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肝胆相照

投稿日時 2008-9-5 0:00:00
執筆者 rrb
んたんそうしょう…心の底まで打ち解けて理解している間柄。また、そのように親しく深いつき合い。
◇ちょっと予備知識 → 「肝胆」は肝臓と胆のう。そこから、心の奥底。「相照」は「あいてらす」とも読む。

見送り
昔から、人様のお家を訪問する時には訪問する者が気をつかい、辞去する時にはその家の者が気を使うものだといわれている。もし、辞去する時に、玄関を出てまだほんの少ししか歩を進めていないのに門灯が消えたり、玄関の鍵がかけられたりしたら、一体どんな気持ちになるだろう。せっかくの楽しいひと時や思いも一気に消えうせてしまうに違いない。



京都では、門の前まで出てお客さんが曲がり角を曲がるまでお見送りするという習慣がある。お部屋で別れの挨拶をして、玄関でもう一度、そして門の前で、曲がり角で…と何度も何度もお辞儀をしながらお別れをする。京都ではこれが当たり前なのである。



このようなことができる理由はひとつには京都には辻が多く、お見送りするのにちょうどよい距離だというのも影響しているかもしれない。しかし、場所によっては結構長い距離もあるが、基本は曲がり角で曲がって姿が見えなくなるまでお見送りする。



こんな京都の礼儀作法、これが自然と身につき育った者にとっては、なんの疑問も抱かないが、他の地域の人からは何度も何度もお辞儀を繰り返す京都人を理解してもらえず、こういったところをとらえて京都人ししつこいとか慇懃無礼だといわれるのかもしれない。



しかし、これはせっかくご訪問くださったお客さんに対する礼儀というものであり、楽しかったという余韻を、大切にしていることでもある。そして、またのご訪問をお待ちしていますよという気持ちを、心を、行為で示している。ことばで示すかわりに、曲がり角まで見送るという京都のこのあたりまえが、全てを表現し、物語っている。



京都のお別れの作法は、再会への序奏でもある。人との出会い、そして別れ。人の一生はその繰り返しかもしれないが、その時々の人と人とのふれあいを、ただ表面的な形だけにせず、そこに心をいかにこめるかを、京都人はずっと以前より考えていたのであろう。
訪問なされたお客さんにも、まったく同じことが言える。帰る時には、曲がり角まできたらもう一度振り向いて家人にお辞儀をする。



最近、さみしいことだが、お客さんの振り向きがないという。また、このお見送りは料亭などでは今でも見受けられるが、一般家庭ではなくなってきているという。
先日、ちょっとした宴の席で訪問したお店がこの作法をきちんとされていた。
「まだ、見送っている。いったいいつまで見送るん?」
「んっ、多分、あの曲がり角まで」
「えっ、ほんま?」
「ほんまやで。曲がるときにお辞儀するよ」
「ほんまや、お辞儀したはる」
「ほな、ウチらもしとこな」
という会話で思い出した京都の文化のお話…今京都。 ※写真は京都の町並みで本文とは関係ないのであしからず。

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