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内裏の歴史
投稿日時 2010-9-11 0:00:00
執筆者 rrb
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内裏の歴史 平安京が都であるのはそこに天皇の居所(内裏)があったからに他ならない。現代からみると重厚・不動の印象が強いが、市街の推移と同様に、そこにも流転が常という長い歴史があった。

960(天徳4)年以降、内裏はたびたび焼失の憂き目をみた。976(貞元1)年の火災時には時の円融天皇が1年間太政大臣・藤原兼通邸に住居し(堀川殿)、そののち災厄に見舞われるたびに摂関家などに仮の内裏が設けられた。これを里内裏(さとだいり)といい、白河天皇以降は里内裏事実上の皇居となっていく。本来の内裏は1227(安貞1)年に焼失して以降再建されず、1331(元弘1)年に光厳天皇が即位した土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が里内裏と定まった。

その里内裏もまた幾度となく焼失を繰り返し、そのたびに時の権力者に頼らざるを得なかった。今の御所の祖型は、1790(寛政2)年、裏松固禅裏松固禅老中松平信が裏松固禅(光世)の『大内裏図考証』に従い、承明門・紫宸殿・清涼殿などを平安時代の形式で復元再興して成った。1854(安政1)年にも焼失するが、翌1855(安政2)年には寛政期と同規模で再建され、今日まで姿を留める。

紫宸殿前の植樹といえば、右近の橘・左近の桜がセットのようだが、平安建都時には桜ではなく左近の梅だった。いつからそれが桜に変わったかは不明だが、『古事談』(鎌倉初期)によれば960(天徳4)年に内裏が焼けたあと、醍醐天皇の第四皇子重明親王(906〜954)邸にあった桜を移植したとある…今京都。(『京都のふしぎ発見』より)
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