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せく2009/08/25 12:00 am
せく
「この仕事そないにセクのんか」 急ぐ。「胸ふさがる」の意の「塞(せ)き上ぐ」の「塞く」に基づく。せき止めて逆流させることから。「セイテセカンことはない」は文字通りの意味は「急ぐようでそう急いですることではない」というのだが、真意はあんまりのんびりしてはいられないこと。ちなみに、セキマイは急ぎのことで、「急き前」の意味。気がセケルともいう。胸せく思いになることから急ぐことをいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
名和長年戦没遺蹟 (旧フォトヴィレッジ 2007年7月21日掲載)
京都市上京区の西陣・聚楽学区の大宮通一条下ルに名和公園がある。この静かな児童公園に、巨大な石碑が立っている。南北朝時代に京都で戦死した鳥取県の武将・名和長年の名が刻まれた碑は、戦時中の皇国史観、最近でも少子化、市町村合併など時代の移り変わりの影響を受けてきた。

名和長年は伯耆(ほうき)国(鳥取県)の出身。隠岐島に流刑されていた後醍醐天皇を助け、鎌倉幕府の倒幕に貢献する。楠木正成、結城親光、千種忠顕と並んで「三木一草」と称されて建武の新政で要職についたが、1336年、足利尊氏に討たれた。戦死した場所が、この公園の辺りとされる。江戸時代までは、「不遇の死を遂げた長年のたたりがあるとのうわさが広まり、人が近づかなかった」ともいわれている。

長年の評価は、明治に逆転。天皇中心の国づくりを目指す政府は、天皇を献身的に助けた長年に正三位の称号を贈り、1935(昭和10)年には従一位を授けた。当時の教科書には英雄として紹介され、太平洋戦争開戦直前の1939(昭和14)年には、没した地に功績をたたえる石碑(高さ約3m)が完成。終戦後、長年の名は教科書から消え、地元でも名和公園の由来を知らない人が増えたという。ところが、終戦から40年後の1986(昭和61)年に、また転機が訪れる。長年の出身地の鳥取県名和町から、没後650年を記念し、「石碑を管理してくださる聚楽学区と姉妹関係を結びたい」との要請があった。

その後、小学生が交互に訪問するようになり、名和町の子どもたちが西陣織の体験をするなど交流を深めていたが、今度は、聚楽学区の小学校が少子化の影響で1997(平成9)年3月に閉校。名和町も市町村合併で「大山町」となり、名前が消えた。交流事業も途絶えたままになっている。関係者の話によると、交流の予算付けも難しく、再開予定はないということだ。また、由来を知らない住民が増え出し、寂しい話。没後500年以上経って建立された石碑は、現在、閑静な住宅地にたたずんでいる。自分の名が戦意高揚に利用され、地域交流にも生かされた長年。このまま消え去ってしまうのだろうかと心配になる。

遺跡の創建は1886(明治19)年とされ、今の石碑は1939(昭和14)年に建てられた。現在は京都市の児童公園で、石碑は上京区の史蹟百選にも選ばれている…今京都。

「この仕事そないにセクのんか」 急ぐ。「胸ふさがる」の意の「塞(せ)き上ぐ」の「塞く」に基づく。せき止めて逆流させることから。「セイテセカンことはない」は文字通りの意味は「急ぐようでそう急いですることではない」というのだが、真意はあんまりのんびりしてはいられないこと。ちなみに、セキマイは急ぎのことで、「急き前」の意味。気がセケルともいう。胸せく思いになることから急ぐことをいう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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名和長年戦没遺蹟 (旧フォトヴィレッジ 2007年7月21日掲載)
京都市上京区の西陣・聚楽学区の大宮通一条下ルに名和公園がある。この静かな児童公園に、巨大な石碑が立っている。南北朝時代に京都で戦死した鳥取県の武将・名和長年の名が刻まれた碑は、戦時中の皇国史観、最近でも少子化、市町村合併など時代の移り変わりの影響を受けてきた。

名和長年は伯耆(ほうき)国(鳥取県)の出身。隠岐島に流刑されていた後醍醐天皇を助け、鎌倉幕府の倒幕に貢献する。楠木正成、結城親光、千種忠顕と並んで「三木一草」と称されて建武の新政で要職についたが、1336年、足利尊氏に討たれた。戦死した場所が、この公園の辺りとされる。江戸時代までは、「不遇の死を遂げた長年のたたりがあるとのうわさが広まり、人が近づかなかった」ともいわれている。

長年の評価は、明治に逆転。天皇中心の国づくりを目指す政府は、天皇を献身的に助けた長年に正三位の称号を贈り、1935(昭和10)年には従一位を授けた。当時の教科書には英雄として紹介され、太平洋戦争開戦直前の1939(昭和14)年には、没した地に功績をたたえる石碑(高さ約3m)が完成。終戦後、長年の名は教科書から消え、地元でも名和公園の由来を知らない人が増えたという。ところが、終戦から40年後の1986(昭和61)年に、また転機が訪れる。長年の出身地の鳥取県名和町から、没後650年を記念し、「石碑を管理してくださる聚楽学区と姉妹関係を結びたい」との要請があった。

その後、小学生が交互に訪問するようになり、名和町の子どもたちが西陣織の体験をするなど交流を深めていたが、今度は、聚楽学区の小学校が少子化の影響で1997(平成9)年3月に閉校。名和町も市町村合併で「大山町」となり、名前が消えた。交流事業も途絶えたままになっている。関係者の話によると、交流の予算付けも難しく、再開予定はないということだ。また、由来を知らない住民が増え出し、寂しい話。没後500年以上経って建立された石碑は、現在、閑静な住宅地にたたずんでいる。自分の名が戦意高揚に利用され、地域交流にも生かされた長年。このまま消え去ってしまうのだろうかと心配になる。

遺跡の創建は1886(明治19)年とされ、今の石碑は1939(昭和14)年に建てられた。現在は京都市の児童公園で、石碑は上京区の史蹟百選にも選ばれている…今京都。


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