フォトヴィレッジ

よせる

投稿日時 2009-5-21 0:00:00
執筆者 rrb
せる
子どもの遊びに「うちの子もヨセテやってや」と母が頼む。寄せるの意。交ぜるの意で、マゼテともいう。足し算をヨセ算というか、加えること。子どもが遊戯中に一時中止を申し出るときに、しゃがんで人差し指と親指で輪を作り、「ニッキ」という。見切るの意。鬼ごっこなどで、一時中止を今はタイムというが、「タンマ」は東京周辺から広まった。ためらうの意味だろう。(『京都新聞・折々の京ことば』堀井令以知より)

ばらくの間、コメント欄を閉じます。ご容赦ください。

 (旧フォトヴィレッジ 2007年8月10日掲載)
高校球児の暑い夏の熱い闘いが甲子園で始まると、傍らで「戦争」がささやかれる。夏の灼熱の熱風をはるかにしのぐ原爆の爆風。戦争の悲惨さが語られるたびに目頭が熱くなることがある。夏は様々な意味において「あつい」。



「京都は戦争で焼けなかったから」−戦争体験のある世代の方が京都を訪れると、ひと昔前までなら、必ずこう口にしたものらしいという。古い文化財が受け継がれているのも、街の中心地に瓦屋根が残るのも、100万都市として唯一空襲を免れたおかげ。そしてそれは、米軍が古都の貴重な文化財を保護したから−日本中の人々は長い間そう信じてきたという。しかし、京都は一度も空襲を受けなかったのかというと、そうではない。実際に空襲はあった。他都市の大空襲とは比較にならないが、計6回の空襲を受け、家々が吹き飛び、多くの死傷者が出でいる。「京都は空襲がなかったから助かった」では、実際に被害に遭って亡くなった方々が浮かばれない。



1945(昭和20)年1月16日深夜、三重県方面から来襲したB29爆撃機が京都市上空を旋回したのち、東山区馬町(うままち)に爆弾を落とした。被害の中心地は渋谷通(しぶたにとおり)の東大路東入ル。これが京都空襲の最初。死者41人、負傷者48人、被害家屋は316戸。その後は3月19日(右京区)、4月16日(右京区)、4月22日(北区)、5月11日(上京区、右京区)と続く。6月26日の早朝に上京区の西陣出水・正親地区に馬町と並ぶ規模の空襲があった。死者50人、負傷者66人、被害家屋292戸。



しかし、この情報は、戦時下なので正しい情報が伝わらず「間髪の防空活動に被害は僅少」とされたという。ここに上げた数字も信憑性にかけ、実際はもっと多数の死者・負傷者がいたというのが事実のようだ。日本は平和な時代が続いている。しかし、その裏には戦争という悲惨な人罪があったことを忘れてはいけない。「戦争を知らない子どもたち」ではあるが、戦争は決して繰り返してはいけない。その思いを込めて、これまであまり知られていなかった京都の空襲のお話…今京都。 ※写真は京都嵯峨界隈で本文と写真は関係ないのであしからず。


 




フォトヴィレッジにて更に多くのブログを読むことができます。
http://www.rrbphotovillage.jp

このブログのURL
http://www.rrbphotovillage.jp/modules/rrbblog/details.php?blog_id=543