというから、
♪ よんでる口笛 もずの声
の表現にぴったりと当てはまる。ハチロー自身が見つけた秋の様子ということで一件落着!? ところが世の中そんなに甘くない。それだけでは説明のつかない箇所がでてくる。
♪ うつろな目の色 とかしたミルク
♪ むかしのむかしの 風見の鳥の
というところ。ここには、何か意味が込められているように感じられる。きっと何かあるに違いない…。

ハチローが書いた作品集のタイトルを見ていくと、「ちいさい」とつく題名の詩がやたらに多いことに気づく。「ちいさな」でもなければ「小さい」でもなく「ちいさい」なのである。さらにハチローといえば「おかあさん」である。ハチローの代表作ともいうべき詩集「おかあさん」全三巻は驚異的なベストセラーという記録がある。ハチローは1903(明治36)年5月23日に熱血少年小説の作者として高名だった作家佐藤紅禄の長男として生まれる。幼い頃に誤って鍋の熱湯を浴びて、ひとりで学校にも通えないほどの大やけどを負う。母のハルは、そんなハチローを不憫に思って背負って登校。自分の通う教会にも連れて行ったという。しかし、そんな優しい母は、父に新しい女がではたという理由から一方的に離縁されてしまい、ハチローが成人した年に恋しい母は亡くなってしまう。
♪ むかしのむかしの 風見の鳥の ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
母の純真な神への祈りの様子、幼き日に母に連れられて行った教会の様子を描いているといわれる。「ぼやけた」とは古びたという意味で、「とさか」は頭の中の思想や思い出をさす。つまりは、遠い遠い日の思い出。ちいさい頃に母と通った教会にあった風見鶏。この部分には母との思い出がぎっしりとつまっている。大好きだった母、優しい母、そんな母との思い出への想いがつまっている…。

♪ お部屋は北向き くもりのガラス うつろな目の色 とかしたミルク
ハチローの母は北向きの納戸みたいなところで繕い物をしていて、それをハチローは見たことがあるという。「くもりガラス」は擦りガラスのこと。その部屋で浮気相手の家に入り浸りの父の帰りを待ちわびながら、ひとり淋しく裁縫をする母の姿がハチローの瞼に焼き付いていたのであろう。さらに「北向き」「くもり」「うつろ」「とかす」…これらの単語には全て死が絡んでいた。母に愛された幼少の頃の大切な思い出、おかあさんのおっぱいのにおい、ミルク色も全て溶けて流れてしまう。思い出との決別、母との決別が描かれていたのではないか…。よく、四季を人生にたとえることがある。春は誕生と成長、夏が人生の真っ盛り、秋は晩年にさしかかり、冬は人生との別離を意味するというように。
♪ わずかなすきから 秋の風
母との永遠の別れが近づいている。しかし、それはまだ「わずかなすき間」からなのである。まだまだ「ちいさい秋」なんだけれど、確実にそれは近づいている。ハチローはそんな気がしていたのであろう。母だけではない。人はみな人生の冬に向かって生きている。父の勝手な事情によって家を出され、母と別れることになったハチローにとって、あまりにも淋しすぎる時期こそが「ちいさい秋」のスタートだった。「ちいさい秋」はだんだんと「おおきな秋」へと時を刻み、そして急速に冬が訪れる。子供たちと離れて暮らす母が苦しみと淋しさの中でひとり死んでいくのは「ちいさい秋」からわずか7年後のことだった。
家を出た時期こそが、
♪ わずかなすきから 秋の風 ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 見つけた
の到来だった。ハチローはこの歌に人生をオーバーラップさせていたのではないだろうか…。

時が流れ、一回きりの放送でレコーディングもされずに忘れ去られていたこの歌で、ボニージャックスが日本レコード大賞童謡賞を受賞したのは1962(昭和37)年のことだった。秋が近づくと何気に歌っていた「ちいさい秋みつけた」だったけれど…ハチローの思いを理解し、長くもあり短くもある人生に思いを込め、今、一度、歌ってみよう。
♪ 誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが 見つけた〜
きっと今までと違った感慨があるに違いない…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
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◇ちょっと予備知識 → 「団円」は終わり、結末のこと。「団演」と書くのは誤り。
類義語に終曲(しゅうきょく)・終幕(しゅうまく)・有終(ゆうしゅう)がある。
対義語は初手(しょて)・冒頭(ぼうとう)・端緒(たんしょ)。
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ちいさい秋みつけた(童謡物語第6弾) (旧フォトヴィレッジ 2006年11月1日掲載)
「ちいさい秋みつけた」
作詞:サトウハチロー 作曲:中田喜直
誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが 見つけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 見つけた
めかくし鬼さん 手のなるほうへ すましたお耳に かすかにしみた
よんでる口笛 もずの声 ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 見つけた
誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが 見つけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 見つけた
お部屋は北向き くもりのガラス うつろな目の色 とかしたミルク
わずかなすきから 秋の風 ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 見つけた
誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが 見つけた
ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 見つけた
むかしのむかしの 風見の鳥の ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
はぜの葉赤くて 入り日色 ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 見つけた
この歌が最初に発表されたのは1955(昭和30)年11月3日。NHKで放送された特別番組「秋の祭典」でのことだったという。
♪ はぜの葉赤くて 入り日色
ハチローが1973(昭和48)年に亡くなるまで住んでいた東京都文京区の自宅には「はぜの木」が実際にあったらしい。はぜの木の秋の色づけは、まさに見事。そうなれば、はぜの木にもずが止まっても鳴いていることも、ごくごく自然なこと。また、北方に生息するもずは、秋になると南に渡る習慣があり、そのために縄張り争いが熾烈で、秋になるとほかから飛んできたもずに居場所を奪われないために雌雄がピーピーと甲高く鋭い声で鳴いて縄張りを誇示するというから、
♪ よんでる口笛 もずの声
の表現にぴったりと当てはまる。ハチロー自身が見つけた秋の様子ということで一件落着!? ところが世の中そんなに甘くない。それだけでは説明のつかない箇所がでてくる。
♪ うつろな目の色 とかしたミルク
♪ むかしのむかしの 風見の鳥の
というところ。ここには、何か意味が込められているように感じられる。きっと何かあるに違いない…。

