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いぬやらい2009/09/10 12:00 am
いぬやらい
犬矢来は、通りに面した町家のベンガラ格子の前に、割った竹を曲げ囲いにしたもの。犬走りの矢来ということから。犬走りは犬が小股でちょこちょこ走る所。竹を組んで作った仮の囲いが矢来。ベンガラ格子は、室内の明るさを保ちながら、表通りからは室内が見えにくい。顔を近づけると、覗き見ることができるが、犬矢来のために近づけない。ベンガラ(紅殻)はインドのベンガル地方産の塗料。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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八坂神社御供社(やさかじんじゃごくうしゃ) (旧フォトヴィレッジ 2007年4月8日掲載)
京都市中京区の京都三条会商店街の一角の三条通黒門の北西角に小さな社が静かに立っている。八坂神社御供社だ。八坂神社といえば四条通りの東詰めにあり、祇園祭には欠かせない社なんだけれど、何故ここにあるのか、由来を知る人は意外に少ない。

歴史は貞観11(869)年にさかのぼる。その年に、平安京を原因不明の疫病が襲う。朝廷も民衆も恐怖に陥る。疫病は疫神や怨霊の仕業と考えられ、これを鎮める御霊会が行われたことによる。御霊会は、平安京内の広大な庭園だった神泉苑の池のほとりで営まれた。当時の国の数と同じ66本の鉾を立て、同時に祇園社(現在の八坂神社)からスサノオノミコトなど三基の神輿を迎えた。後に神泉苑の東南端の地に社が置かれ、これが御供社につながるという。

江戸初期に徳川家康が二条城を築城した際に神泉苑は大幅に縮小したが、建物も行事も大切に継承されてきた。1906(明治39)年に八坂神社の末社となり現在に至るという。毎年7月24日の祇園祭「還幸祭」では、祭りの前日に御供社の前に池の水辺を表す芝生を敷き、「オハケ」という3本の御幣(神様が宿る場所の目印)を立てる。ここで神饌(しんせん)を供えることが、この社の呼び名の由来となっているという。さらに還幸祭の神輿は今も御供社を経て八坂神社まで担がれるという。

5月のお田植え祭、祇園祭の吉符入りなど、年間を通して絶え間ない祭りがあり、それを支えているのが地元の町衆でつくる三若神輿会(さんわかしんよかい)。還幸祭の三基の神輿のうちスサノオノミコトの神輿を担当している。現在は地元の12世帯が世襲で運営組織の役員などを務めているという。

祇園祭では山鉾巡行ばかりが注目されがちだけれど、神輿の巡行も祇園祭の立派な中心行事。最近では、商店街を中心に御供社の重要性を見直す動きが高まっているという。歴史を学ぶほど御供社の貴重さが見えてきて、次の世代にきちんと継承したいという思いが強くなってきている証ね。毎月の清掃活動を始め、還幸祭では昨年、初めて子供たちが堤灯行列で神輿を迎えたという。

政教分離が大原則の現代では考えられないが、当時は疫病を鎮めるために神様を頼った。出入り自由のこの小空間には今でも疫病封じの信仰が深く、途方もない歴史が詰まっているのに違いない。祇園祭では、四条御旅所(四条寺町東入ル)に一度神輿を安置した後、この地に神輿が移るため「またたびさん」との愛称でも呼ばれている…今京都。

犬矢来は、通りに面した町家のベンガラ格子の前に、割った竹を曲げ囲いにしたもの。犬走りの矢来ということから。犬走りは犬が小股でちょこちょこ走る所。竹を組んで作った仮の囲いが矢来。ベンガラ格子は、室内の明るさを保ちながら、表通りからは室内が見えにくい。顔を近づけると、覗き見ることができるが、犬矢来のために近づけない。ベンガラ(紅殻)はインドのベンガル地方産の塗料。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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八坂神社御供社(やさかじんじゃごくうしゃ) (旧フォトヴィレッジ 2007年4月8日掲載)
京都市中京区の京都三条会商店街の一角の三条通黒門の北西角に小さな社が静かに立っている。八坂神社御供社だ。八坂神社といえば四条通りの東詰めにあり、祇園祭には欠かせない社なんだけれど、何故ここにあるのか、由来を知る人は意外に少ない。

歴史は貞観11(869)年にさかのぼる。その年に、平安京を原因不明の疫病が襲う。朝廷も民衆も恐怖に陥る。疫病は疫神や怨霊の仕業と考えられ、これを鎮める御霊会が行われたことによる。御霊会は、平安京内の広大な庭園だった神泉苑の池のほとりで営まれた。当時の国の数と同じ66本の鉾を立て、同時に祇園社(現在の八坂神社)からスサノオノミコトなど三基の神輿を迎えた。後に神泉苑の東南端の地に社が置かれ、これが御供社につながるという。

江戸初期に徳川家康が二条城を築城した際に神泉苑は大幅に縮小したが、建物も行事も大切に継承されてきた。1906(明治39)年に八坂神社の末社となり現在に至るという。毎年7月24日の祇園祭「還幸祭」では、祭りの前日に御供社の前に池の水辺を表す芝生を敷き、「オハケ」という3本の御幣(神様が宿る場所の目印)を立てる。ここで神饌(しんせん)を供えることが、この社の呼び名の由来となっているという。さらに還幸祭の神輿は今も御供社を経て八坂神社まで担がれるという。

5月のお田植え祭、祇園祭の吉符入りなど、年間を通して絶え間ない祭りがあり、それを支えているのが地元の町衆でつくる三若神輿会(さんわかしんよかい)。還幸祭の三基の神輿のうちスサノオノミコトの神輿を担当している。現在は地元の12世帯が世襲で運営組織の役員などを務めているという。

祇園祭では山鉾巡行ばかりが注目されがちだけれど、神輿の巡行も祇園祭の立派な中心行事。最近では、商店街を中心に御供社の重要性を見直す動きが高まっているという。歴史を学ぶほど御供社の貴重さが見えてきて、次の世代にきちんと継承したいという思いが強くなってきている証ね。毎月の清掃活動を始め、還幸祭では昨年、初めて子供たちが堤灯行列で神輿を迎えたという。

政教分離が大原則の現代では考えられないが、当時は疫病を鎮めるために神様を頼った。出入り自由のこの小空間には今でも疫病封じの信仰が深く、途方もない歴史が詰まっているのに違いない。祇園祭では、四条御旅所(四条寺町東入ル)に一度神輿を安置した後、この地に神輿が移るため「またたびさん」との愛称でも呼ばれている…今京都。


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