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わりき

投稿日時 2010-2-18 0:00:00
執筆者 rrb
りき
割り木。薪。「昔はワリキを運ぶのは子どもの手伝い仕事やった」 大小の丸太を小割りにした薪。単に割った木という意味でなく、割った薪である。京都市近郊、京都府北部では割り木をバイタと呼ぶ。「バイタを囲炉裏にくべたもんや」 柴よりも太い薪。バイタのバイは「棒」のこと。タは丸太などの「太」の意味。洛北大原などでバイラともいう。ビャーラと発音する地域もある。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

利よりも心を尊ぶ京都の商売
京都の商売は「儲からんでもええ」とどこかで思っているように感じる。客が望むものなら、たとえそれがおすすめでない商品であっても販売さえすればよいというのではなく、客に本当の意味で役立つ品を販売し、仮にその時、そのよさが理解してもらえなくても、後々本当によいものを購入したと喜んでもらえれば、これほど商売冥利なことはない、と、京都の商売人が一番望むところであるという。漆器という商品を例にとれば、数十工程の手間をかけ時間をかけて作成したものも、安値につくったものも、ただ見た目には同じように見える。しかし、長い間それを使用していると必ず差が出てくる。どちらがどれだけ儲かるか、と利潤ばかりに走るのではなく、客に本物を手にして欲しいという、そんな心を大事にして商売をしている、というのだ。



京都の老舗の中には店先に何も並べていないところもある。お饅頭屋さんでも毎日午後4時すぎには早々と売れ切れてしまう店もある。客の需要があるのだから、もっと多く作ればもっと売れるのに、と思う人もいるだろうが、それ以上大量に製造することで、そのもの自体が雑なものとなり、ひいては客に喜んでもらえるものを提供できなくなってしまうことが、一番許せない。客を誤魔化すことは自分を誤魔化すことだと考えているところもある。
一方、客のほうもそういった心を十分に理解し、よいものを買い求めるために店を選ぶ。安心感と幸福感を手に入れられるからだろう。



さらに、京都の商売は、客に品物を渡した時点で完了するものではない。客との長いつきあいが大事だと考えている。一般には、メーカー⇒問屋⇒小売店⇒消費者という図式が成り立つが、自分の直接の相手に目を向けているだけが商売ではない。メーカーは小売店のことを、問屋は消費者のことを、小売店は消費者の手に渡ったその後々までを気にかけながら商うことが京都の商法だという。
戦後、もののない時代はとにかく量が大切だったが、それから時は流れ、量から質へ、質から感性へと移行したといわれるようになり、現在では、客の感性やニーズに合わせるのが商売の主流となった。しかし、京都では客の半歩前を歩いているのではないか。それは「客の感性を変革する」ということだろう。こんなことを京都ではずーっと昔の平安の時代から商売の基本としてきた。この心意気、いつまでも続いて欲しい…今京都。


 




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