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おこぼ

投稿日時 2010-2-26 0:00:00
執筆者 rrb
こぼ
木履(ぼくり)。舞妓などが用いる裏を刳り貫いた下駄。幼女の履く塗り下駄。「オコボの音がして舞妓さんが来やはった」 履いて歩くとコボコボと音がする。コボにオを付けオコボとした。コッポリとも。東京ではボクリを促音化してボックリ。草履はジョジョという。「赤いベベ(着物)着てジョジョ履いて」 祇園ではジョジョハイタトトは牛肉のこと。「ジョジョハイタトト食べたいな」(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

を制する
海だった京都、水浸しの盆地の周縁部に人が住みつくようになったのは、遅くとも数万年前のことであるという。北西の沢ノ池遺跡では旧石器が発見されており、続く縄文時代には北東の北白川一帯から縄文式土器や石器が出土している。弥生時代に入ると湿潤な土地を利用した農耕地域が桂川流域や北白川、深草に広がり、大規模集落も点在するようになった。5世紀になると、大和の地は既に過密状態となり、フロンティアを目指す渡来系豪族や新進豪族が次々と山代(のち山背から山城)へと進出したということだ。



一説には、新羅から渡来したとされる秦氏は嵯峨野の太秦付近に本拠を置き、当時の先端技術で桂川にダム(葛野大堰)を築く。桂川は古来頻繁に氾濫を繰り返す暴れ川で、治水・利水が定住の要だった。秦氏はまた、養蚕・機織の技術を広め、殖産興業を巨富へとつなげていった。のちの長岡京・平安京造営の際には、多額の支援をし、古代京都開発の功労者となった。
一方、大和の葛城(奈良県西北部)にいた賀茂氏は盆地を北へと進み、鴨川上流域に住み着いた。賀茂は神の意とされ、古くから神事を司る氏族であった。鴨川という名の由来にもなったが、こちらは氾濫の少ない上流で川を制したということだ。
秦氏と賀茂氏、いずれにしても、水を制するものが山代を制すということか…今京都。(『京都のふしぎ発見』より)


 




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