rrbのブログ - 今京都のエントリ
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一攫千金2008/07/26 12:20 am
いっかくせんきん…一度に大金を手に入れること。大した苦労もなく巨万の富を得ること。濡れ手で粟。
◇ちょっと予備知識 → 「一攫」はひとつかみ。「一獲」と書くのは本来は誤り。「千金」は「万金」ともいう。
「一攫千金を狙う」などと使う。
類義語に一攫万金(いっかくまんきん)がある。
今でも日本の首都・京都
お百度参りというデモがあると聞いた。京都の人々は何百人と連れ立って「遷都反対」「天皇はんを京都から離すな」と、御所のまわりを歩き続けたという。クライマックスには、数千人もの群衆が御所の石薬師門に詰めかけて直訴デモを行ったということだ。

1867(慶応3)年10月の江戸幕府の大政奉還からかずか半年足らず。王政復古は日本の中心が江戸から再び京都に還ることを意味したし、鳥羽伏見の戦いで官軍の大勝利では「これで安心して暮らせる」と京都人は大喜びしたはずだった。江戸開城、京都所司代廃止、そして京都府が誕生した。

京の町はその4年前、蛤御門の変の砲撃戦で焼け野原になった。洛中大部分の家が焼かれ、人々はまだ路頭に迷っていた。「都がどこかに移るのではないか」「東京に遷都するそうだ」うわさが駆け巡る中、1868(慶応4)年7月、突然に江戸を東京と改め、都を東京に移す旨が発表された。

京都市民は動揺し、そして怒った。ここは千年の日本の都である。維新を達成するために戦火に耐え、犠牲を払ったのは京都人ではないか。それを見捨て、都まで奪うとは何ごとかと、さきの請願でデモが始まったというのである。
実際、京に住み慣れたお公家さんたちの間でも、東京遷都には猛烈な反対があった。それならばと大阪遷都、大和遷都などの妥協案も論議されたという。

慶応を明治に改元し、これより一世一元と制定したのは、この年の9月8日。その12日後には天皇が京都を出発することになる。天皇東幸においても、あれやこれやのいきさつがあったらしい。当時、幕府の反乱軍がまだ東海道にいるということで、大阪から船で東幸する安全策が計画された。
ところが、海上での天皇奪還計画も聞こえて、イギリスの軍艦に援助を願おう、いや天皇東幸に外国の手を借りるのは、と二転三転。結局はもとの陸路で1868(明治元)年9月20日、威儀を正した三千人の大行列が東海道を進んだ。

ところが天皇はその3ヶ月後、京都へ帰ってこられた。父孝明天皇の三周年祭と、天皇ご自身の結婚のためである。皇后は、東京遷都ののちも京都御所にお輿入れされ、天皇皇后揃って京都での生活を開始。と思ったのもつかの間の翌1869(明治2)年3月、天皇はおひとりで再び東京へ向かわれた。そして皇后の行列が京都を離れ、東京に到着されたのは半年以上のちの10月のことであった。

政府官庁が東京に移る実質的な東京遷都というのは、天皇が二度目に東京へ向かった1869(明治2)年3月から始まって、その年末にほぼ終わった。それと同時に版籍奉還が行われ、公家・大名が華族となって大半が東京に移った。京都には役人もいない、皇族・華族もいない、それにつれて、そういう人たちを相手にしていた商売も傾き、一部は東京に移った。

これが当時の東京遷都の様子なのだが、考えてみれば東京遷都も、遷都したという法令も、何もないまま「なしくずし」的遷都であったという。京都市民のDNAの中には「京都が日本の首都」ということが根強く残されたままになっており、「今でも日本の首都・京都」となっているのかもしれない、という京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。


◇ちょっと予備知識 → 「一攫」はひとつかみ。「一獲」と書くのは本来は誤り。「千金」は「万金」ともいう。
「一攫千金を狙う」などと使う。
類義語に一攫万金(いっかくまんきん)がある。
今でも日本の首都・京都
お百度参りというデモがあると聞いた。京都の人々は何百人と連れ立って「遷都反対」「天皇はんを京都から離すな」と、御所のまわりを歩き続けたという。クライマックスには、数千人もの群衆が御所の石薬師門に詰めかけて直訴デモを行ったということだ。

1867(慶応3)年10月の江戸幕府の大政奉還からかずか半年足らず。王政復古は日本の中心が江戸から再び京都に還ることを意味したし、鳥羽伏見の戦いで官軍の大勝利では「これで安心して暮らせる」と京都人は大喜びしたはずだった。江戸開城、京都所司代廃止、そして京都府が誕生した。

京の町はその4年前、蛤御門の変の砲撃戦で焼け野原になった。洛中大部分の家が焼かれ、人々はまだ路頭に迷っていた。「都がどこかに移るのではないか」「東京に遷都するそうだ」うわさが駆け巡る中、1868(慶応4)年7月、突然に江戸を東京と改め、都を東京に移す旨が発表された。

京都市民は動揺し、そして怒った。ここは千年の日本の都である。維新を達成するために戦火に耐え、犠牲を払ったのは京都人ではないか。それを見捨て、都まで奪うとは何ごとかと、さきの請願でデモが始まったというのである。
実際、京に住み慣れたお公家さんたちの間でも、東京遷都には猛烈な反対があった。それならばと大阪遷都、大和遷都などの妥協案も論議されたという。

慶応を明治に改元し、これより一世一元と制定したのは、この年の9月8日。その12日後には天皇が京都を出発することになる。天皇東幸においても、あれやこれやのいきさつがあったらしい。当時、幕府の反乱軍がまだ東海道にいるということで、大阪から船で東幸する安全策が計画された。
ところが、海上での天皇奪還計画も聞こえて、イギリスの軍艦に援助を願おう、いや天皇東幸に外国の手を借りるのは、と二転三転。結局はもとの陸路で1868(明治元)年9月20日、威儀を正した三千人の大行列が東海道を進んだ。

ところが天皇はその3ヶ月後、京都へ帰ってこられた。父孝明天皇の三周年祭と、天皇ご自身の結婚のためである。皇后は、東京遷都ののちも京都御所にお輿入れされ、天皇皇后揃って京都での生活を開始。と思ったのもつかの間の翌1869(明治2)年3月、天皇はおひとりで再び東京へ向かわれた。そして皇后の行列が京都を離れ、東京に到着されたのは半年以上のちの10月のことであった。

政府官庁が東京に移る実質的な東京遷都というのは、天皇が二度目に東京へ向かった1869(明治2)年3月から始まって、その年末にほぼ終わった。それと同時に版籍奉還が行われ、公家・大名が華族となって大半が東京に移った。京都には役人もいない、皇族・華族もいない、それにつれて、そういう人たちを相手にしていた商売も傾き、一部は東京に移った。

これが当時の東京遷都の様子なのだが、考えてみれば東京遷都も、遷都したという法令も、何もないまま「なしくずし」的遷都であったという。京都市民のDNAの中には「京都が日本の首都」ということが根強く残されたままになっており、「今でも日本の首都・京都」となっているのかもしれない、という京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。




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