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歓天喜地

投稿日時 2008-9-17 0:00:00
執筆者 rrb
んてんきち…非常に喜ぶこと。天を仰いで、地に向かって喜ぶような大きな喜び。
◇ちょっと予備知識 → 「歓」は叫び喜ぶこと。「喜」は、もとは楽器を奏でて喜ぶこと。
                類義語に歓欣鼓舞(かんきんこぶ)・狂喜乱舞(きょうきらんぶ)・
                欣喜雀躍(きんきじゃくやく)・手舞足踏(しゅぶそくとう)がある。

付教室
最近はすっかり核家族化してしまい、母親や若いおばあちゃんの中には娘に着物を着せられない人が増えているという。そのためか京都でも着付教室が結構人気を集めている。もちろん着物が気軽に着られるようになることはいいことだと思う。



ところが、先日、着物関係の方から「一部の着付教室では、着物をいかに楽に着るかということに主眼が置かれており、着こなすということがどこかにいってしまったかのように思う」というお話を聞いた。着物は楽に着るとすぐに着崩れを起こすということを知らないまま着ると大変なことになる。さらに、成人式やお祭りなどできものを着ている人を見かけると、着こなしているというより着付けられているといった感じがする。



「着こなす」とは着物を自分のものにすることで、そのためには、まずしっかりと着ることからはじめなくてはならないというのだ。芸妓さんや役者さんが、なぜ着崩れしないかというと、力のある男性の着付師がしっかり着付けるからである。本来、着物とは自分の皮膚の一部と感じるほど、体に馴染むようにきっちりきつく着るものである。



以前に、専門のお衣装さんに着物を着せてもらったとき、食事もできないほど帯をきつく締められて、随分苦しい思いをした。それがだんだん慣れて平気になり、帯のきつさで、かえって気持ちも引き締まるようになってくる。その時、お衣装さんから、「着物は制約のあるもの、動きにくいものだから、着物に自分の体を合わせるようにしなければいけない」と教えられた。祖母からも同じことを言われた。



京都は1000年以上の長い歴史の中で、他の地域から入ってきた人々の外圧を常に受けながらもそれに負けず、そしてまた暑さ寒さのきびしい自然環境にも耐えてきた。きびしい窮屈な状況の中で京都人が皮膚で覚えてきた暮らしの知恵と、きつい着物を上手に着こなすことが、どことなく結びつくように感じる。
近頃は、着物を着る方が少なくなった。京都においてもいろいろと工夫をこらし、着物の振興に力を注いでいるが、着物だけでなく、日本人の生活文化というべきものを、もう一度考え直してみる必要があるのではないか。



たとえば、着物の似合う家づくり、町づくり、雰囲気づくりが大切だと思う。このままでは、着物はただフォーマルな衣服になってしまいそうだという。きっちりきつく着こなした着物姿に、京都人が見えてくる。窮屈だといって脱ぎ捨ててしまうことから、京都が京都でなくなってしまうような気がするという京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。


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