ハチローが書いた作品集のタイトルを見ていくと、「ちいさい」とつく題名の詩がやたらに多いことに気づく。「ちいさな」でもなければ「小さい」でもなく「ちいさい」なのである。さらにハチローといえば「おかあさん」である。ハチローの代表作ともいうべき詩集「おかあさん」全三巻は驚異的なベストセラーという記録がある。ハチローは1903(明治36)年5月23日に熱血少年小説の作者として高名だった作家佐藤紅禄の長男として生まれる。幼い頃に誤って鍋の熱湯を浴びて、ひとりで学校にも通えないほどの大やけどを負う。母のハルは、そんなハチローを不憫に思って背負って登校。自分の通う教会にも連れて行ったという。しかし、そんな優しい母は、父に新しい女がではたという理由から一方的に離縁されてしまい、ハチローが成人した年に恋しい母は亡くなってしまう。
♪ むかしのむかしの 風見の鳥の ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
母の純真な神への祈りの様子、幼き日に母に連れられて行った教会の様子を描いているといわれる。「ぼやけた」とは古びたという意味で、「とさか」は頭の中の思想や思い出をさす。つまりは、遠い遠い日の思い出。ちいさい頃に母と通った教会にあった風見鶏。この部分には母との思い出がぎっしりとつまっている。大好きだった母、優しい母、そんな母との思い出への想いがつまっている…。

♪ お部屋は北向き くもりのガラス うつろな目の色 とかしたミルク
ハチローの母は北向きの納戸みたいなところで繕い物をしていて、それをハチローは見たことがあるという。「くもりガラス」は擦りガラスのこと。その部屋で浮気相手の家に入り浸りの父の帰りを待ちわびながら、ひとり淋しく裁縫をする母の姿がハチローの瞼に焼き付いていたのであろう。さらに「北向き」「くもり」「うつろ」「とかす」…これらの単語には全て死が絡んでいた。母に愛された幼少の頃の大切な思い出、おかあさんのおっぱいのにおい、ミルク色も全て溶けて流れてしまう。思い出との決別、母との決別が描かれていたのではないか…。よく、四季を人生にたとえることがある。春は誕生と成長、夏が人生の真っ盛り、秋は晩年にさしかかり、冬は人生との別離を意味するというように。
♪ わずかなすきから 秋の風
母との永遠の別れが近づいている。しかし、それはまだ「わずかなすき間」からなのである。まだまだ「ちいさい秋」なんだけれど、確実にそれは近づいている。ハチローはそんな気がしていたのであろう。母だけではない。人はみな人生の冬に向かって生きている。父の勝手な事情によって家を出され、母と別れることになったハチローにとって、あまりにも淋しすぎる時期こそが「ちいさい秋」のスタートだった。「ちいさい秋」はだんだんと「おおきな秋」へと時を刻み、そして急速に冬が訪れる。子供たちと離れて暮らす母が苦しみと淋しさの中でひとり死んでいくのは「ちいさい秋」からわずか7年後のことだった。
家を出た時期こそが、
♪ わずかなすきから 秋の風 ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 見つけた
の到来だった。ハチローはこの歌に人生をオーバーラップさせていたのではないだろうか…。

時が流れ、一回きりの放送でレコーディングもされずに忘れ去られていたこの歌で、ボニージャックスが日本レコード大賞童謡賞を受賞したのは1962(昭和37)年のことだった。秋が近づくと何気に歌っていた「ちいさい秋みつけた」だったけれど…ハチローの思いを理解し、長くもあり短くもある人生に思いを込め、今、一度、歌ってみよう。
♪ 誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが 見つけた〜
きっと今までと違った感慨があるに違いない…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。
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