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かなやすい

投稿日時 2009-8-27 0:00:00
執筆者 rrb
なやすい
容易な。「この本はカナヤスイ文章で書いたーる」 カナナとも。「この問題はカナナヤとおもう」 平易であるのヤスシは『万葉集』から用いる。ヤサシイ(易しい、優しい)は、もと「痩せる」の意味に基づく。「身を痩せるおもい」「恥ずかしい」の古い意味から、思いやりがある、おとなしい、優美なの意になり、容易なの意になった。反対の「難しい」は、京都では東京のムズカシイに対しムツカシイと発音する。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

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田神宮 (旧フォトヴィレッジ 2007年7月20日掲載)
にぎやかな四条通から新釜座町に入ると、昔ながらの風情を残す一角がある。ここは、以前に紹介した膏薬図子(←クリック)。一軒の民家を見ると、手入れが行き届いた小さな祠がある。鉄板には「史蹟(せき)神田神宮」と書かれ、「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と説明されている。



将門は桓武天皇の子孫で903(延喜3)年頃に生まれる。下総国(現在の千葉県北部など)を本拠とし、上洛して藤原忠平に仕える。関東一帯に平氏一門の間で抗争が広がり、将門は関東諸国を次々に占領。さらに朝廷に対抗し、「新皇」を名乗ったことから逆賊とされ、940(天慶3)年に反対勢力に滅ぼされる。討ち取られた首は京都の町でさらされる。



伝説によれば、将門の首は生きたように目を見開き、歯ぎしりをしたという。さらに、ある夜、突然、首が笑いだし、白い光を放ちながら、自らの胴体を求めて、東の方向へ飛び去ったと言い伝えられる。その後、天変地異が相次ぎ、将門の霊を鎮めようと、各地に首塚が築かれる。最も有名な塚が東京都千代田区大手町のオフィス街にあるという。京都の神田神宮は、空也上人が将門のために、新釜座町の地に供養道場を建てたのが始まりだということだ。



将門の評価は歴史とともに変遷する。中世には祟りを恐れられ、江戸時代には最初の武士として幕府の庇護を受ける。しかし、明治時代には再び逆賊とされ、戦後は逆に朝廷の横暴と闘った英雄となり、人気を集める。今でも、将門の首を切ったと伝えられる子孫が定期的に訪れるという。千年以上を経た今も、将門伝説は消えていない。京都の町民の反骨と優しさが現れた祠だ。この祠がある家は「いつ、なぜ、この地に建立されたかはわからないが、代々、大切に受け継いできた」と語る。平将門をしのび、地元だけではなく、関東からも参拝があるという神田神宮…今京都。


 




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