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威風堂堂

投稿日時 2008-11-21 0:00:00
執筆者 rrb
ふうどうどう…威厳に満ちていて立派なこと。侵しがたい気品があふれていて堂々としているさま。
◇ちょっと予備知識 → 「威風」は周囲を圧倒するような威厳。威光がほかに及ぶようなものをいう。
                類義語に威風凛凛(いふうりんりん)・威武堂堂(いぶどうどう)・
                耀武揚威(ようぶようい)がある。

宅八幡宮 vol.1
叡山電鉄鞍馬線「八幡前」下車し、東側の山の麓方向へ歩いてすぐ、こんもりとした森の中に三宅八幡神社がある。



この辺りは近くに町名に“小野”を冠にした小野町が存在するように、愛宕郡小野郷とされるところ。推古天皇の遣隋使であった小野妹子ら小野氏一族が居住していたとする地域。



もともと小野一族は近江国(滋賀県)、琵琶湖西岸の小野村(現大津市志賀町)に住んでいたが、何らかの意図をもって都に近く、また北陸路の要所である高野に進出したという。さらに一族の一部は随心院(山科区小野)あたりにも移り住み、平安時代の歌人小野小町が誕生している。



三宅八幡神社の駒札によると、推古天皇の時代、小野妹子が遣隋使として隋(中国)へ赴く(607年)途中、九州の筑紫を過ぎた辺りで病気になったことから、宇佐八幡宮(現大分県宇佐市の宇佐神宮)に参詣し、祈ったところ完治。



妹子は、隋(中国)から帰国後、報恩のため宇佐八幡を勧請し王城鎮護のみならず一族の守護を祈願するため祀ったのがこの社の起源であるといわれている。



当初、社殿はここより少し南の伊多太(いただ)神社境内にあったが、維新後に三宅八幡神社のみ現在地に移設された。なお、伊多太神社自体も1908(明治41)年に崇道神社へ合祀され、旧地には石碑が残るのみとなっている。



その後三宅八幡神社は、岩倉に移り住んでいた南朝の忠臣「備後三郎三宅高徳」が大神を尊崇したことから、いつしか「三宅八幡宮」と称するようになったという…今京都。(続く)


 




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