rrbのブログ - 今京都のエントリ
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けなりい2009/06/23 12:00 am
けなりい
うらやましい。「おうちの子たちは、みなようおできになるさかいケナリイわ」 ケナルイとも。もとは「異(け)なり」から。「けなり」に「い」を付けて形容詞にした。普通とは違っている、特異である、殊勝な、の意味に基づく。ケナゲ(健気)はもと「けなりげ」からで、勇ましい、健やかな、子どもなどが懸命に努めるさまを指す。また、ウラヤム(羨む)り「うら」は心。心が病むから妬(ねた)むの意味になった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
しばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。
猿ヶ辻 (旧フォトヴィレッジ 2007年7月5日掲載)
京都御所を囲む築地塀。その北東角の辺りを「猿ヶ辻(さるがつじ)」と呼ぶ。

御所の鬼門にあたるここは魔よけのために塀の角がへこませてある。そして、よく見ると、軒下に御幣を持った猿の彫像が祭られている。幕末の動乱期、この「鬼門よけ」のへこみに何者かが身を潜め、尊皇攘夷派の若い公家を暗殺する事件が起きた。1863年5月の「猿ヶ辻の変」。「猿ヶ辻の変」は歴史小説の題材にもなり、司馬遼太郎の作品などに描かれている。


その「猿ヶ辻の変」のお話とは…。
襲われたのは当時、三条実美とともに攘夷派の中心人物だった姉小路公知。日米修好通商条約の締結に反対し、前年には朝廷の副勅使として幕府に攘夷実行を強く迫っていた。5月20日夜、御所での会議を終えて門を出た公知は従者3人とともに帰途につく。猿ヶ辻に差しかかった時、突然、刀を持った黒い影に道を遮られた。公知は従者に「太刀を」と求めたが、太刀と提灯を持った従者2人は後ずさりして逃げてしまう。公知は手元にあった扇で応戦するほかなく、顔や胸を切られて重傷を負った。残った一人の従者に抱えられて屋敷に戻ったが、まもなく息絶えたという。

後に、凶漢は三人で、公知は胸に深さ12cmの傷を負いながらも、相手の太刀を奪って切り返したという。また、突然の訃報に、京都では「泣く者ばかり」だった、ともいわれている。事件後、犯人として一人の薩摩藩士が浮上し、取り調べられた。しかし彼は詳細を語らないまま自殺してしまう。誰の陰謀で誰が実行したのか、真相は歴史の闇、というもの。

このへこみにたたずんでいると、確かに、死角になる。もしも「鬼門よけ」という死角がなかったら、待ち伏せは成功しなかったかもしれない。あの夜、築地塀から真犯人を見ていたであろう猿の彫像は、今もただ静かに座っている、ここは京都御所の「猿ヶ辻」…今京都。

うらやましい。「おうちの子たちは、みなようおできになるさかいケナリイわ」 ケナルイとも。もとは「異(け)なり」から。「けなり」に「い」を付けて形容詞にした。普通とは違っている、特異である、殊勝な、の意味に基づく。ケナゲ(健気)はもと「けなりげ」からで、勇ましい、健やかな、子どもなどが懸命に努めるさまを指す。また、ウラヤム(羨む)り「うら」は心。心が病むから妬(ねた)むの意味になった。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)
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猿ヶ辻 (旧フォトヴィレッジ 2007年7月5日掲載)
京都御所を囲む築地塀。その北東角の辺りを「猿ヶ辻(さるがつじ)」と呼ぶ。

御所の鬼門にあたるここは魔よけのために塀の角がへこませてある。そして、よく見ると、軒下に御幣を持った猿の彫像が祭られている。幕末の動乱期、この「鬼門よけ」のへこみに何者かが身を潜め、尊皇攘夷派の若い公家を暗殺する事件が起きた。1863年5月の「猿ヶ辻の変」。「猿ヶ辻の変」は歴史小説の題材にもなり、司馬遼太郎の作品などに描かれている。


その「猿ヶ辻の変」のお話とは…。
襲われたのは当時、三条実美とともに攘夷派の中心人物だった姉小路公知。日米修好通商条約の締結に反対し、前年には朝廷の副勅使として幕府に攘夷実行を強く迫っていた。5月20日夜、御所での会議を終えて門を出た公知は従者3人とともに帰途につく。猿ヶ辻に差しかかった時、突然、刀を持った黒い影に道を遮られた。公知は従者に「太刀を」と求めたが、太刀と提灯を持った従者2人は後ずさりして逃げてしまう。公知は手元にあった扇で応戦するほかなく、顔や胸を切られて重傷を負った。残った一人の従者に抱えられて屋敷に戻ったが、まもなく息絶えたという。

後に、凶漢は三人で、公知は胸に深さ12cmの傷を負いながらも、相手の太刀を奪って切り返したという。また、突然の訃報に、京都では「泣く者ばかり」だった、ともいわれている。事件後、犯人として一人の薩摩藩士が浮上し、取り調べられた。しかし彼は詳細を語らないまま自殺してしまう。誰の陰謀で誰が実行したのか、真相は歴史の闇、というもの。

このへこみにたたずんでいると、確かに、死角になる。もしも「鬼門よけ」という死角がなかったら、待ち伏せは成功しなかったかもしれない。あの夜、築地塀から真犯人を見ていたであろう猿の彫像は、今もただ静かに座っている、ここは京都御所の「猿ヶ辻」…今京都。


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