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技術と道徳
投稿日時 2011-6-1 13:00:22
執筆者 rrb
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技術と道徳 光陰矢の如しというが、気がつけばもう6月だ。このブログも回復できてよかった。これからマイペースで更新していきたい。更新できる喜びがジワジワとこみ上げてくる。 さて、最近の技術の進歩とともに道徳のお話。

ふと疑問に思うことがある。道徳が技術に肩代わりされていくことで良いのだろうか、ということである。今、最も話題となっているのは節電であろう。LEDの進歩で省エネが進み使用電力を削減できることはいいことだ。しかし、反面、電気を大量に使用しないからという安心が「消す」という動作を怠惰にすることがある。人の心から「不要な電気は消す」ということを心がけることが消えてしまうのではないかという心配だ。これが、技術が道徳の代行をしてくれる影響ではないかと危惧である。 本来、私たちの良心と行動によって地球環境を守るように求められている。地球に優しいと自ら感じたことを自発的に実行し、生活まで変えていこうとする覚悟が重要なのである。そのような意識は人間が持つべき「道徳」として定着しつつある。道徳と言えば堅苦しいだろうが、人間としての行動の規範のことで、そのような発想を身につけた人間が増えていくことこそが人類の未来への希望とも言えるのではないだろうか。

ところが、そのような個人の道徳心を涵養するのではなく、技術によって問題が発生しないように前もって手を打っていくことが増えている。それによって表面的には道徳が機能しているかのような状態が作り出されてはいないだろうか。 また、技術が発達すれば、その分だけ私たちの能力が失われていく。鉛筆がシャープペンシルに取り替わって子どもたちはナイフを使うことができなくなり、車を使うことが増えて走力が衰え、エアコンがあらゆる場所に普及して体が汗をかかなくなった。パソコンを使うようになって漢字の書き方を忘れることも増えた。技術が手や足や体や頭脳の役割を肩代わりしてくれることによって、知らず知らずのうちに私たちが原初的に持っていた能力を失っているような気がする。 映画館や学校では通信妨害電波を発信して、携帯電話を実質的に使えなくする方法が広がり始めている。これによって映画館や学校の静寂が守られる。あるいは、車の速度制限装置を制限速度以下になるよう設定しておけば、スピード違反をしなくて済む。速度制限装置を取り付けようと考えたのは道徳心からきたものだが、後はそれにお任せしておけばもはや車のスピードのことを考える必要がない。

迂遠なようだが、人々の道徳心を涵養し、どのように判断すべきかを決めていける人間であり続けねば、社会は荒廃してしまうのではないか。道徳を技術で置き換えることの危なさを考えておくべきではないだろうか。このような技術はまだ一部でしか使われていないから考え過ぎと思われそうだが、それが全面的にひろがって当り前になってしまったらどうなるかを想像する必要があるのではないか。ひょっとすると、人々は道徳心を失ったロボット同然の行動しかしなくなるかもしれない…と、天を仰いで思うこと。
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