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因果応報

投稿日時 2008-11-25 0:00:00
執筆者 rrb
んがおうほう…行いに応じてその報いがあること。
◇ちょっと予備知識 → 「因果」とは、もとは仏教語。前世の行いが現世に、現世の行いが来世に報いとなって
                現れることをいう。現在では悪いことに対して使われることが多い。
                類義語に悪因悪果(あくいんあっか)・前因後果(ぜんいんこうか)・
                善因善果(ぜんいんぜんか)・福善禍淫(ふくぜんかいん)がある。

宅八幡宮 vol.3  vol.2はここ
かんの虫封じや病気平癒など子どもの守り神として知られる三宅八幡宮。特に明治時代から昭和の初めにかけて熱烈な信仰を集め、子どもの無事を祈って訪れる人が絶えなかった。多い時には1日に50〜60件も祈祷の申し込みがあったという。また、叡山電鉄三宅八幡駅前に乳母車を貸し出す店があったともいわれる。



現在も祈祷を受ける理由の約3分の1が、かんの虫封じと夜泣き止めで最も多いという。



同神社はもともと、田の虫よけの神として敬われていた。いつ、どういう理由で子どもの神の信仰に変わったのか分からないが、1852(嘉永5)年に子どもを描いた絵馬が奉納されていることから、このころには一定の知名度があったようだ。



こうした信仰が一気に広がるきっかけになった言い伝えがある。幼い祐宮(さちのみや)(後の明治天皇)が病を患った際、女御(にょうご)が同神社に使いを出して平癒を祈願した、というのだ。この話は、宮内省(当時)が大正−昭和初期にかけて編さんした「明治天皇紀」も触れている。



同書によると、北野天満宮などにも使いが出たほか、高僧が加持を行うなど周囲の心配ぶりが伝わるが、なぜ洛中から離れた同神社が選ばれたのだろうか。



京都市文化財保護課によると、傍証として『明治天皇の生母・中山慶子は一時、隣接する修学院村に里子に出されていた。同神社の近くに女官を輩出する家があった。もともと皇室とかかわりが深い土地柄』が挙げられるという。



こうした背景から、女御らの頭に同神社が浮かんだのかもしれないが、資料が乏しくはっきりとはわからない。この話が世に広がると、参拝者が急増した。学区や団体での参拝も珍しくなかったようだ。



600人を超す親子の参拝を描いた明治初年の絵馬も残っており、盛況ぶりがうかがえる。大正末の記録では、祈祷を受けた人の約7割が3歳以下なので、かんの虫封じや夜泣き止め祈願が多かったのではないかと想像する。


(子どもを描いた絵馬)

今は、医学の発達もあり、かんの虫封じで祈祷を受ける人は昔ほど多くはないだろう。それでもインターネットで調べて来る人もあり、子どもの無事を願う気持ちは今も変わらない…今京都。(続く)


 




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